ちょっと論文ぽいタイトルを気取ってみたが、内容はまあまあ薄味であると先に言っておく。どのくらいかというとカルピスを10倍の水で薄めたくらいでございますのでそこんとこよろしくおねがいします。
1.あらすじ
2.流された英雄、百鬼丸
3.百鬼丸のモデルは恵比寿様?
4.百鬼丸は鬼か桃太郎か
5.まとめ
今回は『どろろ』のアニメから読み解くことができる民俗学的な背景をふんわりと考えてみようと思う。
どろろという作品は、他の手塚作品同様、日本のあらゆる伝承や民話、土着信仰に対する深い造詣で溢れている。
昔話や伝承をいくつも読み進めていくと、同じようなモチーフが繰り返されていることに気づく。日本でそれらを体系化したのは柳田國男や折口信夫ら明治期の学者であり、体系化されることで民俗学という学問ジャンルが生じたことは言うに及ばないが、学問として分析されるようになったのちもあらゆる物語がここで分析される系譜に追随しているという事実は、民話や伝承の中に息づくモチーフが大変強い魅了を持っていたからに他ならないだろう。
漫画の神さま手塚治虫は、これらモチーフを意識的に踏襲、あるいは逆説的に使用することによって彼の作品に普遍的な深みを与えているのである。
深い考察は各個人に委ねるとして、ここからは私見をまじえて簡単に例を挙げてみたい。
1.あらすじ
この物語の主人公である百鬼丸は、父親である領主の醍醐景光と鬼神との契約の生贄として、目耳鼻や四肢など体のあらゆる部分を奪われた不具の状態で産まれた少年である。それ故に彼は産まれてすぐ川に流されたが、寿海という親切な医者に拾われ一命を取り留める。寿海に義肢をつけてもらった百鬼丸は自身の体を鬼神から取り戻す旅へと出る。というのがこの物語の起こりである。
2.流された英雄・百鬼丸
百鬼丸の身の上はまさにお手本のような貴種流離譚となっている。
貴種流離譚とは、読んでそのまま高貴な生まれの人あるいは神が、何かの因果で卑賤の身となり、流浪の旅の末に再びその地位を取り戻し幸せになるという、民俗学者の折口信夫が提唱したいわば文芸のセオリーのひとつである。昔話の『鉢かつぎ』、源義経の幼少期の物語とされる『牛若丸』や日本最初のハーレークインもとい長編小説『源氏物語』、能の『山椒大夫』など、このセオリーを踏襲しているものは枚挙にいとまがない。
百鬼丸においてはこの何かの因果というのが、父親と鬼神との契約に当たる。
百鬼丸の物語は貴種流離譚をベースに更なるモチーフを幾重にも重ねて形作られている。
3.百鬼丸のモデルは恵比寿様?
冒頭で川に捨てられる百鬼丸の最も判りやすいモチーフは、記紀神話の国生みのくだりでイザナギイザナミ2柱の最初の子として登場するヒルコ神だろうか。
この神は国生みの際女神から声をかけたため、不具の子として生まれたとされる。また日本書紀では3歳まで足が立たなかったため樫の舟で流してしまったといわれる神様である。
百鬼丸が四肢を失った不具の体で生まれ、それ故に流されたという点からヒルコ神をモチーフとしていると言って間違いないだろう。
ヒルコは蛭子と書き、蛭子はエビスとも読むことが出来る。
実は流されたのち記紀からその記述が消えてしまったヒルコ神であるが、この神を乗せた舟が着いたとする伝説は各地にありヒルコ神を祭神とする神社は多い。室町期頃より海神(=水の神)である恵比寿(戎・夷)様と習合し、流されてしまった蛭子神が海神あるいは福の神となって戻ってきたという物語が出来上がったと考えられている。また海辺に流れ着いた漂着物のことをエビスと呼び習わすことが海辺の民俗で頻出することからもその繋がりが見て取れる。
さて小舟で流された百鬼丸。彼もまた下流で寿海という医者に命を救われる。
寿海の呪術?で仮ではあるが体を与えられた百鬼丸は息子のように可愛がられ立派な少年に育つ。
一度は流されてしまうも、流れ着いた先で再び立派な神様として祀られるヒルコ神の姿と重なるようである。
後編へつづく
【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 後編 - エウレカの憂鬱