エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【アニメ考察】『おそ松さん』記号とリアルの狭間

おそ松さんは、言わずと知れた赤塚不二夫のギャグ漫画『おそ松くん』を原作(原案?)としたギャグアニメであり、一期放送当時爆発的人気を博し、今放送されている二期もこの三月に無事最終回を迎える。

賛否色々あった二期であるが、わたし個人的には一期に続き大変楽しめたので、最終回を前に寂しい気持ちでいっぱいである。

おそ松さんファンを公言して幾星霜。
好きだからこそ手を出せないでいたが、最終回を前にしたこのタイミングで一度、無粋とはわかりつつも先日放送された二期24話「桜」までを踏まえて、おそ松さんとは何者なのかという考察に興じてみたい。

 

●「おそ松くん」とは何者か

まず前提としておそ松くんはギャグ漫画である。
基本のスラップスティックコメディを始め、パロディ、シチュエーションコント、メタ、エログロ、シュールなど何でもあり。何でもありなので、お話のオチで爆発しようが、次の話ではしれっと無かったことになって生き返っているし、分裂しようが巨大化しようが特に問題にならない。

彼らはキャラクターであり、キャラクターとはつまり性質であり、記号である。
記号なので生も死もない。
その辺りはアメリカのカートゥーントムとジェリーが輪切りになったり変形したりしているのを見ればよくわかるだろう。
+はどこまでいっても+で、ある時からそれが-や×に変わることはあり得ない。それが記号の本質であり、キャラクターがキャラクターたる所以である。

おそ松くんでは、おそ松からトド松までがはちゃめちゃな六つ子の少年というひとつの記号である。
イヤミの言を借りれば「誰が誰でもおんなじざんす」。
赤塚不二夫の過激なギャグを演じるためには、彼らは必然的に記号的キャラクターでなければならないのである。

しかし、おそ松さんが現代の作品として生まれ変わるためには、このおそ松くんがおそ松くんたる所以の「六つ子の少年という記号」を手放さなければならなかったのである。

 

●六つ子は何者になったのか

まず、おそ松さんでは、彼らは大人になっており、見た目からして全員が同じ顔だったくん時代とは違い、一目で見分けがつくような差別化がなされている。つまりそれぞれが別々の記号になっている。グラサンをかけている奴を見て、「あ、十四松だ!」という判断をする人はいないだろう。
そしてそれぞれは内面もまったく別の人格へと成長している。

 

おそ松→小学生メンタルのクズ
カラ松→痛いナルシスト
チョロ松→真面目ぶったドルオタ
一松→ネガティブな危険人物で猫好き
十四松→人外バカ
トド松→女子力高い現代っ子

 

「六つ子の少年という記号」に変わり、これが彼らに与えられた記号というわけである。
原作でおそ松くんの主役がいつしかイヤミに取って代わられてしまったことを鑑みるに、「六つ子の少年という記号」は唯一無二でありながらも、その影響力は低く弱い。新しい(しかも記念作品)アニメシリーズには明らかに役者不足なのだ。
幻の第1話で、彼らが自らの昭和感を危惧していたことや、あらゆる人気アニメのアイコン=キャラクターを模倣し試行錯誤していたことからもそれは汲み取れるだろう。

現代のアニメに生まれ変わるにあたり、彼らは主役を維持するために別々の記号にならなければならなかったのである。

 

ただ、ファンの人々はすでにご存じであろうが、物語が進むにつれてこの新たに彼らに与えられた記号が信用できないものであると判明する。

全員出すと面倒なので、一松を例に見てみよう。
一松はネガティブな危険人物に見えるが、実はガラスのハートで傷つくのが怖い臆病な人物であり、口は悪いが兄弟を大事にしており結構悪ノリもする明るさも持っている。密かに陽キャに憧れているところもある。あと猫が好き。
どうだろう。こんな長い記号、覚えられるだろうか。
極め付けはカラ松への対応である。当初は毛嫌いしており当たりが強かったが、一期16話「一松事変」で助けてもらってからはその対応が(若干)軟化している。これは一松の中のカラ松という人物評に変化があったためであり、つまり一松という記号は時間経過によってその性質が変わるものなのである。もはやそれは記号とはいえない。それは記号ではなく矛盾を常にはらんだリアルな感情を持つ人間そのものである。

 

上記幻の第1話で、あらゆるキャラクターを模倣した結果世界観はめちゃくちゃになってしまったが、ここで明示されているのは安易なキャラクター付けは成功しないという教訓である。


