エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【アニメ考察】『おそ松さん』記号とリアルの狭間

おそ松さんは、言わずと知れた赤塚不二夫のギャグ漫画『おそ松くん』を原作(原案?)としたギャグアニメであり、一期放送当時爆発的人気を博し、今放送されている二期もこの三月に無事最終回を迎える。

賛否色々あった二期であるが、わたし個人的には一期に続き大変楽しめたので、最終回を前に寂しい気持ちでいっぱいである。

おそ松さんファンを公言して幾星霜。
好きだからこそ手を出せないでいたが、最終回を前にしたこのタイミングで一度、無粋とはわかりつつも先日放送された二期24話「桜」までを踏まえて、おそ松さんとは何者なのかという考察に興じてみたい。

 

●「おそ松くん」とは何者か

まず前提としておそ松くんはギャグ漫画である。
基本のスラップスティックコメディを始め、パロディ、シチュエーションコント、メタ、エログロ、シュールなど何でもあり。何でもありなので、お話のオチで爆発しようが、次の話ではしれっと無かったことになって生き返っているし、分裂しようが巨大化しようが特に問題にならない。

彼らはキャラクターであり、キャラクターとはつまり性質であり、記号である。
記号なので生も死もない。
その辺りはアメリカのカートゥーントムとジェリーが輪切りになったり変形したりしているのを見ればよくわかるだろう。
+はどこまでいっても+で、ある時からそれが-や×に変わることはあり得ない。それが記号の本質であり、キャラクターがキャラクターたる所以である。

おそ松くんでは、おそ松からトド松までがはちゃめちゃな六つ子の少年というひとつの記号である。
イヤミの言を借りれば「誰が誰でもおんなじざんす」。
赤塚不二夫の過激なギャグを演じるためには、彼らは必然的に記号的キャラクターでなければならないのである。

しかし、おそ松さんが現代の作品として生まれ変わるためには、このおそ松くんがおそ松くんたる所以の「六つ子の少年という記号」を手放さなければならなかったのである。

 

●六つ子は何者になったのか

まず、おそ松さんでは、彼らは大人になっており、見た目からして全員が同じ顔だったくん時代とは違い、一目で見分けがつくような差別化がなされている。つまりそれぞれが別々の記号になっている。グラサンをかけている奴を見て、「あ、十四松だ!」という判断をする人はいないだろう。
そしてそれぞれは内面もまったく別の人格へと成長している。

 

おそ松→小学生メンタルのクズ
カラ松→痛いナルシスト
チョロ松→真面目ぶったドルオタ
一松→ネガティブな危険人物で猫好き
十四松→人外バカ
トド松→女子力高い現代っ子

 

「六つ子の少年という記号」に変わり、これが彼らに与えられた記号というわけである。
原作でおそ松くんの主役がいつしかイヤミに取って代わられてしまったことを鑑みるに、「六つ子の少年という記号」は唯一無二でありながらも、その影響力は低く弱い。新しい(しかも記念作品)アニメシリーズには明らかに役者不足なのだ。
幻の第1話で、彼らが自らの昭和感を危惧していたことや、あらゆる人気アニメのアイコン=キャラクターを模倣し試行錯誤していたことからもそれは汲み取れるだろう。

現代のアニメに生まれ変わるにあたり、彼らは主役を維持するために別々の記号にならなければならなかったのである。

 

ただ、ファンの人々はすでにご存じであろうが、物語が進むにつれてこの新たに彼らに与えられた記号が信用できないものであると判明する。

全員出すと面倒なので、一松を例に見てみよう。
一松はネガティブな危険人物に見えるが、実はガラスのハートで傷つくのが怖い臆病な人物であり、口は悪いが兄弟を大事にしており結構悪ノリもする明るさも持っている。密かに陽キャに憧れているところもある。あと猫が好き。
どうだろう。こんな長い記号、覚えられるだろうか。
極め付けはカラ松への対応である。当初は毛嫌いしており当たりが強かったが、一期16話「一松事変」で助けてもらってからはその対応が(若干)軟化している。これは一松の中のカラ松という人物評に変化があったためであり、つまり一松という記号は時間経過によってその性質が変わるものなのである。もはやそれは記号とはいえない。それは記号ではなく矛盾を常にはらんだリアルな感情を持つ人間そのものである。

