エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【映画感想】『君たちはどう生きるか』

宮﨑駿監督の最新作を観てきた。

観たままの生の感想を記録したく今、筆を取っている。

ネタバレとわずがな考察になってしまうから、未読の方は絶対に見ないで欲しい。そして観終わって自分の感想がまとまってから他人の意見として読んでくれたら嬉しい。

 

視聴後、映画館を出て夜風にあたっていたとき、突然涙が溢れ出てきた。
映画のドラマに感動した訳ではない。
宮﨑駿監督という一個人の抱え続けていたであろう想いを見てしまったからだ。そして、この子供の頃から親しみ、また同時に多大な示唆を与えてくれた偉大な監督とのこれが別れだと思ったからだ。
風立ちぬ」のプロモーションで鈴木敏夫さんは「これは監督の遺書である」と言ったが、私は作品を見てその言葉が話題作りのコピーだと思った。でも本作を見た時に、ああ、これは遺書だと思ってしまった。

本作は母を探して根の国を旅する話だ。
死の象徴である糸杉が聳り立つ根の国は、あの世であり、母の国である。

物語は自叙伝のように宮﨑駿自身の人生を描きながら、中盤からは荒波立ち風の吹き荒ぶ凄まじいあの世の世界に変わる。
創作というのは身の内に吹き荒ぶ嵐であり、創作に没頭しているときの人間は半分は死の国を覗いているのだと個人的には思っているので、私にはこの地下世界の嵐は監督の中のイマジネーションの根源に思えた。地下世界=創作の中で、宮﨑駿の分身である主人公はひたすら母を探し続ける。
奇妙な縁で主人公を助ける友アオサギはもしかしたら盟友の高畑監督の分身なのかもしれない。主人公を強く導き勇気を与えたトキコさんはもしかしたら奥様なのかもしれない。おそらく監督本人だけが分かるだろう親しい人々が嵐に翻弄される主人公を助けてくれる。

終盤で主人公はもう1人の監督自身である大叔父の積み木を断る。若い主人公は、普遍の石ではなく育ち朽ちる木を肯定するのである。
老いた監督の世界は終わりを迎え、たくさんの鳥たちが外界へと溢れ出る。若い監督である主人公は追い求めた愛する母からの慈しみと労いの包容を受けて物語は幕を閉じるのである。

事前にうっかりネタバレして嫌だなと思っていた米津玄師の採用も腑に落ちる。
本作はトップを走り続けて次世代の追随を許さなかった宮﨑監督が、とうとう次世代の背中を押すことにした決意表明であるから、同じ立場の久石さんの楽曲に甘えるわけにはいかなかったのである。

俺はこう生きたぞ、お前たちはどうだ?

映画は語りかける。
後々の自分のために、誰の感想や考察も見ないまま、今この感動を素直にここに自分の言葉で書いている。
偉大な監督から、私はどう生きるかの宿題を与えられたような神妙な心持ちになった。映画を観て良かった。

高坂監督や米林監督も名を連ねるそうそうたるテロップが流れ、最後、いつものように「おわり」の文字がない。
それもそのはずこの映画は監督の人生なので終わりの文字を入れられるはずがない。

これは宮﨑駿監督の実に人間味溢れる集大成だ。おそらくもう長編映画を作ることはないのではないだろうか。
でも個人的には、長生きして誰にもわからない趣味全開の作品を作りまくって晩節を汚しながら楽しんで創作を続けていただきたい。

素晴らしかった。
色々な意味で点数はつけられない。

 

 





 

【漫画紹介】『地獄楽』シュールで甘美な地獄絵巻

ジャンププラスで掲載されていた『地獄楽』という漫画をご存知だろうか、

時は江戸時代、不死の薬があるという不思議な島に送り込まれた囚人と監視役が繰り広げるバトルロワイヤル漫画である。

 

 

見どころ①まるで東洋のミッドサマー!華やかで奇妙でグロテスクな世界観に浸ろう!

この物語の魅力の8割はこの魅力的な世界観と言って良いだろう。主人公たちが送り込まれるのは、鮮やかな南国の花々が咲き乱れる楽園のような島。しかし彼らより前に島に送られた人間はどうなったかというと、体中からこの花々を咲かせた死体となって本土に流れ戻ってくる。この一連の話で世界観の魅力を伝えるのには十分ではないだろうか。

鮮やかな花々の生命力と死という、対極にあるくせに親和性の高いコントラストに、本作はさらに道教などのアジア的なエッセンスを組み込むことでなんとも怪しく蠱惑的な世界観を作り出している。

道教とは古代から続く中国の土俗的な宗教であり、不老不死の仙人を理想とする教理が有名。キョンシー映画の道士でもお馴染みのこの道教や風水師などのほか、日本にも早くに流入しており、陰陽師の思想の根底にある陰陽五行説道教の思想だ。近いようで遠いこのアジア的な味付けが絶妙な不可思議さを醸している。

美しい楽園に無垢巨人の如く跋扈する巨大な怪物たちも奇々怪怪。鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に出てくる塗仏に似た化け物から、タンノくんのような足の生えた魚、人面蝶、前述の道教寺院にあるような福々しい仙人像のような化け物まで、様々なクリーチャーが登場し、この絶妙な気持ち悪さが唯一無二の世界観を作り出している。

強いて言えば、土俗的な恐怖や剥き出しの性、理解の及ばない気味の悪さに美しい花を添えた狂気のスリラー、アリアスター監督の「ミッドサマー(Mid Sommer)」に似たスタンスだろうか。とにかく美しいのに不快なのである。

作者の賀来ゆうじはわずかな違和感からくる恐怖の描写が抜群に上手い作家である。自分のよく知っているものがどこかオカシイという僅かな違和感の気味の悪さは本作の世界観の特徴である。

 

