エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【漫画紹介】『彼方のアストラ』極上のSFミステリー

『彼方のアストラ』がこのマンガがすごい一位になったそうな。

既読者からすると当然の結果なのだが、この機会に多くの人に知ってもらえるというのは嬉しい。

これを機に今まで書こう書こうと思って下書きに眠っていたこの感想をあげちゃおうと思う。

 

あらすじ

『彼方のアストラ』は、篠原健太作のSF漫画である。

近未来、宇宙キャンプのため惑星マクパに向かった高校生たちだが、到着した現地で突然謎の球体に襲われて宇宙空間に投げ出されてしまう。偶然見つけた宇宙船アストラ号に乗り込み、彼らは故郷を目指す冒険を始める。

ここまで見て、なんてことはないありきたりなあらすじと思った方もいるかもしれないが、とんでもない。

この『彼方のアストラ』はストーリーメイキングにおいて、近年これほど気持ちの良い漫画はないと声を大にして言えるほど完成された作品である。


魅力1

練り尽くされた極上のSFミステリー

先ほどのあらすじを見ると、この作品が宇宙を舞台にした十五少年漂流記と思いがちだ。もちろん高校生たちが協力して困難に乗り越えて冒険を重ねて行くという宇宙漂流ものとしてもたいへん面白く作られているが、作品の醍醐味は、あらすじからは予想できないほどの緻密に伏線を張り巡らされたSFミステリー部分と言って良い。

アストラ号で故郷への旅を始めた主人公たち。そもそも彼らを襲った球体とは何者なのか、一体何の目的なのか、仲間の中に裏切り者はいるのか。

全5巻と読みやすい巻数にもかかわらず、序盤から伏線が幾重にも重ねられており、全ての謎が解き明かされる物語終盤の大どんでん返しにつぐ大どんでん返しはもはや圧巻の一言である。

伏線の張り方がとても丁寧で緻密であるため、注意して見ていれば真実にたどり着けるようになっているところもミステリーとして秀逸。


魅力2

魅力的なキャラクター

篠原健太の前作『スケットダンス(全32巻)』でも人間味あふれる魅力的な登場人物が多く出てきたが、そのキャラクターメイキングは今作でも健在である。

キャラクター、とくに主人公たち9人はしっかり掘り下げられており、読み進めていくうちにどんどん魅力的になる(週刊連載でないので絵のクオリティもぐんぐん上がってくる)。特に女性陣はどんどん可愛くなっていくので、セクシーな宇宙服と合わせて必見である。

ちなみに、わたしの推しキャラは、イケメンだけど変人のシャルスと、デレたキトリー。

 

魅力3

ワクワクの宇宙大冒険と青春劇

SFミステリーの部分を除外した普通の冒険ものとしても楽しめる本作。主人公たちが訪れる未知の惑星の生態など設定が凝られていて楽しい。

まるで一緒に旅をしているかのように感じるのもこの作品の魅力である。

 

魅力4

コメディとシリアスの絶妙なバランス

どこかアンバランスな部分やさじ加減のズレが時折気になった前作スケットダンス(基本はすごく面白いよ)の弱点が、今作ではみごとにブラッシュアップされている。シリアスからコメディへの自然な流れや、散りばめられたギャグの物語を邪魔しない絶妙なセンス。読んでいて飽きることがない工夫がこれでもかと詰め込まれており、やはり技量の高さにただただ感動である。

 

おわりに

物語には丁度良い関数というものが決まっていると思う。長さと内容においてこの作品ほど無駄がない作品はなかなかないのではないだろうか。

複雑な物語でありながら、それでも少年漫画として爽やかに展開していく心地よさ。スケットダンスにも感じたことだが、この作者の作品には人の持つ善性とでもいうのだろうか、優しさや真っ直ぐであることの素晴らしさが恥じることなく堂々と描かれているように感じる。

提示された全ての謎がどんどんと明かされ、伏線が解決していくことで感じる小気味良さと爽快感をぜひ味わっていただきたい。

 

読んで絶対損はない!

 

 

 



【漫画紹介】『YAWARA!』オリンピックに向けてテンションあげよう!

正月のテレビ欄を見たらおや? そこにYAWARAの6文字が。

20年以上前の作品をなぜ今? と思ったが、そういえば来年は東京五輪だ。YAWARAを観ながらオリンピックへの機運を高めようぜ! ということだろうか。

 

YAWARAは20世紀少年の作者である浦沢直樹氏がビックコミックスピリッツで連載した大ヒット柔道漫画である。

普通の女の子を夢見る天才柔道少女の猪熊柔が恋や友情、そして柔道を通して成長していく物語で、1989年からはゴールデンでアニメ化もされている。

漫画もアニメも今見ても変わらぬ面白さの本作を今回は紹介したい。

 

一本背負いの爽快感 ぢゃ!

子供の頃から祖父である猪熊慈吾朗の英才教育を受けた天才柔道少女柔ちゃんはどちらかというと完成型の主人公である。しかしこの柔という人物は、普通のか弱い女の子に憧れており普段は柔道のことを隠して生活している(柔曰く趣味はバーゲン)。

そんな彼女だが普段の鍛錬のせいで事あるごとにうっかり技を繰り出してしまい、この物語の始まりも柔が強盗を投げ飛ばしたのをスポーツ新聞記者の松田耕作にスクープされるというものである。

小さくて可愛らしい女子高生が、大人の男や巨漢の対戦相手らを有無を言わさずバッタバッタと投げ飛ばしまくるのは見ていてとっても気持ちが良い。

 

●魅力的なキャラクター ぢゃ!