模索して生き残るために彼らが身につけなければならなかったものとは、実は新しい記号ではなく時間の流れの中で変化するリアルな肉体であったのだ。


●記号であろうとするおそ松の苦悩
前述したことを思い出してほしい、赤塚不二夫のギャグ漫画の過激さに耐えうるには記号化された不死身のキャラクターが不可欠であるはずなのに、おそ松さんの世界には時間が流れており、登場人物は生身の肉体を持ってしまった。つまり彼らには死があることが明示されてしまった。

それにもかかわらず、実際おそ松さんはキレのあるギャグを繰り出し、爆落ちもしょっちゅうである。
なぜリアルな肉体を持つ彼らにその記号的な動きが出来るのだろうか。

実は、おそ松さんの登場人物の中に、世界をおそ松くんの世界(記号的キャラクターが支配する世界)から逸脱しないようコントロールするバランサーがいるのである。
その役目を果たしているのが、おそ松とイヤミだ。
おそ松は六つ子の長男でありリーダーとして他の兄弟たちを取り仕切る立場にある。彼はアニメおそ松さんが持て余したおそ松くんたる所以、「六つ子の少年という記号」(それもすでに記号としての役割を失い形骸化した)をぎりぎりで繋ぎ止めている唯一の兄弟である。
おそ松以外の兄弟が個性を与えられ性格服装共にくん時代より変化しているのに対し、おそ松は子供の頃と同じ顔であり、性格も小学生メンタルのバカという変わらなさである。
つまり彼はただひとりおそ松くんの面影を残した兄弟なのである。

彼が終始働くことに否定的なのは、大人になった彼らが「六つ子の少年」であるために選ばざるを得なかったのがニートという職業(職業ではないがw)であるためである。
おそ松は「六つ子の少年」でなくなったとき彼ら6人の兄弟、ひいてはおそ松さんという番組が崩壊することを知っているのだ。

もう一人のイヤミは、言わずもがなおそ松くんの代名詞ギャグ「シェー」の人であり、作中唯一全ての面において原作を維持しているキャラクターである。彼は六つ子の見分けがつかず、いつも名前を間違えている。まさに誰が誰でもおんなじざんす。
イヤミは、おそ松くんの世界をそのまま生きているので、おそ松たちと絡む際も「六つ子の少年」以上の情報を必要としないのである。
一期21話の「逆襲のイヤミ」でイヤミの分解光線でみんな殺されてしまったが、なぜかおそ松だけは生きていたことを覚えているだろうか。
それはなぜか。イヤミとおそ松が未だ記号のキャラクターであるからにほかならない。


おそ松(とイヤミ)が、おそ松くんからおそ松さんが引き継いだギャグの世界線あるいは、記号的な虚構の世界が、リアルな人間の世界に引きずられないように手綱をとってバランスすることで、おそ松さんという世界観が存在していたのである。

しかし、一期1話で復活した誰が誰でも同じなおそ松くんたちは、話数を重ねるごとに記号から逸脱し複雑な精神を持った生身の人間へ枝分かれしていった。そして一期24話「手紙」。物議を醸し出したこの回で、とうとう瀬戸際でおそ松が守っていたバランスが崩れる事態が発生する。
記号的な虚構の世界が、生身の人間が支配するリアルの世界に乗っ取られてしまったのである。
その原因はもちろん、チョロ松の就職による「六つ子の少年」という記号の完全な喪失である。
これはつまりおそ松さんという番組の崩壊を意味している。


たとえば超人ギャグマシーン・変幻自在の十四松も、リアルな世界になるととたんにただの人になってしまうことは、
一期9話「十四松の恋」において、彼がではいくら走っても彼女の新幹線に追いつくことはできなかったことですでに描かれている。24話でもおそ松に蹴り飛ばされた際、すぐに復活したら弾き返す等カートゥーンな動きをすることなく怯えて痛がることしかできない様子が描かれている。
チョロ松してもあの簡素な作りからは考えられないような複雑な表情で男泣きを見せ、イヤミがいくら挑発やシェーを繰り出すもツッコミをすることはなかった。
これではギャグ漫画(アニメ)としての体面を維持できるはずがない。

ギャグ、特におそ松さんのような登場人物が別のキャラクターを演じるコント形式のものは、演者(ここではおそ松たち)の生々しい背景が見えてしまうと途端にそのつまらなくなってしまうのである。
それなのに、体面を守りこれまで番組を牽引してきたおそ松はというと、崩壊に対しただ憮然とし沈黙とすることしかできなかった。なぜなら「六つ子」であることを奪われリアルの世界に取り残された彼には、もはや何の力も残っていないからである。

