エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【ドラマ考察】『鎌倉殿の13人』現代とリンクする名脚本

久々に大河を完走する。

クールドラマでさえすぐ脱落する最近の私にしては奇跡である。それもこれも今回の大河が大変興味深く面白いからの一言に尽きる。

 

最初は地元出身の一族の話なので身内的な義理で見始めた本作。

序盤で見知った地名にニヤニヤしながら近所の史跡の持ち主登場にさらにニヤニヤしていると、CGの富士山が映った場面で「おや?」と気付く。

我らのよく知る富士山ではない!そう!宝永山がきれいになくなっている!

江戸時代の噴火火口である宝永山はもちろんこの時代にはない。なかなか細やかな時代考証に俄然本気で見る気が起きる。

そこからはもう沼で、興味の薄かった鎌倉時代の良さにこの一年で随分とどっぷりハマってしまった。

Twitterでもじわじわ話題となり、ドラマが進むにつれて放送直後から大量のツイートがトレンドを埋め尽くすようになったり、ファンアートで溢れたり、果ては早大門ならぬ(ピンとくる人がいたら酒を酌み交わしたい)早鎌倉という言葉まで!なぜ本作は人々をこれほど熱狂させるのか、魅力的な登場人物たちを引き合いに出して少し考えてみたい。

 

○共感を呼ぶ中間管理職の主人公・義時

北条義時はけして英雄ではない。江間の小四郎と呼ばれた若い頃は田舎武士らしい豪胆さといいかげんさを持った父時政・兄宗時らに面倒ごとを押し付けられつつ守られつつ、大きな野望も持つことなく角が立たぬようにこじんまりと業務をこなす現代でいう会社員のような若者であった義時。

彼はかつての大河主人公たちが持っていた属性「カリスマ」をアビリティ装備ができないキャラに設定されている。

大志を持たない事なかれ主義、権力への興味が薄く自分の仕事の効率化を考えるような男であり、恋愛に興味はあれどヘタくそでなかなか上手くいかない。初期の義時は現代人の(特に若い世代の)共感を得やすいキャラクターとして描かれている。

その後も頼朝の秘書的なポジションを押し付けられ、めんどくさい主君の頼朝と気性の荒さで数々の伝説を残す坂東武者たちや身内、そして朝廷や平氏との間で板挟みとなる苦労人である。義時は基本的にNOと言えないので、周りに流されながら源平合戦や鎌倉の権力争いに巻き込まれていく。常に周りのフォローに回り、軋轢が起きぬよう裏で駆けずり回り疲れ果てる義時の姿に、いっときでも自分を重ねた人は多いのではないだろうか。

 

○血の通った尼将軍・政子

日本三代悪女と名高い義時の姉・北条政子は、本作ではある意味ヒロインの立ち位置であり、リアルで地に足のついた女性として描かれる。京都の貴人頼朝を見るや、熱烈にアプローチをかける政子は、頼朝に惚れたというより頼朝の背景に惚れたと言っても過言ではない。伊豆田舎武士の娘として生まれ、京から時政が連れ帰った義母には都風を吹かされていた政子にとって、頼朝はまさに白馬の王子様。

見事頼朝を落とした政子は、その後も前妻や浮気相手とのキャットファイトを繰り広げたり、頼朝の死後は弟の義時が鎌倉を去るのを不安感から必死で止めたりと、かわいげも面倒くささもたくましさも狡さも全て包有した人間味溢れる女性として描かれている。

個人的なポイントは「狡さ」。

政子は常に優しいことを言う。かつて多くのヒロインたちも惜しげなく発揮していたこの「優しさや慈愛」。その優しさや奥ゆかしさの裏で、誰かが犠牲になっている事実を本作は隠さない。政子は現実的な女性なので、謀反人やその子供を「助けてやれ」と義時に言いつつ(例え本心の優しさからだとしても)それが問題からの逃げや偽善であることに気づいているだろう。汚れ仕事や非情な決断を義時が裏で行うことで、政子は優しさ・善の立場に立つことが出来る。政子のこの狡さや矛盾は誰もが多かれ少なかれ身に覚えがあるものだろう。

話数が進むにつれて、政子が彼を糾弾することが少なくなり、弟の決断を我が事として受け入れて、日本史に登場する尼将軍へと突き進んでいく様が丁寧に描かれて行く。

狡さという、高潔を美徳とする日本人が最も嫌う類の人間的な弱さを、これほど魅力的に描く脚本に脱帽する。

 

○英雄の不在

この時代で外せないのは義経のキャラクターだろう。従来の佇まいスマートな美少年のイメージとガラリと変えて、本作では発想力オバケの天才肌として描かれる。天才ゆえに、人の心が分からないウザさや残酷さと、天才ゆえに周りと同調できない義経の承認欲求や愛、居場所を心のどこかで求める孤独な部分とが新しい血の通ったバイタリティ溢れる義経像として作り込まれている。

義時の主君の頼朝は、煮え切らなかったり気弱なところや小狡いところもあるが、どこか憎めない不思議な魅力を持った傑物として描かれている。同脚本家監督作品である『清洲会議』の秀吉など、大泉洋は一見俗っぽい道化の皮を被った怪物の演技が大変上手い。

本作に英雄や聖人はいない。

まず主人公は受け身の中間管理職であり、その後は権力の化身となるし、ヒロインは俗な一般女性でその後は恐怖の尼将軍となる。

後の世に英雄と呼ばれる義経も、謀殺される悲劇の鎌倉殿たちもただ哀れな被害者では終わらないリアルが物語に深みを持たせている。

二代将軍頼家は、伏魔殿鎌倉のなかで、さながら自らの信のおける若いスタッフを登用しイノベーションを起こそうとする若き経営者である。彼の改革は性急で、清廉さや潔癖さゆえまわりへの根回しなどを柔軟に行えなかった結果、疎まれて暗殺をされてしまう。