 

上記幻の第1話で、あらゆるキャラクターを模倣した結果世界観はめちゃくちゃになってしまったが、ここで明示されているのは安易なキャラクター付けは成功しないという教訓である。


模索して生き残るために彼らが身につけなければならなかったものとは、実は新しい記号ではなく時間の流れの中で変化するリアルな肉体であったのだ。


●記号であろうとするおそ松の苦悩
前述したことを思い出してほしい、赤塚不二夫のギャグ漫画の過激さに耐えうるには記号化された不死身のキャラクターが不可欠であるはずなのに、おそ松さんの世界には時間が流れており、登場人物は生身の肉体を持ってしまった。つまり彼らには死があることが明示されてしまった。

それにもかかわらず、実際おそ松さんはキレのあるギャグを繰り出し、爆落ちもしょっちゅうである。
なぜリアルな肉体を持つ彼らにその記号的な動きが出来るのだろうか。

実は、おそ松さんの登場人物の中に、世界をおそ松くんの世界(記号的キャラクターが支配する世界)から逸脱しないようコントロールするバランサーがいるのである。
その役目を果たしているのが、おそ松とイヤミだ。
おそ松は六つ子の長男でありリーダーとして他の兄弟たちを取り仕切る立場にある。彼はアニメおそ松さんが持て余したおそ松くんたる所以、「六つ子の少年という記号」(それもすでに記号としての役割を失い形骸化した)をぎりぎりで繋ぎ止めている唯一の兄弟である。
おそ松以外の兄弟が個性を与えられ性格服装共にくん時代より変化しているのに対し、おそ松は子供の頃と同じ顔であり、性格も小学生メンタルのバカという変わらなさである。
つまり彼はただひとりおそ松くんの面影を残した兄弟なのである。

彼が終始働くことに否定的なのは、大人になった彼らが「六つ子の少年」であるために選ばざるを得なかったのがニートという職業(職業ではないがw)であるためである。
おそ松は「六つ子の少年」でなくなったとき彼ら6人の兄弟、ひいてはおそ松さんという番組が崩壊することを知っているのだ。

もう一人のイヤミは、言わずもがなおそ松くんの代名詞ギャグ「シェー」の人であり、作中唯一全ての面において原作を維持しているキャラクターである。彼は六つ子の見分けがつかず、いつも名前を間違えている。まさに誰が誰でもおんなじざんす。
イヤミは、おそ松くんの世界をそのまま生きているので、おそ松たちと絡む際も「六つ子の少年」以上の情報を必要としないのである。
一期21話の「逆襲のイヤミ」でイヤミの分解光線でみんな殺されてしまったが、なぜかおそ松だけは生きていたことを覚えているだろうか。
それはなぜか。イヤミとおそ松が未だ記号のキャラクターであるからにほかならない。


おそ松(とイヤミ)が、おそ松くんからおそ松さんが引き継いだギャグの世界線あるいは、記号的な虚構の世界が、リアルな人間の世界に引きずられないように手綱をとってバランスすることで、おそ松さんという世界観が存在していたのである。

しかし、一期1話で復活した誰が誰でも同じなおそ松くんたちは、話数を重ねるごとに記号から逸脱し複雑な精神を持った生身の人間へ枝分かれしていった。そして一期24話「手紙」。物議を醸し出したこの回で、とうとう瀬戸際でおそ松が守っていたバランスが崩れる事態が発生する。
記号的な虚構の世界が、生身の人間が支配するリアルの世界に乗っ取られてしまったのである。
その原因はもちろん、チョロ松の就職による「六つ子の少年」という記号の完全な喪失である。
これはつまりおそ松さんという番組の崩壊を意味している。