柔には魅力的なキャラクターがたくさん登場する。まずはおしゃべりスパルタ大食い迷惑おじいちゃんこと猪熊慈吾朗。熱血スポーツ記者の松田耕作。あがり症の柔道コーチ風祭進之介。巨漢の女子柔道カナダ代表ジョディ・ロックウェル。冷酷な精密機械系柔道を駆使する作中きってのヒール・女子柔道ソ連代表テレシコワなどなど魅力的な人物がドラマ満点に描かれる。

なかでもわたしが注目するのは柔のライバル本阿弥さやかと大親友の伊東富士子である。

富士子さんはのっぽで、身長のせいでずっと努力を続けてきたバレエを断念したという過去を持つ女性である。男性作家の描く女の友情はそれを愛でる男性の眼差しが入り込んでいて、女性読者が共感できないという生温いものが多い(もちろん女性作家の描く男の友情も同様である)。それに比べると富士子さんと柔ちゃんの友情にはスポ根もの特有の泥臭い熱さがある。ともすれば自分の友人関係についても良い意味で見直す機会になるかもしれないようなそんな素敵な友情である。美人でもナイスバディでもない(作画の上でも)、まさに普通の女キャラをここまで魅力的に人間的にかっこよく描けるのはさすが。

本阿弥さやかは美人で金持ちだが、傲慢で自尊心が高く負けず嫌いの典型的な嫌な女系ライバルとして登場した。はいはい、そういう系の人ね、と思っていた読者も話を進めるごとに彼女のことを結構好きになってしまうという不思議なキャラである。

もちろん性格の難は最後まで変わることがないのだが、作中では彼女が柔に負けないために血の滲むような努力を裏で重ねる様が描かれて続ける。

面では常に自信満々な偉そうな物言いをするのだが、その自信を裏付けるだけしっかり努力をし続ける、また負けてもけして諦めない不屈の精神を持っており、けして弱音を吐かない。こんなかっこいいライバルキャラを嫌いになれるはずがない。

このように魅力的なキャラクターがたくさん出てくるのも本作の醍醐味である。

 

●柔ちゃんをめぐる恋愛模様 ぢゃ

本作は恋愛モノとして読んでも十分に楽しめる作りになっている。

柔の相手候補は2人おり、一人は柔の一本背負いを見て彼女が将来柔道界のスターになると確信して追いかけるスポーツ新聞記者の松田耕作、もう一人は本阿弥さやかのコーチであるハンサムなプレイボーイ風祭進之介である。そこに松田に叱られたのをきっかけに惚れて猛アタックをしまくるカメラマンの加賀邦子と風祭を慕う?本阿弥さやかがからんで、高橋留美子のラブコメ並みの複雑さになっているのも面白い。とにかく松田さんが不器用ながらなかなか良い(内面)男なのだが、当初の柔はイケメンの風祭さんにばかり懸想してしまい読者をやきもきさせる。そんな彼らの恋を応援しながら見るのも楽しい。

恋愛を軸に読み進めれば結構キュンキュンくること間違いなしである。

 

●当時の世相を体感できる ぢゃ!

作品の舞台はバブル景気に沸く日本に始まる。柔たちのファッションやヘアスタイルなどはもちろん、アッシー君、ディスコ、接待ゴルフ等バブル期当時の風俗が目一杯描かれている。しかし物語途中でバブルは崩壊、柔たちの世代まで引く手数多だった就職が、後輩のときには会社が倒産したりで就職難になるなど明確に世相を反映している。作中に影響を与えているものの一部を以下に紹介する。

・バブル景気→バブル経済破綻

・ユーゴ大会→ユーゴ内戦勃発

・冷戦終結ソ連の崩壊

そしてソウル五輪からバルセロナ五輪

などなど、80〜90年代前半当時を肌感覚で味わえるのも魅力の一つである。

 

●ファッションを楽しむ ぢゃ!

柔ちゃんはバブリーファッションど真ん中にもかかわらず、今でも通じる普遍的な可愛さがある。

そんな柔のファッションショーを堪能するのに最適なのがアニメ『YAWARA!』のオープニングだろう。

初代オープニングである『ミラクルガール』は永井真理子のボーイッシュな歌声に乗せて柔が七変化する。

可憐なミモレ丈のスカートもあればボディコンシャスもあり。派手柄スーツ、大きなサングラス、真っ赤なリップにゆるめのシニヨン。大柄シルエットのアウターにメンズライクなブルゾンなどなど、近年再燃の兆しを見せている80年代スタイルをまるでファッション雑誌をめくるかのように楽しめる。

途中挟まれるわたせせいぞう風やしの木のシーンなんかもいかにもトレンディという当世風ながら今見ると逆に目新しくも感じられるから不思議だ。

 

とりあえずアニメを見るべし ぢゃ

本作のアニメはOP、EDのクオリティが大変高い。

先述したが高校生の少し背伸びした柔の描写がオシャレで可愛い永井真理子の『ミラクルガール』、演出のオシャレさと少し大人になりかけた柔の可愛さにさらに磨きがかかり、まるで上質なMVのような今井美紀の『雨にキッスの花束を』、原坊と小林武史のタッグにサザンファンなら必見のポップはナンバー『負けるな女の子!』(ちなみに同じく原由子が歌うEDの名曲『少女時代』は桑田佳祐も参加している)、作品がオリンピックに向けて盛り上がっていくのに呼応するようにスペインを旅する柔。まるでJALのプロモかと疑ってしまうほどの爽快感と旅愁溢れる永井真理子の『YOU AND I』など単体のMVとして見ても十分な満足感を得られるOP。ED曲は高らかに女子の楽しさを歌う元気なOPとの対比で、しっとりとしたバラードナンバーが多くアニメで盛り上がった心を優しくクールダウンしてくれる。こちらも名曲揃いで、個人的にはLAZY LOU's BOOGIEが歌う『いつもそこに君がいた』の切なさと透明感は青春ソングのなかでもトップクラスだと思っている。