見どころ②美しい筆致

前述の奇妙な世界観に説得力を持たせているのはその細やかで美しい筆致である。それは本作のキャラクターデザインにも遺憾なく発揮され、それぞれが特徴的かつ美麗に描写されている。本作は道教の修行である房中術なども出てくるものの、絵柄が美しいので下品にならず、女性読者でも肌色に不快感がなく見られることと思う(子供はどうかな〜、年齢を選ぶかもしれない)

 

見どころ③取り入れられた設定から垣間見れる知識とネタの大深海

島の設定の妙はもちろん、本作のキャラクター設定の妙がある。まずは主人公の画眉丸や杠らはいわゆる忍。バディとなる女剣士の佐切をはじめとする山田浅ェ門(一門の名前)は首切り御用人の山田浅右衛門(事実では当主の襲名する名前)がモデルであろう、彼らは死穢を伴う職から正式な武士の身分を与えられなかったとされる。特徴的な外見の子供ヌルガイは作中でサンカであると明言されている。サンカは定住生活をせず、大和朝廷幕藩体制に組み込まれない山の民である。盗賊兄弟はいわゆる無宿人。つまり彼らは皆士農工商の外側にある被差別の立場に属するものが多いのである。非常民や無宿人を主な登場人物に置いた物語はジブリの「もののけ姫」や京極夏彦の「巷説百物語」が有名だが、本作も(架空ではあるが)江戸時代ものでは異色の設定の部類であるだろう。作者は民俗学文化人類学などに造詣が深い人であると見た。とにかく作中の小ネタや設定を深掘りしていると作者が忍ばせた思わぬ知識の金鉱に当たったりして面白いだろう。

 

見どころ④先の読めない物語の魅力

世界観と合わせて本作の見どころといえば、先の読めない物語。本作はキャラクターの内面自体は少年漫画然とあっさりしているが、そのストーリーは実に芳醇。謎が謎を呼ぶ物語に、道教の設定をうまく組み込んだ敵方の特性や戦闘描写など、描かれたエッセンスがしっかりと物語の芯に関わってくるのは好感が持てる。

 

まとめ

4月からアニメになるということで、あの千変万化の不気味な神仙世界が今から楽しみだ。

今からでも、ぜひ漫画も手に取って欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ドラマ考察】『どうする家康』にハマらなかった人から見た戦略

最初に。

私は今年の大河ドラマをリタイアした。

1話目からキツかった。

でも面白くなるかもしれないからと我慢して我慢して観て、やっぱりギブアップしてしまった。

しかし今年のドラマが好評の層もあるらしく、つまりは私は今回の大河のターゲット層にもれただけなんだなぁと納得。

良い機会なので本作がどのようにターゲット層に訴求しているのかを、完全な贔屓目なしの状態から考えてみようと思う。

 

1.ターゲットは誰か

これは今まで大河に興味がなかった若者層や女子層だろう。

これまでの大河層はどちらかというと発信力の低い層であり、これから先細る層でもあるので、活気を取り戻すためには、発信力が高い若年層、女性層をターゲットに考えるのは賢明である。

それでは、若者と女子層を取り込むための施策はどのようなものか見ていこう。

 

2.演出面での施策〜POPさの強調

①丸・やわらかい・淡い

女性層は男性層より丸みがあるものを好む傾向があるといわれる。ダイハツの軽自動車であるムーブシリーズが良い例で、丸みがあり柔らかな雰囲気のものは攻撃性を感じにくくマーケティング的にも女性に好まれやすい。どうする家康のロゴは丸を象っており、書体も丸い。オープニングのスタッフロールも横文字で、ほっそり柔らかめの明朝体を使用している。アニメーションではパステル寄りの明るいカラーを多用。現れる図形も丸みが多く、柔らかな布や紙を思わせるテクスチャーも、男性より自分視点の感覚を重視するといわれる女性の感性に訴えている。

 

②平和

本作の舞台は血で血を洗う戦国時代であるが、ターゲットに好まれるテーマでは決してない。ワンピースに比べてプリキュアに流血や暴力が出てこないように、女性向けの作品は基本的に流血は少ない(耽美的感覚や色気を醸し出す小道具としての吐血などは除く)。オープニングはこの血の気配を感じさせないように作られており、これが朝ドラのようだと揶揄される所以である。

楽曲も同じく。優しいピアノの旋律をメインに据えたオーケストラの流れるような明るいメロディが特徴。ミドルテンポで全体的にリズム隊は一定で控えめとなっている。

太鼓は戦いのシンボル。血湧き肉踊る楽曲はすべからくリズム隊が強めである。前作の鎌倉殿のオープニングを思い浮かべてもらうと分かり易いだろう。本作はここでも戦いのイメージを徹底的に排除している。

 

③デジタル世代向け演出

オープニングは文字アニメーションが多用されている。近年はちょっとしたバナーにもアニメーションが使われておりZ世代には親和性が高いだろう。また大河といえば縦文字が通例だが、今回はSNSを見慣れた層が親しみやすいような横文字で作られており、デジタル世代が気安く見れるような工夫が随所になされている。

 

3.演出面での施策〜分かりやすさ

①漫画的表現

本作は家康と彼から見た人間関係を主軸としており、これは主人公に共感して物語を読み進める少女漫画的な手法である。

そして家康がその時どう思ったのかをわかりやすく視聴者に伝えることで(漫画でいうモノローグを口で説明している)、信用できる語り手となり視聴者は安心して彼の選択を見守れる仕組みになっている。これは、近年の創作物での軋轢や気まずさ、もっというと不安を忌避する傾向とも合致しており、作劇としては稚拙だが、万人に分かるような工夫であるともいえる。

