エウレカの憂鬱

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 【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 3/3 近代国家の迷い子たち②

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※本ページのみ未単行本のネタバレあり。

天から役目なしに降ろされた物はひとつもない

勇作に続き尾形の思考を否定する2人目の人物はお分かりの通りアシリパである。

「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」というアイヌの教えは、「全てに価値はない」という尾形の思想と真っ向から対峙するものである。それだけではなくアシリパの存在自体が、尾形に自らの思想を否定させようとしている。

尾形は深層心理下でアシリパに価値を見出していると思われる。それは偶像としての価値ではなく、自らに愛を与えてくれる、自分に価値を見出してくれる存在として、である。これは本来尾形が母に与えられたかったもので、心の底で求め続けていたものだ。

尾形は作中で「ヒンナ」「チタタプ」を口にしたことが一度だけある。読者はそれを、まず尾形が心を開いた描写と捉え、その後その裏切りによってアシリパから金塊のありかを聞き出すための演技であったかと肩を落としたことだろう。しかし私はこれをやはり絆された証であると、再度定義してみる。

その根拠は札幌で尾形がアシリパの狙撃を無意識に躊躇う(勇作の出現)シーンである。尾形が合理主義者であるため「道理に欠ける殺人である」から躊躇った、という理由では弱い。彼は札幌で浮浪者を身代わりにし、函館で機関士を射殺している。そこに道理はない。単純に尾形はアシリパを撃ちたくないから撃たなかっただけなのだ。

アシリパは尾形に価値を与えた。風邪をひいた時も熱心に看病してくれるし、釧路のコタンでは唯一尾形を信用してくれるなど、「出来損ないで、呪われた」その存在を肯定してくれる。そして彼の狩りを褒め、獲物を受けとり調理し与える。尾形の獲物がアシリパ(と他の仲間)の腹を満たし、命を繋ぐ。アシリパと同行している時だけ、尾形は自分に価値を感じたのではないか。

しかし残念なことに尾形が杉本のように素直に自分の価値を再認識して救われることはない。

はじめにその理由を尾形が近代合理主義者でニヒリストであるからと定義し、ここまでにそのニヒリズムと合理主義の根源に「母に愛されなかった事実、罪悪感、自分の無価値感」の否定があると説明してきた。

本来の目的(現段階で明かされる限りは金塊の見返りに母の愛した師団長の席に座り、その席が無価値であると再認識したいため)の途中、アシリパアイヌの思想に絆されかけた尾形だが、樺太で風邪にうなされる中で自らの罪悪感を再認識したこと(あるいはここで初めて勇作の言葉の真意を理解してしまったのかもしれない)で再び虚無の証明に縋ってしまう。

そしてアシリパからの「やはり信用できない」という否定をもってして、「やはり俺ではダメ」と彼は再び自らの価値を否定し呪われることになる。

 

尾形は救われるか

身もふたもない言い方をすれば、作劇の仕組み上「救われる」だろう。作中、鶴見中尉は乗り越えるべき、土方は背中で導く、それぞれ迷いのない絶対的存在であり、牛山や永倉、そして中盤からの谷垣も揺らぐことのない大人だ。対して杉元、尾形、白石、月島、鯉登、そしてアシリパは迷いの中で答えを探す途上の若者として描かれており、物語の帰結で彼らは何かしらの答えを得るはずだからである。

各単行本の折り返しに提示され続ける「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」というテーマは、陳腐な言い方をすれば「お前の命には意味があり、存在する価値がある」という意味である。これはもちろん主人公である杉元のための言葉であるが、批判を恐れず言うなら杉本の表裏である尾形のための言葉といえる。むしろこちらが本命と言ってもいいかもしれない。

尾形の思想や存在自体が物語のアンチテーゼであるため、尾形の結末には必ず「自分は欠けた存在として生まれ罪ある存在であるかもしれないが、それでも生まれてきたことに価値があったのだ」というアウフヘーベンが得られるはずなのだ。そしてその示唆を与えるのはやはり生きることに対し純然と肯定する人物、アシリパなのだろうと思う。

基本的に合理的で打算的、心に虚無主義を掲げた尾形が唯一、他人の感情に対して素直に良感情を向けたシーンがある。釧路の湿原でアシリパの杉本への恋心に気づいたときである。杉元の恋バナを聞きたくないために突然鶴の舞を始めたアシリパはその理由を聞かれ下手に誤魔化す。この一連のやり取りに尾形は「ははっ」といういつもの笑いではなく、「ふっ」という微笑みが溢れたような笑いを見せている。ヤマシギのドヤ顔シーンと合わせて尾形の素の人間らしさが見られた貴重なシーンである。

これらは尾形が真正サイコパスである宇佐美と違い、ねじれまくって拗らせきっているもののただの人間だという証拠である(サイコパスではないが反対に英雄や聖人にもなれない)。杉元が「忘れてしまった人間性」を思い出させてくれるのがアシリパなら、尾形にとっては「与えられず得られなかった人間性」を教えてくれるのがアシリパなのかもしれない。

精神的な救いは与えられても、肉体的にはやらかしすぎて先がなさそうな尾形であるが、せめて一瞬でも祝福を得られる瞬間があると良いなと、ここまで考察してきた身としてはフィクションながら願ってしまう。

ともあれ、この先は物語の行く末を待って結論づけられることだろうと思うので、結末を楽しみにしておく。