OPED以外でアニメの何がいいかといえば、柔道のアクションはもちろん、柔たちに声がついたことだろうか。

やわらかいが芯が強い柔の声は、『ドラゴンボール』シリーズでビーデルとパンを演じた皆口裕子、優しく柔を見守る松田は『忍たま乱太郎』の土井先生で有名な関俊彦が演じている。風祭役には『シティハンター』のリョウなど主役の声を多く演じる神谷明が担当した。

滋悟郎役に永井一郎、松田のバディカメラマン鴨田に茶風林と新旧波平を演じる両雄が魅力的な演技を見せているのも必見である。

とくに滋悟郎おじいちゃんの食いっぷりと「やわらー!!」の怒鳴り声はアニメの一番の見どころといっても良いだろう。

現在BS11で毎週2話ずつアニメが放送されている。途中なぜかテレビショッピングが挟まっておりターゲットが明らかに当時の視聴者層なのだろうなと予想されるが、今見ても十分面白いだろう。

 

やはり原作が至高 ぢゃ

アニメが合うようなら是非原作を手にとってみてほしいところである。

やはり見所は柔道の試合だろう。

アニメで動きがつくのはもちろん素晴らしいが、この漫画という媒体での息もつかせぬ攻防は読者をワクワクさせるのには十分すぎるほどである。

とくに終盤戦の死闘は、読んでいるこちらまで息を張り詰めて緊張してしまい、同時に本当にテレビで試合を見ている感覚そのままの感動を味わうことができるだろう。

私のベストバウトは本阿弥さやか戦、テレシコワ戦、そしてジョディ戦である。

読んだ者ならきっと異存はないはず笑

 

トレンディな恋愛ものとしても、熱いスポーツものとしても何重にも楽しめる本作。

ぜひ手にとって、世紀の決戦である最終戦、そして柔の恋の決着にもなる感動の最終回を見届けてほしい。

 

YAWARA!を楽しめた人にオススメ本

熱い試合に感動したなら……

SLAM DUNK井上雄彦

言わずと知れたバスケ漫画の金字塔。息もつかせぬ試合シーンと軽妙なギャグパート、キャラクター。控えめに言って最高だ!

恋愛パートにグッときたなら……

めぞん一刻高橋留美子

こちらもすれ違い上等、80年代ラブコメの傑作。柔と松田、風祭の関係は、管理人さん、五代、三鷹の関係とよく比較されている。これもほんといい漫画ですよ。

浦沢直樹に興味が湧いたら……

浦沢直樹は全く毛色の違う作品をいくつも描いている。スポーツものもあるが、わたしのオススメは、考古学ものの『マスターキートン』とミステリものの『Monster』。どちらもアニメになっているので、アニメで観てみるのもいいかも!

 

 

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【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ おかわり

散見される民俗学的モチーフ

前回までの記事では、百鬼丸の出自についていくつかのモチーフを元に考察してみた。

今回は前回までの記事で拾えなかったモチーフについて書こうと思う。

アニメの進行に沿って増やしたいくのでもし興味がある方がいたならば、思い出したように覗いていただけると嬉しい。

また、今後ますますこじつけのようなものも出てくると思うので、言葉遊びを見ていると思って大目に見てくださいな。

 

貴種流離譚

百鬼丸の物語は典型的な貴種流離譚である。

 

記紀神話

第1話の「醍醐の巻」において、父の野望ゆえに不具の体で生まれ流された百鬼丸のモチーフは記紀神話に登場するヒルコ神である。

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 前編 - エウレカの憂鬱

 

六部殺し

第2話「万代の巻」で村人がお遍路を殺害したのは、「六部殺し」あるいは「異人殺し」の伝承を下敷きにしている。

かつては六部(旅の修行者)などの外から村を訪れる者は村に外部の情報や福をもたらす存在であり、来訪する神に見立てられ歓待されていた。折口信夫のいう「マレビト」の構造である。秋田の来訪神ナマハゲなどはまさに鬼神のような姿である。

この福をもたらすマレビト・異人を殺害し、その富により村が栄えたというのが六部殺しのモチーフである。

横溝正史は『八つ墓村』において村の由来を落ち延びてきた落人の殺害としているがこれもこのモチーフが創造の源になっている。

怪談『こんな晩』では、そんな六部殺しの業の因果応報が描かれている。

作中で、やろうかぁ、やろうかぁ?と鈴を鳴らしながら立ち現れた妖怪(金小僧)に対し、万代の村の男が殺したお遍路の影を見たのも、同じように己が罪悪感ゆえだったのだろう。

わたしは金小僧が持っていた鈴がそのまま殺されたお遍路のものだとは思わない。あくまで村人にはそう聞こえるだけなのではないだろうか。

ちなみに柳田國男の妖怪談義の中にも、やらうかやらうかと言う妖怪が出てくる。こちらは出水を予言する厄介な怪(ヤロカ水)だが、同項には同じように話しかけてきて、答えるとどっさり小判をくれる怪の話もある。

これを付喪神(長く使ったものが化けること)と捉えた金小僧はとても面白い。

 

小さ子

第3話「寿海の巻」にて、医師の寿海は流れ着いた赤子の百鬼丸を見つけ、育てる。やがて大きくなった百鬼丸は、自らの体を取り戻すため妖怪退治の旅に出る。これは桃太郎や一寸法師などに代表される「小さ子」のモチーフである。

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 後編 - エウレカの憂鬱

 

妹の力(いものちから)

