エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【映画考察】『シン・ゴジラ』日本人から探るゴジラの実像

2016年にヒットした庵野康明監督のシンゴジラを取り上げてみる。

 

○本作のターゲットは日本人である

本作が海外でウケが良くないという話を聞くにつけ、なぜ海外の評価を気にする必要があるのかと疑問に思わずにはいられない。この映画は日本人による日本人のためのゴジラだと言っても良いだろう。

 

○日本の常識を知ることで生まれるリアル

日本独特の会議の煩雑さや悠長さ、リーダーシップの無さの再現という理由については既に多くの考察で語られているので敢えて言わないので、それ以外で話を進める。

二度目の上陸時に走って慌てず歩いて避難する人々(避難訓練の成果)、一般人のSNSに上がる放射線測定器の写真やシーベルトの文字、神社に避難する人々(風立ちぬでも震災の時神社に避難していましたね)など、本作は日本人、あるいは戦後、311震災・原発事故後の日本在住者にしか分からない記号で溢れている。記憶の中の体験と映画がシンクロすることで、観客にゴジラという虚構に実存感を持たせているのである。

ゆえに共通の感覚を持たない海外の観客にとっては、シンゴジラの特撮系ディティールも相まって退屈で共感しづらいものになっている。

 

ゴジラ=荒ぶる神か?

ゴジラの倒し方もまた海外の人には不可解だろう。ゴジラを倒すのではなく活動停止させるという結論は、原発の冷却を暗喩していると同時に、人知の及ばない脅威、かつては荒ぶる神といわれた自然の猛威に対して行った『鎮める』という行為に類似している。

ゴジラに限らず、日本のアニメーションの根底には制作が意識するしない関わらず、この力の暴走・荒ぶる神と『鎮める』或いは『封じる』という結論が出てくることがある。大友克洋監督の代表作『AKIRA』でも『風の谷のナウシカ』でもそれは描かれている。

これは極めて日本的な解釈である。

全能の神を戴き人間の被征服下にある自然というのがユダヤキリスト教的な西洋の価値観である。それに対し自然崇拝とそこから展開した汎神教的な八百万の神を戴く日本においては、誤解を恐れず言うならば自然は征服対象ではなく信仰対象となる。

近代以前の災害(獣害含む)というものの認識について、前者は人間の罪に起因する贖罪と試練としての神罰であり、もし人間に罪が認められない場合それは神の敵対勢力(悪魔やそれに準ずるもの)の悪意となるが、後者にはそのような神と人間の一対一の関係の中での超自然的な意思の介入は見られず、あくまで神(自然)自身の性格の一面であるという認識が強い。

これが和御魂(恵みを与える自然)と荒御魂(命を脅かす自然)の概念である。

もしそこにどうしても人間に対する神自身の故意を認めたいならば、それは人間の広義の攻撃に対する報復(祟り)として和御魂が荒御魂に変化したという解釈が正しかろう。

そこで日本では、荒御魂、読んでそのまま神様の荒ぶる魂を慰め鎮めて、人間に有益な和御魂となって貰おうという考え方がある。

これを御霊信仰という。

和御魂・荒御魂について、宮崎駿監督の『もののけ姫』を観たことがある人は、人間に致命傷を負わされてタタリ神になったナゴの守や、命を奪い与えるシシ神、そのシシ神が首を奪われ暴走して、主人公らが首を返そうとする場面を思い浮かべていただけると分かり易いだろう。

 

ゴジラは日本にとっては荒ぶる神である。

初代ゴジラではそれが罪(核汚染)というタブーを侵す行為に対する報復として描かれていたのに対し、本作ではより無作為な災害に近い荒御魂としての性格が強く打ち出されている。

それもそのはず、今回のゴジラが表しているのは先の東日本大震災に代表される自然災害そのものなのだ。

さすがに政治家を主人公に据えた現代劇(そもそも怪獣映画)で、ゴジラの魂を慰め鎮めるという解決は論外(盛り上がらない!見たくない!)なので、血液凝固剤でゴジラを物理的に沈静化するというヤシオリ作戦という形を取っている。八塩折ノ酒はスサノオノミコトが八岐大蛇を酔わせて倒した際に使われた酒だが、この『古事記』の神話をさらに遡って考えてみれば、そこには八岐大蛇という荒御魂を慰撫する供物として酒を捧げていた古代の神事が見え隠れしている。

