エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【アニメ感想】『どろろ』古橋監督なら間違いない!

漫画の実写化と往年の名作のリブートには期待しない事にしている。その理由はこんな末端のブログまでお読みになる諸氏には言わずとも伝わることと思う。

 

さて、2018年秋、手塚治虫の未完の名作『どろろ』がリブートすることを知った。個人的には『火の鳥』、『キリヒト讃歌』と並んで好きな手塚作品であるため、嬉しさ反面、封神を始めとするほかのリブート作品と同様にまた失敗するのではという不安がよぎった。好きな作品が駄作にされることほど悔しいものはない。

 

だが、その不安はスタッフロールを見てすぐに消されることになる。

監督の欄に古橋一浩という名前を見たからだった。

古橋監督の代表作といえばアニメ『るろうに剣心』、またそのOVAである『追憶編・星霜編』、1999年版アニメ『ハンター×ハンター(〜ヨークシン編)』、『ガンダムUC』などであり、一見手堅く派手さはないもの、実は細部までこだわり尽くされたクオリティの高い作品を作ることで定評のある監督である。

 

戦国という血生臭い時代を舞台とした時代劇でもある本作。戦場等の無残な描写に加え、主人公は父親と鬼神たちの契約によって四肢や眼球などのあらゆる体のパーツを奪われ産まれてきた少年となっており、欠損表現や差別表現、残酷な表現が難しい近年のアニメ界での再現は厳しい作品のひとつと言えるだろう。かといって中途ハンパな日和った描き方をすれば、作品のテーマがぼやけたり、そのおどろおどろしい雰囲気を損なって白けてしまう。

その点で言えば古橋監督には、『るろうに剣心』という剣客ものの時代劇の前例がある。とくに規制の緩むOVA版『追憶編』においては、幕末の動乱における血で血を洗う斬り合いシーンを、その職人のようなリアルで細やかなコンテと演出の緩急で、生々しく見事なドラマに仕上げている。欠損した両手に仕込んだ刀で敵を薙ぎ払いながら戦うどろろの主人公百鬼丸の殺陣に関しても期待大である。

 

また、古橋監督は世界観の構築がとてつもなく上手い。

世界観が完成されているということはつまり視聴者をのめり込ませることができるということで、逆を言うと視聴者に違和感を持たれないようにしなければいけないということだ。

ハンター×ハンター』などを見るに、物語を盛り上げる自然なBGM、身体の動き(例えば戦闘中の重心移動など)、心の動き、緊張と緩和のさじ加減、または台詞の取捨や追加による違和感の徹底的な排除がなされていることが分かる。わかるというか、そういった部分に意識が向かないように細部まで作り込まれているといったほうが正しいかもしれない。

もちろん原作付きのアニメであるがゆえ、ハンターにしてもるろ剣にしても、原作との相違を非難する声は必ずあるものだ。かくいうわたしも星霜編のあの結末は原作およびテレビアニメとのあまりの雰囲気の違いから、るろうに剣心というコンテンツの延長として考えるならばファンとしては受け入れがたいものだと思っている。ただし、コミカルさや少年漫画的な希望にも溢れた原作とひとまず切り離し、緋村剣心というひとりの人物の生に真摯に焦点を当てた独立した物語として見るならば、この追憶編と星霜編に関しては名作と言わざるを得ないのもまた事実で、見ればやはりその卓越したドラマに心を揺さぶられてしまう。

うる星やつら』のビューティフルドリーマー、『パトレイバー』劇場版2みたいなものかもしれない。

 

多くのアニメ化や実写化、リブート作品で起こる炎上の一番の理由は原作との相違であることに疑う余地はないが、その背景には原作へのリスペクトの低さを感じとってしまうが故の反感があるのではないかと思っている。

文句を言いたい原作ファンの気持ちもわからないでもないが、漫画からアニメという媒体に変わることによって乖離は必ず生まれるものである。ならば一度、作品にとって最も重要なテーマや骨子の部分を残しそれを中心として再構築しようという、ある種最も作品理解が必要な、労力のいるしち面倒くさい古橋監督の手法は、実は最もリスペクトに基づく誠実な表現方法であるようにわたしには思われる。

 