役者の演技も分かりやすさを意識している。個人の技量に関わらずそういう演技を求められているのだと思う。いわゆるキャラクター化である。4話で登場した木下藤吉郎はヘコヘコしていながら時折見えない所で素の真顔になるという演出がなされており、カメラもそれを正面で捉えることにより、彼が面従腹背の油断ならない人物であると印象付ける。これは漫画でいう顔が黒くなって見えないコマと同じ、記号化の表現である。そもそも記号化とは複雑さを廃し物事を簡略化するために作られたもの。

分かりやすいので歴史に興味がない人でも気づくことができ、気づいたことを誰かに伝えたいのでSNSで発信し、それに対して多くの人が共感することで承認欲求を満たすという好循環を産む仕組みである。

 

②ゲームのムービーのような世界観

本作が叩かれる要因のひとつに稚拙なCGがある。馬上の動きには笑ってしまったが、本作が伝えたいのが家康の人間関係周りであり、血湧き肉躍る戦の臨場感ではないため蔑ろにされても仕方ないといえる(少女漫画の上半身のみの馬を見てみよ!必要なのは馬の足の筋肉ではなく、上に載っているプリンスの顔面なのだ)。

また、Photoshop加工したような背景も、信長の場違いなファッショナブルさもゲーム画面と思えば納得する。時折現れるムービーがご褒美だった時代と違い、今はゲームもフルCGの時代。その世界に常日頃ダイブしている若年層にとっては、違和感のない、むしろ心地よい映像であるのかもしれない。

 

③登場人物のキャラクター化

登場人物もわかりやすく、判断しやすい。

マントを翻す南蛮ファッションの信長、仙人か達磨大師のような武田信玄、病んだ美形悪役としての今川氏真、男装のお市。人物をわかりやすいキャラクター化して単純化を図っているのが分かるだろう。家康(元康)に関しても、泣き虫や弱虫の過剰な強調があり、髪を下ろすシーンも多いことから本来は気の優しいプリンスとしてのキャラクター化が図られていることと思う。

ドラマにおいてキャラクターとは本来は時間をかけた内面描写から形作るものであるが、本作では説明なしに見た目と過剰な言葉遣い(俺の白兎など)によって強引にキャラクターをつけているように見える(いわゆる属性)。一見浅薄だが、短期間で興味があるかを判断して離脱する可能性のある近年の視聴者を獲得するためには善策であるともいえる。

 

4.視聴者傾向に合わせた表現方法

なぜわかりやすくする必要があるのかというと、タイパ、つまり若者のタイムパフォーマンス重視の傾向への対策である。

読み込まなければわからないといった時間のかかる仕掛けは好まれない。2倍速で観る時代、パッとみて特徴や性格を把握できる工夫が必要だったのである。

そのため、キャラクターは特徴的な格好をするし、思ったことをそのまま口に出して説明する。そうすることで誰にでも流れが把握しやすく、考察を好まない視聴者が置いていかれることもない。

脚本や演出面でもかなりの批判もある本作。主にドラマとしてのシーンの繋ぎや物語の流れの不自然さ、イメージ重視で時代考証を蔑ろにした不自然さに厳しい目が注がれている。

私の考えでは、本作のドラマ部分は要点が抑えられたレジェメである。視聴者は見れば概要(〇〇が〇〇をした)が知れるので、翌日以降の話題についていくことができる。

また事実の出来事という概要の隙間には、視聴者層が話題にできるようなキャッチーなエッセンスをつめこんでいる。

たとえばBL(ボーイズラブ)という男性同士の恋愛のシチュエーションを取り入れた演出や、エビ踊りの天丼ギャグ、家康(信康)と瀬名の悲恋(本作の設定)、忍び軍団など、成功の有無に関わらず、比較的対象層がSNSなどで取り上げて盛り上がりやすいシーンや話題をいくつも入れ込んでいることがわかる。

ドラマを読み込んで楽しんで観てきた人には、その連続性を欠いた不自然さが耐え難く感じられるかもしれないが、ドラマを2倍速で観て話題として消費する層には、観やすいライトさとキャッチーさを作り出すことには成功している。

 

5.まとめ

このようなマーケティング的手法でもってして本作がしっかりターゲットに訴求できるように計算されていることが分かった。

大河ドラマはあくまでエンターテイメントであり、歴史再現番組ではないというのは分かっているが、個人的にはエンタメと歴史の整合性、ストーリー性を兼ね備えた鎌倉殿のあとだからこそ、マーケティングに頼るばかりでない制作側の歴史ドラマにかける泥臭い情熱やマニアックさを感じられる作品であってほしかった。

 

ただ、家康の人生から考えて、今後はここまで記載した手法を逆手に取った展開をする可能性もあり、他の要素を捨ててエンタメに特化した甲斐があるような極上のフィクションとして視聴者を楽しませていってくれるのだろう。

 

個人的には残念ながらターゲットに漏れて楽しめなさそうなので、次回の大河がゆるふわ平安生活ではなく、伏魔殿京都のどろどろの政争ドラマと最新の研究を反映した紫式部の目線から見たリアル貴族生活ドラマを期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

【ドラマ考察】『鎌倉殿の13人』現代とリンクする名脚本

久々に大河を完走する。

クールドラマでさえすぐ脱落する最近の私にしては奇跡である。それもこれも今回の大河が大変興味深く面白いからの一言に尽きる。

 

最初は地元出身の一族の話なので身内的な義理で見始めた本作。

序盤で見知った地名にニヤニヤしながら近所の史跡の持ち主登場にさらにニヤニヤしていると、CGの富士山が映った場面で「おや?」と気付く。

我らのよく知る富士山ではない!そう!宝永山がきれいになくなっている!