第4話「妖刀の巻」では田之助とお寿志という兄妹が出てくる。

妹の力(いものちから)という言葉のため妹限定の能力と勘違いされることもしばしばある。ちなみに妹萌えとは関係ない。

妹の力は柳田國男が著作『妹の力』のなかで提唱した説である。

妹とは、母、姉妹、妻、恋人など身近な女性が男性を守るために発揮する霊力のことである。古来祭祀に関しては女性が受け持つことが多く、その理由は男性が統治や武力に長けるのに対し、女性は霊的な力に長けていると考えられていたからである。かの邪馬台国卑弥呼も宣託による統治を行い実質の政治は弟が担っていたとされるし、倭建命の東征の折霊的な力でそれを助けた弟橘比売命は、一説にはやはり巫女であったとも言われている。

作中、兄を健気に思い続けた妹お寿志であるが、妹の力を発揮することができず田之助を救うことができなかった。

私はその理由を彼女が髪を切ってしまっていたからと定義してみる。

彼女の髪が短かったのは、荒れた掌とともに髪を売る(当時は売られた髪で鬘をつくっていた)ほど困窮しているという描写だろう。が私はここで髪、特に女性の髪というものには強い霊力が宿るといわれていることに言及したい。

船舶の霊格である船霊の依り代(神様が宿る場所)に女性の髪が使われるというのは有名であるし、近代出征する兵士達が近しい女性の髪をお守りにしていたことからも、その信仰の強さが窺いしれる。お寿志は呪力の源である髪を失っていたため兄を救えなかったのである。

 

ちなみに主人公百鬼丸にも彼を守護する3人妹の力が存在する。

1人目はもちろん、観音様にお祈りをし百鬼丸が完全に鬼神に殺されるのを防ぎ彼を生きながらえさせた母親、縫の方である。2人目はおそらく次週より登場する慈愛の人みおだろう。そして3人目は

もちろんどろろだ。

 

ひょっとことお多福と鍛治昔

第19話「天邪鬼の巻」。ホッと一息つけるコメディ回で百様こと百鬼丸どろろは折れた刀を持って刀鍛冶を訪ねる。

この刀鍛冶の家にたくさん飾られているのがひょっとことお多福のお面だ。共にひょうきんな表情の面は、作中でも言われる通り、ひょっとこの語源は火男、お多福のふくはふいごを吹くの吹くに通じるため、どちらも火を扱う鍛治や製鉄に関わりが深い。ちなみに古代の鬼と呼ばれ大和朝廷に追われた人々の中には、製鉄民も多くいたという。武器を作れるということが軍事力に直接繋がるため、大きな脅威と見なされたことが見て取れる。

 

 

 

 

 

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 後編

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 前編 - エウレカの憂鬱

前編のつづき

 

4.百鬼丸は鬼か桃太郎か

少し戻るが百鬼丸が捨てられた理由を、もう少し時代を遡って考えてみよう。

百鬼丸は手足も目鼻もない不具の体であり、これは一種の異常出生である。

日本の習俗では異常出生の赤子を鬼子、と呼び忌避するというものがある。

例えば、酒呑童子は一説によると八岐大蛇と人間の娘の子供ともされているし、舎弟である茨木童子なども生まれたときは異常に大きく歯が生えそろっていたという。どちらも異常な出生である。

江戸時代の怪談本などでも異常出産の末、人を喰らう鬼子が生まれたので殺害したという恐ろしい話もある。

鬼などという恐ろしいものが普通に生まれるわけがないという鬼の脅威を示すためのツールである異常な出生譚が、いつしか逆転し生まれが異常な赤子は鬼になるとされたと推察される。

ゆえに百鬼丸は鬼子と判断されて捨てられ流されたとも考えられるのである。

実際、歯が生えた状態で生まれた子や誰にも似ていない子など鬼子と呼ばれ、一度辻に捨ててからまた拾う、他所に養子にするなどという習俗が近代まで残っていた。一度捨てられ再び拾われることでその子供は集落の一員、つまり人として認められるのである。

つまり百鬼丸を鬼子と考えると、寿海に拾われた時点で、その鬼としての性質は無くなったとも言えるかもしれない。

 

異常な出生が皆鬼になるかというとそういうわけではなく、逆に英雄となる話も多い。

読んで字のごとく異常出生譚というものは、善悪関係なく生まれの異常がそのものの霊性の証として機能している場合が多いのである。

例えば桃から生まれた桃太郎、身の丈一寸の一寸法師などが分かりやすい例だろうか。これらの物語では異常出生の子供たちの立身出世が語られる。

民俗学者柳田國男はこれら異常出生の子を「小さ子」と定義し、その著書『桃太郎の誕生』の中で、水神・海神とのつながりを示している。海洋国家にして農耕文化の日本では海や水の神様がとても重要な位置を占めていたであろうことは想像に難くなく、そういった神様の加護が裕福さや安泰に直結していたと考えられる。

醍醐家から見れば「鬼」の子であった百鬼丸は、寿海の目線で見ると川上という神域から流れて授けられた「桃太郎」つまり霊的な子供「小さ子」に映る。

ちなみに川上をなぜ神域と述べたかの補足をしておくと、三途の川の例を見るように川は彼岸と此岸の境界と考えられていたからである。

また2019年版アニメの描写において、寿海が転んで百鬼丸を見つけた河岸の道にお地蔵様があったことからあの場が土地の上でも村境(彼岸=外と此岸=村)であると明示されており、百鬼丸があの世から再びこの世に流れ着いたことを示唆していると思われる。集落の境を守る塞の神がこの場合地蔵尊(賽の河原から子供を救う存在)であるのは、寿海がお地蔵様の導きで百鬼丸と巡り合ったというようにも受け取れる。

 

捨てられた子が水域を下り流れ着き、結果的にその土地の人に福をもたらす構造は、流された貴い神様が水の神あるいは福の神として海から戻るという恵比寿神のモチーフとも不思議と合致する。