今回の『どろろ』のリブートにしてもその手法は遺憾無く発揮されている。

最も顕著なのが百鬼丸の表現である。

原作および最初のアニメ化、そして2011年の実写化でも声帯、視力、聴力全て奪われた百鬼丸は、超常的な力によって物を見聞きし会話をしていた。それが今回は超常的な力が生命体の存在を炎のように第六感で感知するという最小限にとどめられている。百鬼丸は盲聾唖の三重苦状態であり、現在の3話に至るまで一言も発せず、また付きまとってくるどろろの言葉も聞こえないのでコミュニケーションがほぼ出来得ない状態である。鬼神に身体を奪われたということはどういうことか、なぜ身体を取り戻す必要があるのかに説得力を持たせた結果の設定なのだろう。

クールでニヒリスティック、もともと結構よく喋るかっこいい兄貴が見れないのは残念であるが、新しい百鬼丸像としては実に挑戦的だし同時に考えうる可能性として納得できるものである。百鬼丸が視力や聴力を取り戻した時はどれほどのドラマがあるのか、胸熱である。

百鬼丸の義肢についても作り物であることが強調されている。1話に至っては歩き姿のわずかな違和感まで再現されており舌を巻いた。こだわりすぎw

腕の刀はひじが曲がる際刀身の根元(本来柄となる所謂茎の部分)が突き出る構造になっており細部へのこだわりにも物語の方向性が滲み出ている。

皮膚がない百鬼丸の設定から登場時は面をかぶっているが、作り物感をしっかり出し異質さを演出するという意味でも今回のキャラクターデザインである浅田弘幸の絵柄(美しい!)が十二分に生きている。デザインを一新したのは現代受けするためには必要であるとはいえ、ただ綺麗になっただけではなくそれをしっかり物語の仕組みの一つとして活用しているのはうまいものだ。

どろろの描写は、百鬼丸に比べれば特出しているとはいえないが、悪童としてしっかり描かれているのは好感である。

1話でどろろが騙した親方以下数人は、おそらく荷運びの仕事をしていたと思われる。荷物を大事に扱ったり、最初は窃盗をしたどろろに対してある程度の折檻(戦国時代が舞台の本作に、子供への暴力は間違っているという現代の価値観を持ち出すのは愚の骨頂なので悪しからず)でことを収めようとしたところを見るにそこまで極悪だと思えないが、どろろは躊躇なく石礫をぶつけ親方の片目を潰している。

ここで重要なのはどろろが躾のなっていない悪童ということではなく、躾けて庇護してくれる存在がいなかったという背景の説明にもなっている。これは前シーンで百鬼丸に助けられた子供が、母親に言われ礼を言う部分との対比からも明確だ。

一人で生きてきたどろろ百鬼丸と出会うことで他人に対する思いやりや愛情や信頼を取り戻していくことが物語の一つのテーマになるであろうと自然に想像できるようなスムーズな流れとなっている。

このような細かい脚本や演出ひとつひとつに、古橋監督やシリーズ構成の小林靖子などの製作陣がいかに丁寧にこのどろろのリブートに着手しようとしているかが滲み出ている。

 

どろろの声を演じるのは、子役の鈴木梨央。わたしは子どもらしい素朴な質感のあるぴったりな声だと思ったが、ネットを見るに様々な意見があるようだ。

ちなみに声優の起用に際して、過去の古橋監督作品で知名度ではなくそのキャラクターに合うかどうかという一点に焦点が当てられて選ばれている印象がある。るろ剣における剣心役に宝塚の男役であった涼風真世を起用したのを始め、あまり声優声優していない声質がナチュラルな人かベテランを使うイメージである。

百鬼丸に関しては3話時点で未だ一言も発していない。舞台ありきの配役だったのだと思うが、そういった意味ではどのような演技になるのか楽しみだ。

 

墨絵に着色したという幽玄な美術や、背景に徹することが出来るクオリティの高いBGMなどなど、製作陣の力量はどこをとっても高い水準で、どのような演出や脚本にも対応できそうだし、もはや心配する部分が思いつかないくらいである。

歌詞は意味不明だがサビのギターのメロがかっこいい、ミスマッチの妙が光るオープニング。

切ない歌詞が美しい浅田絵と交差するエンディングは、和と今風のサウンドが融合したアレンジが素晴らしい(最後の百鬼丸の笑顔を見たいがために毎回見てしまう!)。

 

なんだか、絶賛一辺倒になってしまった。古橋監督のファンや、実写版どろろまで含めてどろろという作品が好きな人間(つまり私だ!)にはたまらないアニメであるのは間違いない。

うまく現代向けにアレンジしつつもけして現代の流行りには迎合しない硬派な作風、好感しかない。

 

憂鬱な月曜がこんなに楽しみになったのは、おそ松さん以来なので、しばらくはブルーマンデーとは無縁の生活ができそうである。

 

以上、敬称略