●おそ松の逆襲
しかしご存知の通り、
一期の25話の冒頭から、おそ松による怒涛の逆襲が始まる。
おそ松がセンバツという力技で、ギャグの世界線に引き戻したのである。
たちまち24話のサブタイでもあったチョロ松の手紙は発火し、十四松の怪我は消えて無くなり、6人のハートがひとつになってあっという間に「誰が誰でもおんなじ六つ子の少年」に逆戻り。

最後は宇宙に飛んで行くカオスな展開。バランスを取り戻すどころか、勢い余ってギャグに全振りした大変気持ちの良い最終回であった。

おそ松の華々しい勝利である。

 

さて、宇宙から舞い戻ってきた6人によってちゃんとしようと始まった二期も、いよいよ佳境の24話「桜」を迎えた。ここで一期で一度バランスを取り戻したおそ松さんの世界は再び崩壊の危機に瀕しようとしている。
今回は一期の24話よりよほど深刻である。
その理由はおそ松がリアルの側に立ってしまったということにある。
松蔵の病という記号の世界にとって最も縁遠い、リアルな死の影(幸い松蔵は快方したが)の描写の導入が、彼を記号の世界線から引きずり出してしまったのである。
おそ松は、一期24話で自身だけは最後まで堅持しようとしていた「六つ子の少年という記号」の完全な撤廃を自ら宣言し、結果彼は「松野」という無個性なラーメン屋のバイト青年に変わってしまった。
もう一人の牽引者イヤミはというと、二期23話で自らをおそ松さんに溶け込めないと判断している。彼が一番輝いたのが戦後を舞台にした「イヤミはひとり風のなか」であるというのも中々暗示的である(さすがに深読みか)。
そしてイヤミは24話においてはリアルに身を置いてしまったおそ松と袂を分かち、記号的な虚構の世界をおそ松さんの世界と切り離し去っていくという恐ろしい結論に達してしまった。
おそ松とイヤミを失ったおそ松さんの崩壊はもう止まらない。

 

唯一の救いはおそ松が崩壊に対し、自覚的ということである。
トト子ちゃんに打ち明けた「自分はまだおそ松でいれているか」という問いは、記号である自身が失われていくという危機を自覚している現れである。

「これでいいのか?」と自問を繰り返すおそ松は、はたして最終回で「これでいいのだ」をとりもどすことができるのだろうか。

 

おそらくはこれを載せる時には、最終回の本放送が世に出ていることだろう。

そして、すでにこの文章がちゃんちゃら可笑しいピエロの世迷言となっていることだろうと思う。いやそうなってほしい。

悲しき地方民は土曜日深夜まで、記号・キャラクターの持つ無限の可能性が、しけたリアルの世界に風穴を開けて、スッキリ大笑いさせてくれることを期待しながら全裸待機することにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

【映画感想】ドラえもん短編映画③『がんばれジャイアン』

ドラえもん短編映画最後の一本は、まさかのジャイアンが主役である。

これは隠れた名作。

ジャイアンの男気が堪能できること請け合いな、ジャイアンファンにはたまらない一本である。
メインはジャイアンジャイ子

ドラえもんのび太、しずかちゃん、スネ夫は登場しますがあくまでもわき役としての役回りである。こんなことができるのが円熟期のドラえもんの良さであろう。

雪のシーンで、ドラえもんジャイアンの気持ちを慮った道具を出すところなど、大山ドラえもんののび太たちより少し大人の視点を持った所謂保護者的な立ち位置が顕著に表れている。
今挙げたジャイアンの気持ちを汲むドラえもん、原稿を探してくれた仲間の友情に感謝しつつ迷惑をかけまいとするジャイアン、またそんなジャイアンを理解して最後までそっと見守るドラえもんのび太
あえてセリフにせず、登場人物たちの相手への思いやりを行動で示すことこそアニメや映画の本懐ではないだろうか。そういった演出がこの作品では実に光っている。また小道具や表情、間で感情の機微を表現することについてもこの映画は一級であるだろう。
妹に好きな男ができた→それを知った兄が妹への愛情ゆえに怒り狂う。

これはよくあるコミカルでわかりやすい演出であるが、この映画ではあえてその簡単な表現方法を取っていない。
もて君(ジャイ子の想い人)に対して、まずジャイアンは相手の真意を確かめようとしている。そしてジャイ子の気持ちを知るやショックもあれど自分のエゴを押し付けず(基本的にジャイアンの愛はから回っていますがw)、黙って後押ししようとするのである。
前述したよくある演出では兄が自分の気持ちを整理して妹を応援することでその気持ちの変化がクライマックスになるのだが、この映画では最初から兄は自分の気持ちよりも妹の気持ちを優先する。妹を導き守る立場としてもぶれることがない。この映画は互いを思いやる兄妹の気持ちのすれ違いに軸を置いている。