ところで百鬼丸が桃太郎だとしたら、どろろは何になるだろう。

昔話には浦島太郎の亀や桃太郎の犬猿雉のように助けた人間を導いてくれる動物が主軸の『動物恩報譚』というものがあるが、どろろは自分を助けてくれた百鬼丸を導く動物なんじゃないかと言ったら怒られるだろうか。

 

5.まとめ

冒頭でも述べたが手塚治虫(もしかしたら新アニメ製作陣も)はもちろんこれらのモチーフについて意識的に使用していたと思われる。その上でそのモチーフに逆説的な意味付けをすることで意外性とドラマ性を演出したのである。

百鬼丸の異常出生の原因は、父親である醍醐景光の野望のせいとなっている。

中世の説経節『弱法師』で父母の前世の罪と傲慢のせいで盲目の病者となったしんとく丸同様、他者の業を背負わされた百鬼丸であるが、彼は自らの仮の手足を持って自身の体の奪還を行なっている。

説経節では神仏への信心と功徳が救済の条件とされてきたが、百鬼丸はより能動的に、自らの意志と力をもって鬼神を殺害することによって目的を達している。ここにどろろという物語の肝があると思っている。

中世を舞台としながらも、百鬼丸の生い立ちや行動に見えるのは、敗戦というどん底から高度経済成長期を突き進む清濁併せ持った近現代のメンタリティのヒーロー像である。それは孤児でありながらも力強くしたたかに生きるどろろの姿とも重なる。

時折冷や水を浴びせるようにリアリスティックな視線が見え隠れし、物語が単純な善悪で語られるものではないことを言外に告げている。

 

2019年版アニメでは更なる解釈として百鬼丸が体を取り戻すたびに、醍醐の領地に災害が起こるという描写がなされている。もはやリアルを通り越してニヒリスティックであるとさえ思えるこの設定は、もしかしたら神仏も正義も大義も寄る辺となりえず、割り切れないまま生きるしかない今の時代を表しているのかもしれない。

 

いくら百鬼丸が好きとはいえ、時間割きすぎてしまった。

次回の記事で紹介しきれなかったものを足早に紹介しようと思う。

 

 

 



 

 

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 前編

ちょっと論文ぽいタイトルを気取ってみたが、内容はまあまあ薄味であると先に言っておく。どのくらいかというとカルピスを10倍の水で薄めたくらいでございますのでそこんとこよろしくおねがいします。

 

1.あらすじ

2.流された英雄、百鬼丸

3.百鬼丸のモデルは恵比寿様?

4.百鬼丸は鬼か桃太郎か

5.まとめ

 

 

今回は『どろろ』のアニメから読み解くことができる民俗学的な背景をふんわりと考えてみようと思う。

どろろという作品は、他の手塚作品同様、日本のあらゆる伝承や民話、土着信仰に対する深い造詣で溢れている。

昔話や伝承をいくつも読み進めていくと、同じようなモチーフが繰り返されていることに気づく。日本でそれらを体系化したのは柳田國男折口信夫ら明治期の学者であり、体系化されることで民俗学という学問ジャンルが生じたことは言うに及ばないが、学問として分析されるようになったのちもあらゆる物語がここで分析される系譜に追随しているという事実は、民話や伝承の中に息づくモチーフが大変強い魅了を持っていたからに他ならないだろう。

漫画の神さま手塚治虫は、これらモチーフを意識的に踏襲、あるいは逆説的に使用することによって彼の作品に普遍的な深みを与えているのである。

深い考察は各個人に委ねるとして、ここからは私見をまじえて簡単に例を挙げてみたい。

 

1.あらすじ

この物語の主人公である百鬼丸は、父親である領主の醍醐景光と鬼神との契約の生贄として、目耳鼻や四肢など体のあらゆる部分を奪われた不具の状態で産まれた少年である。それ故に彼は産まれてすぐ川に流されたが、寿海という親切な医者に拾われ一命を取り留める。寿海に義肢をつけてもらった百鬼丸は自身の体を鬼神から取り戻す旅へと出る。というのがこの物語の起こりである。

 

2.流された英雄・百鬼丸

百鬼丸の身の上はまさにお手本のような貴種流離譚となっている。

貴種流離譚とは、読んでそのまま高貴な生まれの人あるいは神が、何かの因果で卑賤の身となり、流浪の旅の末に再びその地位を取り戻し幸せになるという、民俗学者折口信夫が提唱したいわば文芸のセオリーのひとつである。昔話の『鉢かつぎ』、源義経の幼少期の物語とされる『牛若丸』や日本最初のハーレークインもとい長編小説『源氏物語』、能の『山椒大夫』など、このセオリーを踏襲しているものは枚挙にいとまがない。

百鬼丸においてはこの何かの因果というのが、父親と鬼神との契約に当たる。

 百鬼丸の物語は貴種流離譚をベースに更なるモチーフを幾重にも重ねて形作られている。

 

3.百鬼丸のモデルは恵比寿様?