たとえば超人ギャグマシーン・変幻自在の十四松も、リアルな世界になるととたんにただの人になってしまうことは、
一期9話「十四松の恋」において、彼がではいくら走っても彼女の新幹線に追いつくことはできなかったことですでに描かれている。24話でもおそ松に蹴り飛ばされた際、すぐに復活したら弾き返す等カートゥーンな動きをすることなく怯えて痛がることしかできない様子が描かれている。
チョロ松してもあの簡素な作りからは考えられないような複雑な表情で男泣きを見せ、イヤミがいくら挑発やシェーを繰り出すもツッコミをすることはなかった。
これではギャグ漫画(アニメ)としての体面を維持できるはずがない。

ギャグ、特におそ松さんのような登場人物が別のキャラクターを演じるコント形式のものは、演者(ここではおそ松たち)の生々しい背景が見えてしまうと途端にそのつまらなくなってしまうのである。
それなのに、体面を守りこれまで番組を牽引してきたおそ松はというと、崩壊に対しただ憮然とし沈黙とすることしかできなかった。なぜなら「六つ子」であることを奪われリアルの世界に取り残された彼には、もはや何の力も残っていないからである。

●おそ松の逆襲
しかしご存知の通り、
一期の25話の冒頭から、おそ松による怒涛の逆襲が始まる。
おそ松がセンバツという力技で、ギャグの世界線に引き戻したのである。
たちまち24話のサブタイでもあったチョロ松の手紙は発火し、十四松の怪我は消えて無くなり、6人のハートがひとつになってあっという間に「誰が誰でもおんなじ六つ子の少年」に逆戻り。

最後は宇宙に飛んで行くカオスな展開。バランスを取り戻すどころか、勢い余ってギャグに全振りした大変気持ちの良い最終回であった。

おそ松の華々しい勝利である。

 

さて、宇宙から舞い戻ってきた6人によってちゃんとしようと始まった二期も、いよいよ佳境の24話「桜」を迎えた。ここで一期で一度バランスを取り戻したおそ松さんの世界は再び崩壊の危機に瀕しようとしている。
今回は一期の24話よりよほど深刻である。
その理由はおそ松がリアルの側に立ってしまったということにある。
松蔵の病という記号の世界にとって最も縁遠い、リアルな死の影(幸い松蔵は快方したが)の描写の導入が、彼を記号の世界線から引きずり出してしまったのである。
おそ松は、一期24話で自身だけは最後まで堅持しようとしていた「六つ子の少年という記号」の完全な撤廃を自ら宣言し、結果彼は「松野」という無個性なラーメン屋のバイト青年に変わってしまった。
もう一人の牽引者イヤミはというと、二期23話で自らをおそ松さんに溶け込めないと判断している。彼が一番輝いたのが戦後を舞台にした「イヤミはひとり風のなか」であるというのも中々暗示的である(さすがに深読みか)。
そしてイヤミは24話においてはリアルに身を置いてしまったおそ松と袂を分かち、記号的な虚構の世界をおそ松さんの世界と切り離し去っていくという恐ろしい結論に達してしまった。
おそ松とイヤミを失ったおそ松さんの崩壊はもう止まらない。

 

唯一の救いはおそ松が崩壊に対し、自覚的ということである。
トト子ちゃんに打ち明けた「自分はまだおそ松でいれているか」という問いは、記号である自身が失われていくという危機を自覚している現れである。

「これでいいのか?」と自問を繰り返すおそ松は、はたして最終回で「これでいいのだ」をとりもどすことができるのだろうか。

 

おそらくはこれを載せる時には、最終回の本放送が世に出ていることだろう。

そして、すでにこの文章がちゃんちゃら可笑しいピエロの世迷言となっていることだろうと思う。いやそうなってほしい。

悲しき地方民は土曜日深夜まで、記号・キャラクターの持つ無限の可能性が、しけたリアルの世界に風穴を開けて、スッキリ大笑いさせてくれることを期待しながら全裸待機することにしよう。