このわかりづらく地味な展開を短時間で魅せる制作陣の力量は見事。

最小限かつ象徴的な道具使いとドラえもんの活躍、ジャイアンの漢気の若干古臭さを良いものであると同時にコミカル要素としても活用したのか、落語や丁子木などの小道具がいい味出している。

ジャイ子たちを目撃したしずかちゃんの動きが個人的にツボだった。
また、エンディングのダ・カーポの歌声が映画の内容も相まって優しい気持ちにさせてくれる。

最後、ジャイアンの映った写真を直す、指輪をはめた女性の手はおそらく大人になったジャイ子のものか。グッとくる素敵な演出である。
いやー、やはりジャイアンこそアニメ界の理想の兄キですね。

ジャイアンファンはぜひ見るべき一本。

 

 


【映画感想】ドラえもん短編映画②『のび太のぼくの生まれた日』

ドラえもん短編映画感想、前回は大人のび太の話だったが、今回は子供のび太の話である。

 

家出をしたのび太が、過去に遡り自分が生まれた頃の両親に出会うというお話。

 

冒頭から一貫して描かれていた一本の木。ファミリーツリーとしての野比一家の軌跡と一本の木をなぞらえて、ラストの父を中心として寄り添う野比一家〈もちろんドラえもんも〉へと帰結する演出は見事。大山ドラえもんの母性がここぞというほど発揮されている。やっぱりドラえもんの安心感はこの母性だと思うの。
ドラマの背景には、過度なほど街並みが描かれている。古い家々が残る地区から区画整理された更地へ、過去に戻るとどぶ川にたもを下す子供たち、平屋の古い家々の遠くに立て掛けのビル群。変わっていく街並みとある一本の木を通して、この時代変わりつつあった家族の形とそれでも変わらない家族の絆を表現したのではないだろうか。

 

 

 

 

【映画感想】ドラえもん短編映画①『のび太の結婚前夜』

大山版のドラえもん後期の短編は、大人向けにも十分通用するハイクオリティなものばかりである。むしろ大人になってみるとよりグッとくる。

そんな素敵な短編映画のうちいくつかを3回に分けて紹介したい。

ちなみに名作と誉れ高い『おばあちゃんの思い出』は今の所未視聴である。

だって絶対に泣くからさー。

 

ということで、1回目は青年期ののび太が主役の『のび太結婚前夜』の感想を書いていきたい。

 

小学生ののび太は、本当にしずかちゃんとちゃんと結婚できるのか不安を覚え、未来を見に行くことにする。着いた先は、ちょうどのび太としずかちゃんの結婚直前であった。

 

未来で描かれた青年になっても変わらないのび太の優しさは、しずかちゃんが選んだ理由としても納得。式場でのウェディングドレス試着時の靴の向きなど大変細かいところに行き届いた演出が光る。ジャイアンの歌に「へたくそ~」とヤジを入れたり(そしてそれに対するジャイアンもしかり)、小学生時代の先生にジャイアンのことを豪田と言ったり、あののび太が時を重ねて大人になっているのが、感じ取れるようなセリフ回しはみごとである。それにしてもジャイアンスネ夫出木杉君も、子供時代からの仲間っていいものだ。疎遠にならずに良好な友人関係を続けているのが微笑ましい。

スタンドバイミーではなんだか頼りない大人のび太になっていたが、この作品では心身ともに成長した素敵な青年になっている。しずかちゃん、のび太を選んで本当によかったね。

 

 

 

【アニメ感想】『伊藤潤二コレクション』グロと怪奇と時々ユーモア。一周回って愛おしい。

伊藤潤二作品との出会いは新宿のカプセルホテルの談話室の、やけにマニアックなタイトルが並ぶ本棚の一角で見つけた『富江』であった。その耽美な絵柄と不条理な内容は新宿の奇妙な一夜とともに心に刻まれた。刻まれはしたが、ディープなエログロナンセンスの趣味がなかったので、その時はその良さを理解できなかった。

伊藤潤二作品のユーモアがハマったのは猫エッセイ漫画『よん&むー』である。

怪奇な絵柄と愛らしい内容の妙にだいぶ笑った。 

オムニバスアニメ『伊藤潤二コレクション』第1話Aパートの「双一の勝手な呪い」も『よんむー』と同じく怪奇な絵柄と愛らしい(この場合はおバカな?)内容のギャップ楽しい作風である。