冒頭で川に捨てられる百鬼丸の最も判りやすいモチーフは、記紀神話の国生みのくだりでイザナギイザナミ2柱の最初の子として登場するヒルコ神だろうか。

この神は国生みの際女神から声をかけたため、不具の子として生まれたとされる。また日本書紀では3歳まで足が立たなかったため樫の舟で流してしまったといわれる神様である。

百鬼丸が四肢を失った不具の体で生まれ、それ故に流されたという点からヒルコ神をモチーフとしていると言って間違いないだろう。

ヒルコは蛭子と書き、蛭子はエビスとも読むことが出来る。

実は流されたのち記紀からその記述が消えてしまったヒルコ神であるが、この神を乗せた舟が着いたとする伝説は各地にありヒルコ神を祭神とする神社は多い。室町期頃より海神(=水の神)である恵比寿(戎・夷)様と習合し、流されてしまった蛭子神が海神あるいは福の神となって戻ってきたという物語が出来上がったと考えられている。また海辺に流れ着いた漂着物のことをエビスと呼び習わすことが海辺の民俗で頻出することからもその繋がりが見て取れる。

さて小舟で流された百鬼丸。彼もまた下流で寿海という医者に命を救われる。

寿海の呪術?で仮ではあるが体を与えられた百鬼丸は息子のように可愛がられ立派な少年に育つ。

一度は流されてしまうも、流れ着いた先で再び立派な神様として祀られるヒルコ神の姿と重なるようである。  

 

後編へつづく

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 後編 - エウレカの憂鬱

 

 

 



 

【アニメ感想】『どろろ』古橋監督なら間違いない!

漫画の実写化と往年の名作のリブートには期待しない事にしている。その理由はこんな末端のブログまでお読みになる諸氏には言わずとも伝わることと思う。

 

さて、2018年秋、手塚治虫の未完の名作『どろろ』がリブートすることを知った。個人的には『火の鳥』、『キリヒト讃歌』と並んで好きな手塚作品であるため、嬉しさ反面、封神を始めとするほかのリブート作品と同様にまた失敗するのではという不安がよぎった。好きな作品が駄作にされることほど悔しいものはない。

 

だが、その不安はスタッフロールを見てすぐに消されることになる。

監督の欄に古橋一浩という名前を見たからだった。

古橋監督の代表作といえばアニメ『るろうに剣心』、またそのOVAである『追憶編・星霜編』、1999年版アニメ『ハンター×ハンター(〜ヨークシン編)』、『ガンダムUC』などであり、一見手堅く派手さはないもの、実は細部までこだわり尽くされたクオリティの高い作品を作ることで定評のある監督である。

 

戦国という血生臭い時代を舞台とした時代劇でもある本作。戦場等の無残な描写に加え、主人公は父親と鬼神たちの契約によって四肢や眼球などのあらゆる体のパーツを奪われ産まれてきた少年となっており、欠損表現や差別表現、残酷な表現が難しい近年のアニメ界での再現は厳しい作品のひとつと言えるだろう。かといって中途ハンパな日和った描き方をすれば、作品のテーマがぼやけたり、そのおどろおどろしい雰囲気を損なって白けてしまう。

その点で言えば古橋監督には、『るろうに剣心』という剣客ものの時代劇の前例がある。とくに規制の緩むOVA版『追憶編』においては、幕末の動乱における血で血を洗う斬り合いシーンを、その職人のようなリアルで細やかなコンテと演出の緩急で、生々しく見事なドラマに仕上げている。欠損した両手に仕込んだ刀で敵を薙ぎ払いながら戦うどろろの主人公百鬼丸の殺陣に関しても期待大である。

 

また、古橋監督は世界観の構築がとてつもなく上手い。

世界観が完成されているということはつまり視聴者をのめり込ませることができるということで、逆を言うと視聴者に違和感を持たれないようにしなければいけないということだ。

ハンター×ハンター』などを見るに、物語を盛り上げる自然なBGM、身体の動き(例えば戦闘中の重心移動など)、心の動き、緊張と緩和のさじ加減、または台詞の取捨や追加による違和感の徹底的な排除がなされていることが分かる。わかるというか、そういった部分に意識が向かないように細部まで作り込まれているといったほうが正しいかもしれない。

もちろん原作付きのアニメであるがゆえ、ハンターにしてもるろ剣にしても、原作との相違を非難する声は必ずあるものだ。かくいうわたしも星霜編のあの結末は原作およびテレビアニメとのあまりの雰囲気の違いから、るろうに剣心というコンテンツの延長として考えるならばファンとしては受け入れがたいものだと思っている。ただし、コミカルさや少年漫画的な希望にも溢れた原作とひとまず切り離し、緋村剣心というひとりの人物の生に真摯に焦点を当てた独立した物語として見るならば、この追憶編と星霜編に関しては名作と言わざるを得ないのもまた事実で、見ればやはりその卓越したドラマに心を揺さぶられてしまう。

 

多くのアニメ化や実写化、リブート作品で起こる炎上の一番の理由は原作との相違であることに疑う余地はないが、その背景には原作へのリスペクトの低さを感じとってしまうが故の反感があるのではないかと思っている。

文句を言いたい原作ファンの気持ちもわからないでもないが、漫画からアニメという媒体に変わることによって乖離は必ず生まれるものである。ならば一度、作品にとって最も重要なテーマや骨子の部分を残しそれを中心として再構築しようという、ある種最も作品理解が必要な、労力のいるしち面倒くさい古橋監督の手法は、実は最もリスペクトに基づく誠実な表現方法であるようにわたしには思われる。

 

今回の『どろろ』のリブートにしてもその手法は遺憾無く発揮されている。

最も顕著なのが百鬼丸の表現である。

原作および最初のアニメ化、そして2011年の実写化でも声帯、視力、聴力全て奪われた百鬼丸は、超常的な力によって物を見聞きし会話をしていた。それが今回は超常的な力が生命体の存在を炎のように第六感で感知するという最小限にとどめられている。百鬼丸は盲聾唖の三重苦状態であり、現在の3話に至るまで一言も発せず、また付きまとってくるどろろの言葉も聞こえないのでコミュニケーションがほぼ出来得ない状態である。鬼神に身体を奪われたということはどういうことか、なぜ身体を取り戻す必要があるのかに説得力を持たせた結果の設定なのだろう。

