エウレカの憂鬱

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【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 2/3

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尾形は完全な合理主義者にはなれない

そんな尾形に自分の矛盾を意識させる思考のターニングポイントを与えた人物は2人おり、その1人目が腹違いの弟勇作である。

勇作は尾形に親愛を向けるが、尾形は勇作に対して嫉妬の感情を持ちそのことで両者の人格の違いを思い知らされる。

彼が清廉な存在であるほどに、さらには罪(戦争殺人)を犯さなくて済んでいるのは「愛され望まれた存在」であるからと考えざるを得なくなるからである。 

尾形は最終的に自分の存在意義を実証するために勇作を射殺してしまうが、その結果否定したい自らの自己認識を補強する形となり、自らの嫉妬による道理なき勇作の殺害は、無意識の罪悪感としてその後尾形を苦しめ続けることになる。

本作では鶴見中尉を中心に聖書関連のモチーフがよく使われており、中でも尾形の一連の尊属殺人エピソードは旧約聖書の「アベルとカイン」に基づいて形成されていることに注目したい。

尾形はもちろんカインであり、自らの獲物(供物)を母に受け取ってもらえず、祝福された弟・勇作を殺害、父より呪われる。カインと違い、尾形は父花沢中将を殺害してしまう。

尾形の青年期である兵役時代まではモラトリアム期、いわゆるなぜ自分は生まれながらに愛されないのか、なぜ世界は平等でないのか等の普通の悩みを抱えていた時期である(行動が普通ではないしにろ)。

その青年期の終わりは、言わずもがな花沢中将の呪いの言葉である。

尾形の「自分にも祝福された道はあったか」という問いに対し「呪われろ」という拒絶の言葉を返されたことにより、「自分には祝福された道はなかった」という自らの無価値観を再認識するという帰結にて彼のモラトリアムは終止符を打つ。これは神やら愛といった尾形曰くひどく曖昧な、また彼が生来実感できなかった存在との永遠の訣別を意味する。

 

尾形は超人になれるか

ここから尾形の思考はニヒリズムの色を濃くしていく。ニヒリズム虚無主義)とは、従来の価値観を失い信じられるものがなくなった「よすがのない」状態である。

哲学者のニーチェは、このニヒリズムを肯定的に捉え、従来の無意味な価値観の中で、自らの強い意志と力で新たな価値観を規定し突き進む「よすがを必要としない」一握りの人間を「超人」と呼んで推奨した。ニーチェによれば愛や道徳、思いやり、信仰などは、超人になれなかった弱い群衆が自分たちの抱える妬み嫉みの感情(ルサンチマン)を慰めるための欺瞞であるという。尾形の生き方はまさにこの超人街道まっしぐらに見えなくもない。

確かに尾形は樺太でキロランケの「カムイレンカイネ(神のおかげ)」という言葉を真っ向から否定し、食物となった神への感謝であるヒンナやチタタプを言わず、自分と近代兵器であるライフルのみを信頼している。

この超人としての生き方が体現できれば尾形はさぞ楽だろう。自分で自分を正しいと規定できれば、過去の罪悪感やルサンチマンに苛まれなくて済むのだから。

しかし結論からいえば尾形は超人になることは難しいだろう。

尾形にとってのこのニヒリズムは、彼がすがった近代合理主義の代わりだからである。

尾形は愛を希求するも得られず、それらと断絶された状態から自らを守るために合理主義の武装をするも、これも勇作により剥がされる。

そうして残るのは「永遠に得られぬ母の愛、罪悪感、自らの無価値感」である。

尾形にはこれを直視し肯定することはできない。その証左に母に愛されなかったトラウマに囚われ、「親殺しは通過儀礼」と嘯いたり、自らの存在否定(銃を突きつけられる等)に激昂したりし、勇作殺害の罪悪感に押しつぶされるように彼の亡霊を幻視したりしている。 

全てに価値を見出せなくなることがニヒリズムだが、尾形にとって無価値に思えるのは自分自身だけなので、もはや尾形が解放されるのは、世の中の全ては価値がない(虚無)と確信できるその時だけなのだ。

 

世の中の全てに価値がない、この思想と真っ向から対峙するのがアシリパアイヌの教えである。

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 3/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

※以下最新話までのネタバレが少しあります。