一言で言えば、陰気なくせに自信過剰な小学生・双一が、ガチの呪い能力で周囲に迷惑をかけるという話である。

簡単にしか言わなかったのは、先にも書いた絵柄とのギャップのシュールさで笑いを取っていくスタイルなので、文字だけにしては意味がないからである。

それだけそのギャップが凄まじい。

ホラーやエログロが苦手な人もこのAパートまではぜひ観ていただきたい。

CV三ツ矢さんの名演技も相まって、双一が段々愛おしく見えてくるから不思議なものだ。

怪奇でどこかユーモラスであるのが伊藤潤二作品の魅力であるが、これはユーモアに全振りしたお話である。機会があればぜひ漫画に手を出したいものである。

 

さて、ホラーとエログロが苦手な諸氏はここで一旦以降観るかどうするかを悩んで欲しい。オープニング映像から感じた不快感が強い方は、ここでやめたほうが賢明である。

 

3話まで視聴した個人の感想であるが、

1話B「地獄の人形葬」、2話B「長い夢」、3話B「蛞蝓少女」は、グロの割合が強くトラウマ度が高い。

とくに「長い夢」はグロに加えて、ストーリーの組み立てが上手いが故か、視聴後の不安感が抜群である。寝る前には絶対観たくない。

「人形葬」と「蛞蝓少女」はストレートにグロい。どちらかと言えば「蛞蝓少女」のほうがツッコミどころがある分楽しめるかもしれない。

わりと洋物ホラー寄りなのが2話A「ファッションモデル」である。これは、冨樫義博作『HUNTER×HUNTER』のヒソカでお馴染み?の淵さん登場回である。

3話B『四つ辻の美少年』はホラー度が強い作風である。グロさも若干控えめなので、怪しげな辻の風景、主人公やヒロインらキャラクターの耽美な容貌も落ち着いて堪能できる。ストーリーとしてもまとまっているので一番観やすいのではないだろうか。

話はそれるが、最近、起承転結の結部分にはっきりとわかりやすいオチがないものに対し、投げっぽないしでつまらない、手抜きであるという批判をネットで見かける。

全ての作品にはっきりとオチを求め解明したがる風潮はいかがなものか。

ことホラーに関しては、因果応報ものならともかく、結果を提示しないことで起こる、正体が分からないものへの恐怖というのも大きな魅力であると思う。テレビで心霊写真なんかについて霊媒師が片っ端から原因を説明しているのを見ると特に。

 

寄り道しすぎちゃった。

話を『伊藤潤二コレクション』に戻す。

伊藤潤二作品を雰囲気を壊さず映像にするのは難しいように思うが、この作品ではかなり成功しているのではないだろうか。とくにキャラクターは、元絵の美しい(または気持ち悪い)繊細なタッチが絶妙に再現されている。

それもそのはず監督とキャラクターデザインは田頭しのぶである。

田頭さんを知ったのは『ハンター×ハンター(1999年)』の作監としてであった。彼女の絵はハンターアニメで1・2を争う美しさ(セル画当時は作画監督によって毎回絵柄が変わっていた)で特にテレビ版最終回が素晴らしかったように記憶している。繊細で丁寧な、そこはかとない色気のある絵を描く人だという印象だ。

ますます今後放送されるであろう「富江」回が楽しみである。

 

オープニングやエンディングも秀逸なので、きっとセンスがあるスタッフが集結しているのだろう。

 

ホラーやエログロに耐性がある人は、観て損はない完成度の高い作品である。

しかもオムニバス形式なので見逃しても大丈夫!

 

冬のホラーも乙なもの。

この機会にぜひ伊藤潤二ワールドを体験してみては?

 

 

 

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伊藤潤二の猫日記 よん&むー (ワイドKC 週刊少年マガジン)

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【映画紹介】『スリーピーホロウ』ハロウィンの夜はゴシックホラーを……。

今回はティムバートン監督作品の『スリーピーホロウ』を紹介する。

主役はもちろんジョニーデップ。個人的にはティムバートン作品の中で「ビッグフィッシュ」「シザーハンズ」と共に最も好きな作品である。本作はアメリカ・ニューヨーク州に伝わる首なし騎士の伝説を基にワシントン・アーヴィングが執筆した小説を原作としたゴシックホラーである。

物語は新世紀を目前とした18世紀末のアメリカ北東部。ニューヨーク市警の捜査官イカボットは、首なし猟奇殺人事件捜査のため、森に囲まれた小さな村スリーピーホロウを訪れる。さっそく捜査を開始するイカボットであったが、住人たちは揃って事件の犯人は首なし騎士の亡霊であると主張する。科学捜査を信念とするイカボットが否定する中新たな殺人事件が……。