クールでニヒリスティック、もともと結構よく喋るかっこいい兄貴が見れないのは残念であるが、新しい百鬼丸像としては実に挑戦的だし同時に考えうる可能性として納得できるものである。百鬼丸が視力や聴力を取り戻した時はどれほどのドラマがあるのか、胸熱である。

百鬼丸の義肢についても作り物であることが強調されている。1話に至っては歩き姿のわずかな違和感まで再現されており舌を巻いた。こだわりすぎw

腕の刀はひじが曲がる際刀身の根元(本来柄となる所謂茎の部分)が突き出る構造になっており細部へのこだわりにも物語の方向性が滲み出ている。

皮膚がない百鬼丸の設定から登場時は面をかぶっているが、作り物感をしっかり出し異質さを演出するという意味でも今回のキャラクターデザインである浅田弘幸の絵柄(美しい!)が十二分に生きている。デザインを一新したのは現代受けするためには必要であるとはいえ、ただ綺麗になっただけではなくそれをしっかり物語の仕組みの一つとして活用しているのはうまいものだ。

どろろの描写は、百鬼丸に比べれば特出しているとはいえないが、悪童としてしっかり描かれているのは好感である。

1話でどろろが騙した親方以下数人は、おそらく荷運びの仕事をしていたと思われる。荷物を大事に扱ったり、最初は窃盗をしたどろろに対してある程度の折檻(戦国時代が舞台の本作に、子供への暴力は間違っているという現代の価値観を持ち出すのは愚の骨頂なので悪しからず)でことを収めようとしたところを見るにそこまで極悪だと思えないが、どろろは躊躇なく石礫をぶつけ親方の片目を潰している。

ここで重要なのはどろろが躾のなっていない悪童ということではなく、躾けて庇護してくれる存在がいなかったという背景の説明にもなっている。これは前シーンで百鬼丸に助けられた子供が、母親に言われ礼を言う部分との対比からも明確だ。

一人で生きてきたどろろ百鬼丸と出会うことで他人に対する思いやりや愛情や信頼を取り戻していくことが物語の一つのテーマになるであろうと自然に想像できるようなスムーズな流れとなっている。

このような細かい脚本や演出ひとつひとつに、古橋監督やシリーズ構成の小林靖子などの製作陣がいかに丁寧にこのどろろのリブートに着手しようとしているかが滲み出ている。

 

どろろの声を演じるのは、子役の鈴木梨央。わたしは子どもらしい素朴な質感のあるぴったりな声だと思ったが、ネットを見るに様々な意見があるようだ。

ちなみに声優の起用に際して、過去の古橋監督作品で知名度ではなくそのキャラクターに合うかどうかという一点に焦点が当てられて選ばれている印象がある。るろ剣における剣心役に宝塚の男役であった涼風真世を起用したのを始め、あまり声優声優していない声質がナチュラルな人かベテランを使うイメージである。

百鬼丸に関しては3話時点で未だ一言も発していない。舞台ありきの配役だったのだと思うが、そういった意味ではどのような演技になるのか楽しみだ。

 

墨絵に着色したという幽玄な美術や、背景に徹することが出来るクオリティの高いBGMなどなど、製作陣の力量はどこをとっても高い水準で、どのような演出や脚本にも対応できそうだし、もはや心配する部分が思いつかないくらいである。

歌詞は意味不明だがサビのギターのメロがかっこいい、ミスマッチの妙が光るオープニング。

切ない歌詞が美しい浅田絵と交差するエンディングは、和と今風のサウンドが融合したアレンジが素晴らしい(最後の百鬼丸の笑顔を見たいがために毎回見てしまう!)。

 

なんだか、絶賛一辺倒になってしまった。古橋監督のファンや、実写版どろろまで含めてどろろという作品が好きな人間(つまり私だ!)にはたまらないアニメであるのは間違いない。

うまく現代向けにアレンジしつつもけして現代の流行りには迎合しない硬派な作風、好感しかない。

 

憂鬱な月曜がこんなに楽しみになったのは、おそ松さん以来なので、しばらくはブルーマンデーとは無縁の生活ができそうである。

 

以上、敬称略

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【雑記】一枚絵の魅力

絵のある漫画は名作だ。

漫画は絵で出来てるんだから当たり前だ、と言われるだろう。

 

ここでいう絵とは印象的に考え抜かれて構図で絵画のそれのように一枚でドラマを描き切る、「絵になるねえ」の絵である。

 

コマとその行間には常に時間が流れている漫画という媒体においても、その瞬間だけまるでシャッターを押したかのように止まることがある。

漫画が一枚の写真あるいは絵画となる瞬間、ことエピソードの帰結としてその一枚の絵に物語が収束する美しさ。

これは漫画の大きな魅力である。

また、一枚絵を意識して描かれた漫画のエピソードは印象深く読者の意識に刻まれる。

 

何作か例を挙げてみよう。

まず、最初に触れなければならないのは『ONE PIECE』だろう。

作者の尾田栄一郎は、象徴的な一枚絵が大変上手な漫画家である。

断頭台の海賊王のスピーチ、ドラム王国の折れない旗、雪国のピンクの桜、仲間の印のばつ印等印象的なシーンは数あるが、なかでも一番わかりやすいのは、空島編のラストである。

 

空島編の流れをかいつまんで見てみよう。

主人公たちが海で超巨大な怪物の影を見る、空から船が落ちてきて空の上に羅針盤の指針を奪われる(物語世界では、この指針通りにしか進めないのだ)→

空の上へ行く方法を探すため近くの島に降りるがそこでは、空の上の空島なんて夢物語だと馬鹿にされ笑われる→

嘘つきと呼ばれた先祖の汚名を背負って、先祖が見つけたと嘯いた黄金郷を探すおっさんと出会う→

おっさんの協力で無事空島に登った一行は、空の上の冒険(ストーリーのメイン)の果てに、おっさんの探していた黄金郷が実は空島にあったという事実を突き止める

このエピソードのラストに描かれるのが、巨大な主人公ルフィの影を空の中に見るおっさんの一枚絵である。

 