江戸時代の噴火火口である宝永山はもちろんこの時代にはない。なかなか細やかな時代考証に俄然本気で見る気が起きる。

そこからはもう沼で、興味の薄かった鎌倉時代の良さにこの一年で随分とどっぷりハマってしまった。

Twitterでもじわじわ話題となり、ドラマが進むにつれて放送直後から大量のツイートがトレンドを埋め尽くすようになったり、ファンアートで溢れたり、果ては早大門ならぬ(ピンとくる人がいたら酒を酌み交わしたい)早鎌倉という言葉まで!なぜ本作は人々をこれほど熱狂させるのか、魅力的な登場人物たちを引き合いに出して少し考えてみたい。

 

○共感を呼ぶ中間管理職の主人公・義時

北条義時はけして英雄ではない。江間の小四郎と呼ばれた若い頃は田舎武士らしい豪胆さといいかげんさを持った父時政・兄宗時らに面倒ごとを押し付けられつつ守られつつ、大きな野望も持つことなく角が立たぬようにこじんまりと業務をこなす現代でいう会社員のような若者であった義時。

彼はかつての大河主人公たちが持っていた属性「カリスマ」をアビリティ装備ができないキャラに設定されている。

大志を持たない事なかれ主義、権力への興味が薄く自分の仕事の効率化を考えるような男であり、恋愛に興味はあれどヘタくそでなかなか上手くいかない。初期の義時は現代人の(特に若い世代の)共感を得やすいキャラクターとして描かれている。

その後も頼朝の秘書的なポジションを押し付けられ、めんどくさい主君の頼朝と気性の荒さで数々の伝説を残す坂東武者たちや身内、そして朝廷や平氏との間で板挟みとなる苦労人である。義時は基本的にNOと言えないので、周りに流されながら源平合戦や鎌倉の権力争いに巻き込まれていく。常に周りのフォローに回り、軋轢が起きぬよう裏で駆けずり回り疲れ果てる義時の姿に、いっときでも自分を重ねた人は多いのではないだろうか。

 

○血の通った尼将軍・政子

日本三代悪女と名高い義時の姉・北条政子は、本作ではある意味ヒロインの立ち位置であり、リアルで地に足のついた女性として描かれる。京都の貴人頼朝を見るや、熱烈にアプローチをかける政子は、頼朝に惚れたというより頼朝の背景に惚れたと言っても過言ではない。伊豆田舎武士の娘として生まれ、京から時政が連れ帰った義母には都風を吹かされていた政子にとって、頼朝はまさに白馬の王子様。

見事頼朝を落とした政子は、その後も前妻や浮気相手とのキャットファイトを繰り広げたり、頼朝の死後は弟の義時が鎌倉を去るのを不安感から必死で止めたりと、かわいげも面倒くささもたくましさも狡さも全て包有した人間味溢れる女性として描かれている。

個人的なポイントは「狡さ」。

政子は常に優しいことを言う。かつて多くのヒロインたちも惜しげなく発揮していたこの「優しさや慈愛」。その優しさや奥ゆかしさの裏で、誰かが犠牲になっている事実を本作は隠さない。政子は現実的な女性なので、謀反人やその子供を「助けてやれ」と義時に言いつつ(例え本心の優しさからだとしても)それが問題からの逃げや偽善であることに気づいているだろう。汚れ仕事や非情な決断を義時が裏で行うことで、政子は優しさ・善の立場に立つことが出来る。政子のこの狡さや矛盾は誰もが多かれ少なかれ身に覚えがあるものだろう。

話数が進むにつれて、政子が彼を糾弾することが少なくなり、弟の決断を我が事として受け入れて、日本史に登場する尼将軍へと突き進んでいく様が丁寧に描かれて行く。

狡さという、高潔を美徳とする日本人が最も嫌う類の人間的な弱さを、これほど魅力的に描く脚本に脱帽する。

 

○英雄の不在

この時代で外せないのは義経のキャラクターだろう。従来の佇まいスマートな美少年のイメージとガラリと変えて、本作では発想力オバケの天才肌として描かれる。天才ゆえに、人の心が分からないウザさや残酷さと、天才ゆえに周りと同調できない義経の承認欲求や愛、居場所を心のどこかで求める孤独な部分とが新しい血の通ったバイタリティ溢れる義経像として作り込まれている。

義時の主君の頼朝は、煮え切らなかったり気弱なところや小狡いところもあるが、どこか憎めない不思議な魅力を持った傑物として描かれている。同脚本家監督作品である『清洲会議』の秀吉など、大泉洋は一見俗っぽい道化の皮を被った怪物の演技が大変上手い。

本作に英雄や聖人はいない。

まず主人公は受け身の中間管理職であり、その後は権力の化身となるし、ヒロインは俗な一般女性でその後は恐怖の尼将軍となる。

後の世に英雄と呼ばれる義経も、謀殺される悲劇の鎌倉殿たちもただ哀れな被害者では終わらないリアルが物語に深みを持たせている。

二代将軍頼家は、伏魔殿鎌倉のなかで、さながら自らの信のおける若いスタッフを登用しイノベーションを起こそうとする若き経営者である。彼の改革は性急で、清廉さや潔癖さゆえまわりへの根回しなどを柔軟に行えなかった結果、疎まれて暗殺をされてしまう。

三代目実朝は、頼家とまた違った形の仁で鎌倉を治めようと奮闘する。例えるならディズニーの善玉の王子様。そんな映画の世界なら彼らは正しく家臣や領民からも愛される存在であり、その統治は平和で幸せを築けただろうが、ここは坂東武者の国。我を通した兄とは反対に実朝は自らの力量を弁えた結果権力を朝廷に明け渡す決心をする。彼は善性を疑わない優しさ純真さゆえ朝廷と鎌倉の軋轢に気づくことが出来ず、また甥のドス黒い感情を理解できないがゆえ暗殺されてしまう。

ここでも「狡さ」がないと生き残れないことが描かれている。清濁併せ持つ狡さやしたたかさは鎌倉時代においても、また現代を生きる我々のバイタリティとしても重要なものなのだ。