ホラー耐性がある人にはむしろマイルドなくらいだが、心臓の弱い方や残酷シーンの苦手な方はご覧にならない方が良いだろう。
首なし殺人事件、首なし騎士ときたのでお判りとは思うが、ジャコバン派もかくやと言わんばかりの首チョンパ祭りだからである。彩度を落とした映像でいくらか緩和されているものの、生首や血しぶきの描写もある。
とはいえ、ナイトメアビフォアクリスマスを筆頭にブラックユーモアに長けたティムバートン監督作品であるから、ただの猟奇シーンにはならずどこかユーモラス、それでいて怪奇で耽美な雰囲気たっぷりで魅せてくれる。

ここからはスリーピーホロウの楽しみ方と題して、私的映画の魅力を語っていくので、よろしければ参考にされたい。ちなみに少しだけネタバレありなのでご注意(物語の核心には触れないよ!)

①ゴシックホラーな雰囲気にぞくり
魔術が生きており、幽霊騎士が徘徊する不気味な森、その森に閉ざされた古めかしくうら寂しい村スリーピーホロウ(眠れる窪地)。薄暗い画面越しに伝わる背すじが泡立つような空気感(過度に主張しすぎないBGMも無意識に緊張を高めてくれる)は、視聴者をあっという間に物語の中へ引きこんでくれる。ホラーものは何より雰囲気が命だが、薄暗い畑の中に佇むお化けカボチャのかかし、マジックランタンが映し出す魔女の影、霧深い森、クリスティーナ・リッチ演じるカトリーヌのどこかクラシカルで気品ある佇まいなどなど、小物から画面の色遣い、シーンの端々に至るまで世界観が完成されているので、安心して物語に入り込むことができる。

②イカボット警部がヘタレかわいい!
ジョニー・デップ演じるイカボット・クレーン警部はニューヨーク市警の鼻つまみ者。ずさんな捜査しかしない市警でひとり科学捜査を進言するも煙たがられている。
そんなイカボット警部がチョイチョイ見せるヘタレっぷりに注目。

ヘタレ①首なし騎士に遭遇し、恐怖のあまり気絶!

ヘタレ②首なし騎士にびびって混乱!
村を訪れた時

村人「犯人は首なし騎士の仕業だ」
イカ「そんなものいない(キリッ)」
首なし騎士と遭遇後

イカ「犯人は首なし騎士だ!(ガクブル)」
村人「知ってるよ、最初から言ってんじゃん」
イカ「いや君達は分かってない!」
村人「……(なんだこいつ)」

ヘタレ③村はずれに住む魔女の家を訪れるも、びびってマスバス(助手の子供)を盾にする。

ヘタレ④ふつうに蜘蛛怖い。

などなど。
基本的には正義感に溢れ、首なし騎士の謎にも敢然と立ち向かうイカボットさんだが、冷静に振舞っているものの、しばしば上記のようなヘタレな一面が見え隠れする。イカボットの隣にいるせいで助手の少年が何倍も男らしく見えるほどである(事実マスバスは本当に頼りになる男である)。
頼りなく繊細そうな雰囲気に母性本能をくすぐられる女性も多いことだろう。ちなみにこの時のジョニデは髪型といいちょっと稲垣吾郎に似ている。

③かわいいカトリーナと豪華出演者たち!
カトリーナを演じるクリスティーナ・リッチは、日本では何かと怪奇チックな作品でお馴染みの女優さんで、「アダムスファミリー」ではクールなアダムス家の長女ウェンズディを、「キャスパー」では幽霊屋敷に越してきた少女キャットを演じている。
なるほど、彼女のクラシカルで品のある顔立ちとミステリアスな雰囲気は、古い慣習の残るスリーピーホロウの令嬢カトリーナにぴったりである。
カトリーナの健気でどこか魔術的な美しさにはイカボットならずとも虜になってしまうはずだ。クリスティーナ・リッチってブロンドが結構似合うと思う。
ジョニー・デップクリスティーナ・リッチの他にも「ハリーポッター」のダンブルドア校長を演じたマイケル・ガンボン、映画「ドラキュラ」でドラキュラ役を務めたクリストファー・リーなど有名な俳優たちが出演している。
中でも首なし騎士を演じたクリストファー・ウォーケンのかっこよさといったらない。

③ミステリーとしての面白さ
この物語の面白さの1つに、謎解き要素がある。都会の探偵が古い因習の残る村で事件に遭遇するというのは、シャーロックホームズや横溝正史作品などでもおなじみである。
首なし騎士とは何者か?
なぜ首を持ち去るのか?
物語が進むにつれ浮かび上がる意外な真実とは?
探偵役のイカボットとともに、首なし騎士ミステリーを紐解いていく面白さを堪能しよう。

 

ハロウィンの夜にはぜひ、『スリーピーホロウ』でホラーな気分を味わって見ては?