物語の頭で出てきた巨大な怪物が、天空の人間の大きな影法師という説があるというおっさんの解説と、黄金郷にあったとされる鐘の音が鳴り響く擬音、黄金郷は実は空にあったということが描かれたその一枚絵、このエピソードのすべての線がこの一枚の絵という一点に帰結する構成は見事である。

ONE PIECEにおける一枚絵の役割は、古典芸能である歌舞伎の見栄の系譜であると考えられる。これは物語のハイライトを印象的な構図で静止することで印象付ける、つまり物語に流れる時間をストップし、観るものを一度立ち止まらせる効果があるのである。現に歌舞伎の見栄のシーンはそのまま浮世絵の題材とされている。(これ以外にもONE PIECEと歌舞伎の繋がりは多く、また別の機会に考察したい)

視線を静止させることで物語に対する印象を強く残すことになるという仕掛けの上に、作者特有のクリエイティブな構図があるからこその芸当であり、ここでエンターテイメントに大切なカタルシスを与えるための段取り、展開を重ねてきたストーリーテリングの技量が確かであるからこそであるとはいえ、一枚絵の使い方という点においては、この作者に並ぶものはいないであろうと個人的には思っている。

 

最近の作品でわたしが上手いなぁと思ったのは、このブログでもあげたことがあるが、大今良時の『不滅のあなたへ』である。

この作品の第1部は、氷の大地に飼い狼のジョアン(作品を通した主役であるフシという生物が擬態している)とひとりぼっちで暮らす生き残りの少年が主人公である。彼は楽園に行くことを夢見ているが、何度目かの探査で負った怪我が元で瀕死の重体となる。

このエピソードのラストの一枚絵は、自分の死期を悟った少年が、最後の力で椅子に座し孤独のまま息をひきとるその横で、今度は少年に擬態したジョアン(フシ)が前へと歩き出すシーンである。背景はなく真っ白な空間の中人物だけが描かれている。

生と死、静と動、ついに楽園へと行くことができなかった少年とその無念を背負うように立った少年姿のフシというあらゆる対比が象徴的なこのシーンは、個人的に最も美しいと思う一枚絵のひとつである。

この不滅のあなたへでは、他にも、グーグーとリーンの告白シーンや、囚われたボンとトドの影法師など印象的な一枚絵がある。逆にいうとこの作品では一枚絵のないエピソード(ジャナンダ編とか)は印象がやや薄く、やはりストーリーの面白さの他に一枚絵による緩急のリズムというものが、いかに印象の差を与えるかを表していると言える。

 

天野こずえは『AQUA』、『ARIA』の各エピソードにおいて、実に絵画的な美しい一枚絵を描いている。

ストーリーの帰結としてカタルシスを存分に感じさせるギミック的な要素も強い『ONE PIECE』の一枚絵に対して、日常ものでもあるこの『ARIA』では、より感覚的で絵画的な要素が強い。主人公の灯里の心に響いたもっとも美しい瞬間を切り取ったのがこの作品の一枚絵の特徴である。

この作品は映像作品からのオマージュも見受けられ、「お天気雨」における狐の嫁入り行列が一斉に振り向くのは黒澤明監督『夢』第1話の「日照り雨」のオマージュであるし、『ネバーランド』における飛び込みシーンは、かつてのポカリスエットのCM(BGMはセンチメンタルバスのsunnyday sunday)のオマージュである。どちらも大好きな映像作品だったためARIAを見てにやりとしたのはここだけの内緒だ。

「猫の王国」で旧植民地跡での迷宮の水路を彷徨った末に出逢った猫たちの集会シーン、「水没の街」での真夜中のきんと澄んだ空気と街灯揺らめく水面の情景、「希望の丘」の夕暮れの風が草を撫でる気持ちの良い風車の丘。季節の色や匂い、空気感まで伝わるような一枚絵は、読者に惑星アクアの生活を疑似体験させるのみならず、灯里ちゃんの感動と幸福感までも感じさせてくれる。

 

バスケ漫画の金字塔、井上雄彦の名作、『SLAM DUNK』で王者山王工業との死闘で最後の力を振り絞って逆転を目指す湘北。流川から桜木へのパスからのブザービーター。そして訪れる桜木と流川のハイタッチのその瞬間の一枚絵は多くの人が知るところだろう。

バスケ初心者桜木と天才プレイヤーの流川は、作品を通して犬猿の仲でありいがみ合ってきた。その二人のはじめての信頼、協力、バスケを通して互いを認め合った瞬間を描いたのが、このハイタッチの一枚絵である。

物語が積み重ねた時間、湘北高校バスケ部が必死に食らいついて最後まで全身全霊を込めて戦った勝利への執念、漫画を読み続けた者にだけ分かる言葉に出来ない数々の熱い思いが、その卓越した画力で描かれたセリフや音を一切排除した見開きの一枚絵から伝わってくる。

スラムダンクという漫画のすべて、1話からこの瞬間までの積み重ねがすべてこの一枚絵に収束し凝縮されている。

絵の力、漫画の力というものをまざまざと感じさせてくれる傑出した一枚である。

 

ここまで一枚絵の魅力を語らせていただいた訳であるが、

一枚絵が印象的ということは、構図の作り方や時間の切り取り方が上手い、つまり漫画のセンスが良いということである。漫画を判断するためのひとつの指標として十分だろう。

 

以上、一枚絵好きの独り言であった。