 

○伏魔殿鎌倉の煮凝り・黒義時

ところで私は政治に清さを求めていない。大きな統治をするものの手は汚れていないはずがないと思っている。逆にそういった黒い取引ができない程度の善人ごときに国を治めることはできないと思っているので、政治に清廉さを求める最近の風潮にはあまり賛同できない。

本来の義時は黒い取引ができない程度の善人であった。しかし鎌倉という魑魅魍魎の欲が渦巻く大鍋で煮詰められた結果、萌葱の着物はどす黒く染まり、大河でも上位に位置するだろうヴィラン黒義時爆誕に至ったのである。

黒義時はしがない我々庶民のなりたくてもなれない欲望の化身でもある。智謀を駆使してどんどん敵対勢力を滅ぼして権力を手にしていく義時、しかも鎌倉を守るための小間使いとして自分の善性を押し殺して冷酷な権力者として振る舞うというルルーシュさながらダークヒーローの風格すらある。

しかし本作は前述した通り英雄=ヒーローの存在を許さない。鎌倉のため心を鬼にして粛清を行うという義時の「無私・滅私」の行いは、その実いつのまにか自らの権力欲に対する責任転嫁の言い訳となっているという真実まではっきりと描く。やはり彼も「狡い」人間くさい人物なのである。

 

○絶妙なバランスで描かれる鎌倉の人間模様

父の時政は気のいい親分気質で世話を焼くが面倒、兄の宗時も田舎の長男らしく兄貴肌だが大雑把。弟の時房は気の良いお調子者。母の律はプライドが高く、自由で俗っぽい妹のみいと政子のあけすけな会話も親近感が湧く。北条家はそうそう親戚が集まるとこういう人いるよねーという造形である。本作は歴史上でも権力欲に塗れて粛清のイメージが強い怖ーい北条家をドラマ化するにあたり、サザエさんのような愉快な家族描写を入れることで、憎みきれない人々という印象を植え付けている。

憎みきれないといえば三浦義村。義時の盟友でありながら何度も北条を裏切る不二子ちゃんのような彼もまた「狡さ」を描きながら憎めない人物である。ただ見方によっては家の存続という主目的を失わず情と仕事をきっちり切り分けられる男ともいえる。

登場人物に人間くささを持たせるのは三谷脚本の真骨頂だが、それが本作でも異端なく発揮され読者を楽しませ、同時に苦しめる。

 

義時が黒義時に醸造される過程で、多くの政敵を粛清していくことになるがその構造が本当に三谷幸喜の天才の所業すぎるのでここに書いていきたい。

上総介から義経までは頼朝という主犯のヘイト要員がいるため、義時は被害者に映る。

最初の政敵は比企一族は、比企能員とその妻の人物設定を反感を買いやすいように描くことと時政と律を主犯のヘイト要員に仕立てることで、女子供まで族滅させるというジェノサイド描写にも関わらず視聴者に受け入れやすく作られている。

男児畠山重忠との戦においても時政のおかげで、今まで共感してきた義時の状況に同情さえ覚えさせられ、頼家暗殺に関しては彼の協調性の無いワンマンな振る舞いを存分に描写してからであるため仕方がなかったと思わされる。

この頃から黒くなり視聴者の共感から外れつつある義時に変わり、息子泰時が視聴者の良心を代弁するキャラクターとして立ち回るようになるのもヘイト管理として完璧である。

その果てで訪れる和田合戦(気の良い男和田殿)や実朝暗殺(心優しい為政者)に至って視聴者はとうとう義時の権力欲を否応なく認識させられるという構造となっている。

ただの田舎の持たざる普通の若者が冷酷な権力者に成り上がるさまがこれほどナチュラルに描かれる脚本はほんとうに素晴らしい。

 

○今だからこそ受けるドラマ

フラットな視点でものを見る現代だからこそ、本作はこれほどヒットしたのではないだろうか。本作は英雄譚では無い。これは普通のしがない男が、カリスマ性ではなく謀略によって武士政権のトップにいかにして成り上がったのかを丁寧に描く政治ドラマなのである。

その過程で行われる悪事や残酷な所業も、登場人物たちの俗物的な人物像も、すべて包み隠さず(それでいて愛嬌たっぷりに)描くことで醸し出されるフラットさが、本作に対する好感度を上げているのである。

マインドコントロールを警戒し、数多の情報のなかから厳選して自ら求める答えを導き出す若い視聴者に、本作の一歩引いた視点は心地よかったのではないだろうか。

もちろん時代考証の本気度(着物の素材を土地や身分によってしっかり変えたいうこだわりっぷり)やコメディを挟んだ緩急、近年敬遠されがちな血みどろの粛清劇への怖いもの見たさ、役者陣のハマりっぷり(特に小栗旬の演技が素晴らしい)、筋肉!、テーマソングと映像の痺れるかっこよさ(メインビジュアルも抜群にカッコいい)、突然の筋肉!などどれをとっても素晴らしく、名脚本・演出に加えて全てにおいて高品質な作りであることが、これほどまで人を熱狂させた理由だっただろう。

 

多くの人々とSNSを通じて楽しくドラマの推移を見守った本作は、新しい大河の形として良い基盤を築いたのではないだろうか。

 

 

年末に本作ロスになる予定の方は下記もおすすめ

『逃げ上手の若君』

暗殺教室の作者が描く南北朝の英雄譚。主人公は最後の北条執権の遺児・北条時行!義時らが築いた鎌倉幕府の最後を描く漫画で、めちゃめちゃ面白い。ジャンプ+でも途中まで読めます。はよアニメ化してくれ。

 

平家物語

女性監督の柔らかな視点で描かれた平家滅亡の物語。平家側の時代背景を見るのに分かりやすい。

 