 

 

 

【アニメ感想】『覇穹 封神演義』第1話

封神演義』の2度目のアニメ化。 原作ファンのわたしはなんやかんや封神演義の世界観が動画で観れることを楽しみにしていたのだが(前作は地方格差の影響で未視聴)、1話を観た感想はなんというか、期待はずれだった。

 

率直にいうと構成が上手くない。 世界観と登場人物、ストーリーの紹介回としての1話として完全に失敗している。


※あくまで個人の意見であり、あまり良いことを書いていないので、アニメが楽しかったという人はここでそっ閉じしよう!いえ、してください!
 
1話のあらすじは以下の通り。

冒頭でなぜか聞仲と太公望のサシの勝負場面となる。しかも長い尺で。 その後OPを挟み本編スタート。太公望が登場してすぐ、元始天尊による封神計画の説明が専門用語を存分に使ってさらっと行われる。
原作通り申公豹との遭遇があり、雷公鞭の威力をたっぷり見せつけられる。
そのあとは原作の地味な部分(でも重要なことがある)を大胆に省き、いきなり駆け足で最初の山場である妲己との対決に突入、しかしそこで大したドラマも描かれず当然盛り上がることなく終了。なぜか原作にない人気キャラ普賢真人の回想を得て続く。 次回、人気キャラの哪吒登場。
ちょっと悪意ある書き方だが概ねこのような感じである。
ほぼ単行本1冊プラス1話に相当する。
恐ろしいほどの駆け足である。

 

まず最初&最大の失敗は無意味なプロローグを入れたところであるといって良いだろう。
原作漫画のプロローグはというと、古代中国の世界観説明があり、国を乱す妲己の悪行が描写されている。 特に妲己の悪行部分は、悪い妖怪に支配された国を救うというお決まりのパターンを読者に意識させることで、必要以上にコマを割くことなく作品世界の状況をうまく把握させる助けになっている。
封神演義は中国の作品なので漢字の専門用語のオンパレードであるが、敵を倒し国を救う話だという部分を理解していれば、「封神計画=敵の倒し方」や「味方の宝貝(仙人の武器)=戦う道具」というようになんとなく設定を覚えられる。 アニメでは最初に聞仲とのバトルを入れて原作通りのプロローグを省いたせいで、世界観も敵も目的もよく分からない状態で淡々と元始天尊の説明が始まるので、原作読者ならともかく未読の視聴者はちんぷんかんぷんだろう。
しかも聞仲がラスボスというのを匂わせた表現をしたあと、その後の説明では敵のボスは妲己だと言われ、聞仲に関してはなんの情報も与えられない。
初見の人は思ったはずだ。
「で、最初の金パは誰なんだ」と。

 

人気キャラの聞仲のお披露目のつもりなのか知れないが(この始まり方だとアニメのクライマックスは仙界大戦か)、ただ大戦終盤の映像を垂れ流しただけであり、ここで見せる必要性が全く感じられない。
むしろこの部分は終盤を盛り上げるためには先に出しちゃダメな部類の映像である。 人間らしい聞仲を先に出しちゃったらクライマックスの熱い展開に水を差しかねない、とよけいな心配までしてしまった。

 

ともかくこういう無駄なサービスシーンを入れる一方、他のものをセリフによる説明に頼り過ぎてしまっており、平坦で記憶に残らなくなっている印象である。
世界観とストーリー、さらにキャラクターの掘り下げすら全く出来ていない。
これらは最初の謎戦闘を省けば、ある程度表現できた事柄である。

 

構成の疑問は序盤以降も休むことなく続く。
今回おそらく尺の都合だろう、ものすごいハイパースで話が進み、陳桐の人狩り阻止、王貴人の撃破が省かれている。 規定の時間内にストーリーを進めるためには仕方がないと言えばそうなのだが、本来これらのエピソードは、

・ 打神鞭(宝貝)とはどういうものか、

・ 封神するとはどういうことか、

・妖怪仙人とはどういうものか(のちの仙界大戦で大事な知識)、

妲己とその部下はどんなに悪いか、

という序盤の元始天尊のさらっとした口頭説明を、分かり易く体現した必須エピソードなのである。

なにより、太公望の普段はダメな道士だが、実は冷静に策を弄して敵と戦う合理的で頭の回る人物である(しかも頭を叩いて被害を最小限に留めようとしたり、自分が泥を被ることを厭わない善性もある)というキャラクターの掘り下げにもなっている。