ヤシオリの酒をたらふく飲まされた現代の八岐大蛇ことゴジラは、凍結という形で鎮静化した。これがつまり荒御魂が鎮められたシーンなのである。

この先神話のようにゴジラが崇め奉られるのかどうかは知らないが、日本人はこのいつ復活するとも知れない危険なゴジラと共存することになった。だがこのゴジラがいるという事実が、日本の防衛の新しい要になりはしないだろうか。少なくとも不用意な攻撃は相当な博打国家以外は躊躇うはずである。ゴジラの新元素は日本の発展と世界での地位向上に寄与するかも知れない。インバウンドは減るかも知れないが、商根たくましければゴジラが新たな観光資源となる可能性もなきにしもあらずである。

かくして日本はゴジラと共存していく。

追い払うのでも倒すのでもない共存するというのは日本らしい面白い着地点だろうと思う。

 

○日本的なヒーローとは誰か

本作は無駄な会議シーンが長く、人間側のドラマが薄いという意見があるそうだが、そうだろうか。本作はアメリカンな言い方をすればヒーローで溢れている。
寝食もおざなりにして寝ずに対策を立てる蘭堂ら官僚・研究者たち、重責の中判断を下す総理ら大臣たち、任務を黙々とこなす自衛隊員たち、冷却液を作る全国の製造者たち、日本を信頼しスパコンを貸してくれたドイツの研究機関、核に反対してくれたフランス政府、交渉の橋渡しをしてくれたアメリカの外交官、お茶を入れてくれた事務のおばちゃん、そしてヤシオリ作戦時の重機の点検をしてくれたであろう会社の人、急ピッチで線路を直してくれたであろう鉄道会社、とうとうゴジラに一矢報いることができた電車たち。

圧倒的なリーダーがいないことは作中でも問題視されているが、その代わりに映画では一致団結する力の強さが示されている。

日本はご存知の通り本来村社会である。

村社会では村というコミューン自体が一つの仕組みであり、生命装置なのである。一人一人の命が軽いということではなく、それぞれが補完し合う一つの細胞という捉え方だと思って欲しい。つまりこの仕組みの中では、リーダーすら指示を出す一つの細胞にすぎないのだ。

日本においては、これはともすれば少し前時代的と揶揄されるかもしれないが、私を滅し仕事をきっちりとこなす人間が職人とか仕事人と言って讃えられてきた歴史がある。

海に囲まれ逃げ場のない日本という国では、危機の時に仲間を引き連れて安住の地へ導くリーダーシップではなく、危機に際し共同体の存続のために和を乱さず協調出来る精神自体に重きが置かれるのはごく自然な感覚なのである。

そしてそのためには自らの幸福や安穏を犠牲にしなけれならないというデメリットも日本人、日本社会に生きる者ならば理解できるところだろう(この島国的な性格の良し悪しは今回は論じない)。

この映画で観客は、登場人物らの描かれない背景を勝手に補完し、日本という共同体の存続(ゴジラの対処はもとより、国連の核から守る為)に自らを犠牲にして、一致団結して命をかける姿に尊さを見つけるのである。

もちろん映画という媒体において、主人公に対しての共感や英雄性はある程度描写しなければならないだろう。それが如実に表れているのが以下のシーンである。

ヤシオリ作戦時の蘭堂の言葉で「日本のために危険を冒してほしい」という自己犠牲をお願いする場面がある。特攻を指揮した大本営と同じことを国民に強要しているとも取られかねない危険な発言だが、蘭堂が彼らと同じく被曝の危険を冒しているなかで、やむを得ない犠牲に対しての苦渋の決断であることで、観客はそこに英雄性を見つける(重ねて言うが良し悪しは論じない)。また原発の暴走の比喩でもあるシンゴジラにあって、それが危険を冒して作業した福島第1原発の作業員に対して蘭堂を通して自分たちが共に寄り添うことができたという感覚が、何より日本人の負い目を癒し、共感を得られたのかもしれない。

 

○日本らしさを通すことの意味
この日本人ならばわかる演出、演技、英雄性の表現の曖昧さが他文化からすると分かりづらく感じるだろう。だからと言って私は日本人以外分からないのだから観るなと排他的なことを言うわけではない。
アニメや漫画などの日本文化は本来は国内向けのニーズに応えたものを海外の人も好んでくれた結果の人気だろう。
よって海外の受けを気にしすぎる風潮は問題だ。ガラパゴスを貫いてこそ良い作品が生まれると思いたい。

その点本作の姿勢は素晴らしいものがある。
初代へのリスペクトを込めつつ、さらに日本オタクのマニアックをこれでもか詰め込み、現代にゴジラを蘇らせた。意見は色々あるが私は傑作だと思っている。

 

緊急時にも国民に銃を向けることを拒む日本。核爆弾を二度と使わせないという決意。そんな日本を誇りに思う。

あと無人在来線爆弾の名称がキャッチーすぎる。積年の恨み晴らせてよかったね!

 

 

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

  • 発売日: 2017/03/22
  • メディア: Prime Video