清洲会議

三谷幸喜監督映画作品。鎌倉殿をもう少しコメディ寄りに凝縮した政治ドラマ。大泉洋の怪演をはじめ役者陣の個性が楽しい。

 



 

 

 

 

 

【映画紹介】『恋する惑星』ビビッドな90年代香港に恋せよ

大好きな映画が4Kレストアになった。

まさか王家衛作品が日本でまた上映されると思わなかったので、嬉しさ余って2回も鑑賞してしまった。

せっかくの4Kレストアにも関わらず観たのは古いミニシアターだった(近くの大型モールの放映は1ヶ月を待たずに終わってしまった!)が、それが逆に雰囲気満点で夜7時からのひっそりとした上映だが大満足だった。

 

わたしの王家衛映画のファーストインプレッションはこの『恋する惑星』である。
小さな子供だった90年代、香港という街に憧れていた。多分テレビでこの映画の予告を見たんだと思う。はっきり記憶にはないけど。
街に突っ込む飛行機。
猥雑でビビッドな色の洪水のような街並み。
フェイウォンの夢中人。
香港という街の妖艶さと爽快感が、混沌と透明感が、懐かしさと新しさが、相反するものが全て共存する不思議な空気感が、心のどこかに焼き付いて憧れになっていたんだと思う。

クリストファードイルの水分を含んだうっとりするような映像、錯綜する男女、わたしが思春期以降だったらもう一瞬でノックアウトだっただろう。

 

役者陣も素敵だ。
ボーイッシュなのに可憐なフェイウォン(彼女の話す広東語の語尾を伸ばすイントネーションもかわいい)とキッチェなのに儚げなブリジットリン。たくましさとフェミニンさが共存する魅力的な女性陣。男性陣はかっこいいのにすごく繊細で、ため息の出るような色気たっぷりのトニーレオンも、初々しい純粋さがキラキラした金城武も、その弱さがとても愛らしい。
男女どちらにも本当に恋をしてしまいそうな、そんな素敵な役者陣の演じる登場人物たちはユニークで、金髪レインコートで怪しい女、パイン缶を食べまくる男、エキセントリックな女、家具に話しかける男と字面だけ見ればなんとも共感し難いように感じる。しかし彼らのその破天荒な行動を純化して浮かび上がる大都会に生きる若者たちの「孤独・恋心」は、なにかと自分を偽ったり躊躇ったりしがちな我々観るものの心にダイレクトに響き、その滑稽なまでの愛らしさ・ピュアさに強いシンパシーを感じさせるのだ。

武侠映画にカンフー、ノアールと強くあれと叩き込まれた香港映画の男たちは、この映画では失恋の痛みに沈み込む繊細な優男として描かれている。フェイは破天荒で明るく見えてその実シャイで臆病でもあり、ブリジットは北京語を話すことや元カレの今カノの描写から、大陸出身者の女一人苦労してこの都会で生きてきたことが窺える。当時大金融国際都市であり膨張と変革を続けていた香港という混沌としたジャングルのような大都会で、そこに生きる出自も事情もまったく違うさながら異星人同士のような彼らが幾度も出会い、すれ違い、恋をする。それがこの『重慶森林』=『恋する惑星』なのだ。

前作の『欲望の翼』の持つオシャレだけれど亜熱帯である香港映画特有のじっとりとした泥臭さが一転、水気多めの空気感は残しつつ都会風にブラッシュアップされた本作は、90年代香港のポップカルチャーと若者像を刹那的にかつスタイリッシュにフィルムにとどめてみせた衝撃作だったのである。

 

ちなみに本作の原題は『重慶森林』英題は『Chungking Express』で、舞台となった香港の多国籍ビル重慶大厦(チョンキンマンション)とフェイの店であるmidnight expressから取られている。これを『恋する惑星』と翻訳した日本人に拍手を送りたい。前作の『欲望の翼』あわせてなんて素晴らしいセンスなんだろう!!

 

まだ観ていない人は、この機会にぜひ。

また本作を観たならばぜひ続編の『天使の涙』も観て欲しい。

 

 




【漫画紹介】ペリリュー〜楽園のゲルニカ〜

昨日は8月15日の終戦記念日だった。

太平洋戦争終結から77年。今年ある戦争マンガが完結した。

自らの闘病を綴ったエッセイ「さよならタマちゃん」で有名な武田一義氏の漫画「ペリリュー〜楽園のゲルニカ〜」である。

水木御大をはじめ、戦争を知る漫画家世代が少なくなる中で、その悲惨さをどのように次世代に繋げるのかという命題に真っ向から取り組んだ本作は、戦争を知らない世代が描く戦争マンガでありながら、怖い、苦しい、加虐と被虐の歴史等近年忌避されがちなテーマを万人が読めるように間口を広げた作品でもある。

 

○かわいい絵柄によるリアルな戦争

一見矛盾した挑戦的な試みである。

ちびまる子ちゃんのような愛らしき絵柄が特徴の本作。これは戦闘による人体欠損や無残な情景のショックを緩和するために本作が用いた技法である。劇画タッチであり人体をリアルに描いた水木しげる「総員玉砕せよ!」を読むのには相当な覚悟が必要だが、ちびキャラ、ゆるキャラに慣れ親しんだかわいい文化の日本において親しみやすいキャラクター造形をした本作は、絵柄による忌避感を薄め、誰でも低いハードルで読むことができる。

とはいえ、欠損や戦死者、極限状態の描写に妥協は一切なく、背景もまた写実的である。

本来我々が読み進められないほどの戦争の悲惨をしっかりと伝えながら、キャラクターたちは尻込みする現代の読者を、いとも簡単に物語世界の深くに誘ってくれる。

 