尺がないなら原作の該当エピを改変したオリジナル展開にしてでも視聴者の理解のために入れるべきであった。

 王貴人に至っては、原作ではその後の妲己との頭脳戦のための重要なカギになるのだが、アニメでは彼女を省いてしまったので、アニメ1話の後半で、策や経験もないまま丸腰で妲己に挑んだ太公望と陳桐・貴人撃破という実績のない敵陣営の無名道士を懐に入れた妲己がなんだか間抜けに見えてしまっている。 太公望なんて聞仲と殴り合ってるのもあり、視聴者にただの無鉄砲熱血系バカという真逆のキャラクターに間違われている可能性すらある(さすがにないか笑)。

ちなみに太公望妲己は本来作中トップクラスの策略家であり、原作ではこの2人の大胆不敵な頭脳戦が最序盤の山場となっていて大変読み応えがある。


原作の太公望はここで万策もってして妲己に挑むが、それを上回る策略家である妲己に悠々と撃破されてしまう。太公望は反省から仲間の必要性を感じ、今後の仲間探しに奔走するというきれいなストーリーライン・感情の流れとなっている。
しかしアニメでは、元来自らの考えをしっかり持ち道を切り開く主人公である(主人公は大体そうだけど)はずの太公望が、杜撰に切り貼りされたストーリー展開のせいで、話の操り人形と化してしまっているように見えてしまっている。
太公望の人となりがしっかり描写されている原作なら主人公の活躍を応援したくなるが、このアニメの1話を見て太公望を応援したくなるかと言われれば、疑問と言わざるを得ない。


妲己に至っては極悪だ残酷だと言われながらその描写があまり無いせいで、作品を通しての悪役(+ヒロイン)であり、主人公サイドが術も戦闘力も知力も叶わない恐ろしい存在であるということが全く伝わってこない。
実は妲己はアニメでいう次回以降、主人公との直接対決のシーンは終盤までないのだ。にも関わらず太公望との頭脳戦で見せた恐ろしさ(「遊びましょ」のところとか鳥肌)、妲己は狂っているの猟奇的で象徴的なカット、妲己自作の拷問・処刑シーンなどで、主人公と読者に強烈なインパクトを残しているので存在感を失うことが決して無いド級悪役ヒロインである。
アニメの控えめな描写では、残念ながらただ残酷な趣味がある皇后という印象でしかないので、デザインや声がぴったりであるだけに、余計に残念である。

聞仲との決着がアニメの着地地点になろうとも、妲己というある種の絶対悪があってこそ聞仲との避けられない敵対というドラマが発生するわけで、妲己の描写をおざなりにすることはあってはならないのではないだろうか。

これは予想になるが、最近の成功モデル(おそ松さんなど)をもとに、いわゆるキャラ萌えで女性(いわゆるF1層)人気の獲得を目指すというのが企画の方向性ではないだろうか。

当時から少年漫画の中でも美形?男性キャラに萌える女性ファンが多かった本作は、今のニーズと合致すると踏んだのだろう。

最初の聞仲のネタバレ顔出し、普賢真人の登場などのシーンもそれを踏まえると、良し悪しはともかく企画側の意図の通りであったのかもしれない。
つまり武成王と聞仲の絆、太公望との対立、太公望と普賢真人の友情のドラマに重点を置こうというわけである。
妲己が一部キービジュアルでもプロローグでも本来のポジションを聞仲に奪われているので、貴人の件も含め、女性向け商材だから女キャラが不遇なのではと、私のように捻じ曲がった人間は、妙な勘ぐりすらしてしまう。

 

ただしそうだとしても、そういったキャラクター人気が、藤崎竜のしっかりと作り上げたキャラクター造形、変化に富む考え抜かれアレンジされた物語の上に成り立っているということを失念してはならない。


1話では太公望、聞仲、武成王、申公豹、普賢真人、原作では終盤しか顔出ししない太上老君といった作品の人気キャラの顔見せに注力したのであろうが、ストーリーラインがずたずたなので、余計にキャラで売ろうという下心が透けて見えてしまって興醒めしてしまう。

 

ここまで自分勝手に書いて今更であるが、言ってもまだ1話目。
これから本調子になるのかもしれないし、ここでごちゃごちゃ言ってこのアニメを断定するのは、早計でおこがましいというものだろう。
全てを見終わった後、この書き殴った感想を恥じて削除するくらい、キャラクターの掘り下げと封神演義ならではの骨子のしっかりした物語を、次回以降原作愛を持って見せてくれることを期待し締めとしようと思う。

いや、最後までダメだったね笑

 

あと、

原作は名作なのでぜひ読んでほしい。

 

封神演義 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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