○つい読み進めてしまう物語の面白さ

戦争マンガに面白いというのは不謹慎にあたるかもしれないが、そもそも学習漫画ではなく連載漫画である本作は、ストーリーの進め方に余人を惹きつけるための工夫が随所になされている。

物語のメインはサバイバルである。

玉砕と特攻ではなく持久戦が求められたペリリュー島の戦い。主人公たちが米兵に見つからないように潜みながら、どのように食糧と水を確保するかという問題、どうやって地獄の戦場を生き延びるかという姿が、戦局や仲間達の関わり・生死と共に描かれる。

漫画としての構成が大変上手い作品なので、そんな彼らがギリギリで生き延びる姿をハラハラしながら次はどうなるのか、大丈夫なのかとするする先まで読み進められてしまう。次項で紹介する主人公の田丸くんがとてもいい奴なので彼を心配しながらついつい読んでしまうのである。

 

○キャラクターたちの関係性に熱くなる

主人公の田丸くんはメガネでのんびりした顔をした青年。漫画家志望で絵が大好きである。思想とはよくよく無縁な彼は朽ちた戦車と小鳥を見て「うーむ、絵になるんだよなぁ」と言っては自分の不謹慎さに焦るなど、現代にも通じるようなキャラクターであり、我々の分身である。

主人公の親友となる吉敷くんは、田丸と同期でありながら、スナイプが得意で飛び級昇進したほど優秀、勇気と知恵と優しさを併せ持つまるで少年漫画におけるヒーロー型主人公のような好青年。目のぱっちりした顔も作中では比較的イケメンに描かれている。

力を合わせて戦場を生き抜くことを誓う田丸くんと吉敷くんの友情に熱くなる。

さまざまなアイデアで仲間たちの窮地を救う頼りになる青年将校の島田少尉、気が優しいが芯が強い泉くんや気の良い仲間たち。高い戦闘能力で仲間の先鋭となって敵と戦う片倉兵長とその部隊。ねずみ男のようにずる賢く嫌な奴なのになぜか憎めない小杉伍長。

キャラクターの描写に所謂キャラ付け的な描写はあまりなく、いろいろな側面を丁寧に描写することで浮かび上がっくる人間性と関係性が良い。

先程紹介したのはキャラクターたちのほんの一面である。物語が進むにつれて彼らの描写が深まると最初とは違う一面が見えてくるのが、群像劇としても大変面白い。

例えば規律を重んじ米兵や部下の粛清を行ったある人物の出自はお寺である。殺生を禁じる仏家に生まれた彼の心境はいかばかりか等、散りばめられた事実を繋ぐことで新しい発見があるのである。

 

○最後に

本作は専門家の監修のもと実際の戦争体験をもとにしており、ペリリューの悲劇は事実でありながら、キャラクターは半フィクションである。しかし彼らの物語の端々に実際戦争で命を落とした、また傷を負った人々の無念や葛藤が落とし込まれ、命を吹き込んでいる。

現代を生きる我々には当時の人々の壮絶な体験や心の痛みを完全に理解することは残念ながら出来ないだろう。だが、寄り添おうと努力することはできる。

田丸くんや吉敷くんに心を沿わせることで、当時遠い南の島(あるいは大陸や北の海)で命をかけて散って行った人々に心を沿わせることができるのではないだろうか。

 

【ペリリューが好きな人におすすめの漫画】

この世界の片隅に こうの史代

戦時中広島から呉に嫁いできたすずさんという女性の物語。片渕監督による映画も素晴らしいのだが、原作の丁寧な当時の日常と心の機微の描写は、我々にあの時代の追体験をさせてくれる。傑作。

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』近代国家の迷い子たち まとめ

【もくじ】

個人の発見

自由な明治の不自由な登場人物たち

なぜ北海道が舞台なのか

尾形という明治人

近代の象徴・鶴見中尉

ゴールデンカムイとは

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個人の発見

江戸時代以前の近世と明治開花以降の近代の違いは何だろうか。

政治的には、人々が平等の名の下に階級から解放され、自由民権運動の名の下に個人の一部を除く参政権も認められた。経済的にも同様で誰もが稼げる資本主義が取り入れられた。学問的にも建前上は誰もが学べる制度が出来上がりつつある。

福沢諭吉が自書でいうような「一身独立」「自由」の思想は、つまり近代の明治期においてはじめて「個人」の価値を発見したといっていいだろう。

 

しかし、明治の暗部を覗くのであれば、この自由平等の思想は多くの矛盾を抱え続けている。

いざ西洋列強と肩を並べるのだと急速に進化し続ける明治は、多くの良き価値観を破壊し、また多くの悪習を取りこぼしている。

文明開花を開眼と評するならば、問題は明治人たちの目が開いたことで、彼らの基準が彼ら「個人」に移行してしまったが故に、その矛盾に気づいてしまったことだろう。

 

自由な明治の不自由な登場人物たち

作中で描かれる杉元や月島の村八分の描写も彼らが自由平等の世において「不当な差別である」という認識を持つことでより一層強い苦しみとなるだろう。

軍で権力を持つ鯉戸家や花澤家は新政府側の薩摩(鹿児島)出身、旧幕軍である長岡(新潟)出身の鶴見は中尉の階級であり(具体的な理由はあれど権力者にパイプがない証左)、母子共に捨てられた一兵卒の尾形は同じく水戸(茨城)の出身である。江戸以前の階級はそのまま明治になっても政治派閥や軍閥にシフトしただけといえる。新政府側、旧幕府側どちらの家に生まれた者であれど、生まれは彼らの人生にある種の既定路線や不自由をもたらし、福沢諭吉のいう「自由」から遠ざけようとしている。

 

なぜ北海道が舞台なのか

言わずもがなそれは彼らにとって、日本にとっての最後のフロンティアであったからに他ならない。作品が闇鍋ウエスタンと自称するように、ゴールドラッシュを夢見てアメリカ西部へと流れ着いたならず者たちさながら、彼らは生国で得られなかった自由と平等を求めて北海道へ来たのだ。

金塊はいわずもがな自由と夢と権力のシンボルである。誰が金塊を得て真の自由を手にするのか、ゴールデンカムイはこういった話でもあるのだ。

 

尾形という明治人

ここまで近代国家の迷い子と称して、ゴールデンカムイを取り上げるにあたり、尾形というキャラクターに多くの時間を割いたわけだが、それはただ尾形の人物像が好きだからというだけでなく、彼が最も明治人らしい明治人だからである。

尾形は、構造のみでいえば、前述した生まれの呪いに対抗し続け自由を希求し続けた象徴的なキャラクターなのである。

それは彼が「不自由」の頸木である血縁を絶ち、血統による身分を否定することからもうかがえる。

仲間になったキャラクターたちの行動には誰もが(それは家永や鶴見まで)どこかで利他的な想いを持つのに対し、尾形に関しては一貫して自分という個人の問題と向き合うことに終始している。尾形は近代合理主義の標榜するロジカルな思考でもって自分で考え決定する「個人」主義者なのである。

尾形の内省と自死は実に象徴的で、明治という近代国家の理想と矛盾を全てその身で体現したキャラクターに相応しい最期だといえるだろう。

物語中彼の没年は明治41年の5月頃と思われる(榎本武揚の没年月から逆算)が、そこから4年後の明治45年を舞台とした夏目漱石の小説「こゝろ」を読んだことはあるだろうか。

作中で先生と呼ばれる人物の自死が描かれるが、その理由が「エゴイズム」と「精神の孤独」にあることはよく論じられている。

そもそも明治生まれの夏目漱石は本来「エゴイズム(自分本位/個人主義)」を自他の個性を共に尊重する前提として肯定的に捉えており、外圧に捉われることなく個人の幸福、あるいは自由を獲得するための推進力として迎合していたが、晩年になるとエゴイズムの負の側面(利己主義)を題材とした作品を多く描くようになる。こゝろもそのひとつであり、個人主義の理解し合えない孤独を描き、先生と呼ばれる人物を明治天皇崩御日露戦争の英雄・乃木希典の殉死=明治という時代の終わりと時を同じくして自殺させている。

尾形もまたエゴイズムの体現者であり、どこまでも孤独な存在である。

ゴールデンカムイの時代である明治40年頃から、富国強兵の名の下に輝かしい近代化の道を歩み続けてきた日本は、日露戦争の賠償金問題や藩閥政治への反発などの国内問題の噴出によりデモクラシーの時代へと突入していく。明治の理想が自らが見て見ぬ振りをしてきた歪みにより崩れようとしていた時代であった。

自らの良心や罪悪感を見て見ぬ振りをしてきた尾形の破滅は、明治の終焉と重なるのである。

 

近代の象徴・鶴見中尉

主人公たちと敵対する鶴見中尉は、まさに文明開化の申し子である。恐らく幕末の騒乱の中で生を受けたであろう鶴見は、明治維新とともに自己を確立させていった時代そのものである。幕末を戦った土方歳三たちとは国の捉え方が全く違う。

若い時分の諜報活動も踏まえて、鶴見は広い視野での、世界の中の小さな日本国の立ち位置を常に見ている。そしてロシアでのスパイ活動(きな臭い北東アジア情勢を踏まえてのロシアの動向を探る狙い。実際、日露戦争に至るまで日本の外交官らの入念な諜報活動が行われて、日本の勝利の一助に、彼らがパルチザンと結託したロマノフ王朝に対する革命のゴタゴタがあったという)から日清・日露戦争、やがて太平洋戦争敗戦と占守島の戦いまでの近代戦争史のはじめから終わりまでを戦い抜いているのである。アシリパ勢との金塊をめぐる争いに鶴見(戦争や暴力を包有した近代の象徴)が敗北したことは、アシリパが暴力にならない解決の道を目指し勝ち取ったと読めるし、さらには勝ち取るためには近代を受け入れざるを得なかったという綺麗事ではない部分まで象徴しているようにも受け取れる。

 

ゴールデンカムイとは

ゴールデンカムイの最後の戦いは、世代交代の話でもあった。土方歳三は新時代(鯉登少尉)に敗れたが、そしてその魂である兼定は明治(尾形)というモラトリアム期を終わらせて、新時代(アシリパ)の未来を拓く鍵となった。アシリパと鯉登は、彼らの責任感と未来を切り拓くエネルギーを持ってして、生き残ったものたちを導いていくというラストが描かれる。

アシリパは北方の縄文文化を残すアイヌの少女であるが、実は「噂の薩摩隼人」の隼人という呼称は古代九州に住んだ縄文系の民族のことであるのをご存知だろうか。

縄文文化の魂が近代になっても、人々を癒し、導くエネルギーになっているといえば、いや、これはこじつけが過ぎるかもしれないが、面白い構造ではないだろうか。

縄文文化、そして近世以前の「武士道」を土方歳三から受け継ぐ杉元や、鯉登に忠義を尽くした月島の象徴する日本が明治に至るまでに育んだロジックでは説明できない文化。

明治のひずみや近代化の中で迷いを抱えた不自由な登場人物たちが、自由の大地・北海道であらゆる価値観に触れる中で、個人として、どう生き、どのような絆や答えを得て、真の意味での個人の精神の自由を手に入れることができるか。冒険とグルメと変態と、サバイバルと愛憎と変態と、戦いと友情の闇鍋ウエスタンのなかでゴールデンカムイはそれを示しているのではないだろうか。

 

いやー、本当に面白い作品でした。

この素晴らしい作品に出会えたことを感謝すると共に、野田先生及び制作に携わったすべての人々に敬意を。