三代目実朝は、頼家とまた違った形の仁で鎌倉を治めようと奮闘する。例えるならディズニーの善玉の王子様。そんな映画の世界なら彼らは正しく家臣や領民からも愛される存在であり、その統治は平和で幸せを築けただろうが、ここは坂東武者の国。我を通した兄とは反対に実朝は自らの力量を弁えた結果権力を朝廷に明け渡す決心をする。彼は善性を疑わない優しさ純真さゆえ朝廷と鎌倉の軋轢に気づくことが出来ず、また甥のドス黒い感情を理解できないがゆえ暗殺されてしまう。

ここでも「狡さ」がないと生き残れないことが描かれている。清濁併せ持つ狡さやしたたかさは鎌倉時代においても、また現代を生きる我々のバイタリティとしても重要なものなのだ。

 

○伏魔殿鎌倉の煮凝り・黒義時

ところで私は政治に清さを求めていない。大きな統治をするものの手は汚れていないはずがないと思っている。逆にそういった黒い取引ができない程度の善人ごときに国を治めることはできないと思っているので、政治に清廉さを求める最近の風潮にはあまり賛同できない。

本来の義時は黒い取引ができない程度の善人であった。しかし鎌倉という魑魅魍魎の欲が渦巻く大鍋で煮詰められた結果、萌葱の着物はどす黒く染まり、大河でも上位に位置するだろうヴィラン黒義時爆誕に至ったのである。

黒義時はしがない我々庶民のなりたくてもなれない欲望の化身でもある。智謀を駆使してどんどん敵対勢力を滅ぼして権力を手にしていく義時、しかも鎌倉を守るための小間使いとして自分の善性を押し殺して冷酷な権力者として振る舞うというルルーシュさながらダークヒーローの風格すらある。

しかし本作は前述した通り英雄=ヒーローの存在を許さない。鎌倉のため心を鬼にして粛清を行うという義時の「無私・滅私」の行いは、その実いつのまにか自らの権力欲に対する責任転嫁の言い訳となっているという真実まではっきりと描く。やはり彼も「狡い」人間くさい人物なのである。

 

○絶妙なバランスで描かれる鎌倉の人間模様

父の時政は気のいい親分気質で世話を焼くが面倒、兄の宗時も田舎の長男らしく兄貴肌だが大雑把。弟の時房は気の良いお調子者。母の律はプライドが高く、自由で俗っぽい妹のみいと政子のあけすけな会話も親近感が湧く。北条家はそうそう親戚が集まるとこういう人いるよねーという造形である。本作は歴史上でも権力欲に塗れて粛清のイメージが強い怖ーい北条家をドラマ化するにあたり、サザエさんのような愉快な家族描写を入れることで、憎みきれない人々という印象を植え付けている。

憎みきれないといえば三浦義村。義時の盟友でありながら何度も北条を裏切る不二子ちゃんのような彼もまた「狡さ」を描きながら憎めない人物である。ただ見方によっては家の存続という主目的を失わず情と仕事をきっちり切り分けられる男ともいえる。

登場人物に人間くささを持たせるのは三谷脚本の真骨頂だが、それが本作でも異端なく発揮され読者を楽しませ、同時に苦しめる。

 

義時が黒義時に醸造される過程で、多くの政敵を粛清していくことになるがその構造が本当に三谷幸喜の天才の所業すぎるのでここに書いていきたい。

上総介から義経までは頼朝という主犯のヘイト要員がいるため、義時は被害者に映る。

最初の政敵は比企一族は、比企能員とその妻の人物設定を反感を買いやすいように描くことと時政と律を主犯のヘイト要員に仕立てることで、女子供まで族滅させるというジェノサイド描写にも関わらず視聴者に受け入れやすく作られている。

男児畠山重忠との戦においても時政のおかげで、今まで共感してきた義時の状況に同情さえ覚えさせられ、頼家暗殺に関しては彼の協調性の無いワンマンな振る舞いを存分に描写してからであるため仕方がなかったと思わされる。

この頃から黒くなり視聴者の共感から外れつつある義時に変わり、息子泰時が視聴者の良心を代弁するキャラクターとして立ち回るようになるのもヘイト管理として完璧である。

その果てで訪れる和田合戦(気の良い男和田殿)や実朝暗殺(心優しい為政者)に至って視聴者はとうとう義時の権力欲を否応なく認識させられるという構造となっている。

ただの田舎の持たざる普通の若者が冷酷な権力者に成り上がるさまがこれほどナチュラルに描かれる脚本はほんとうに素晴らしい。

 

○今だからこそ受けるドラマ

フラットな視点でものを見る現代だからこそ、本作はこれほどヒットしたのではないだろうか。本作は英雄譚では無い。これは普通のしがない男が、カリスマ性ではなく謀略によって武士政権のトップにいかにして成り上がったのかを丁寧に描く政治ドラマなのである。

その過程で行われる悪事や残酷な所業も、登場人物たちの俗物的な人物像も、すべて包み隠さず(それでいて愛嬌たっぷりに)描くことで醸し出されるフラットさが、本作に対する好感度を上げているのである。

マインドコントロールを警戒し、数多の情報のなかから厳選して自ら求める答えを導き出す若い視聴者に、本作の一歩引いた視点は心地よかったのではないだろうか。

もちろん時代考証の本気度(着物の素材を土地や身分によってしっかり変えたいうこだわりっぷり)やコメディを挟んだ緩急、近年敬遠されがちな血みどろの粛清劇への怖いもの見たさ、役者陣のハマりっぷり(特に小栗旬の演技が素晴らしい)、筋肉!、テーマソングと映像の痺れるかっこよさ(メインビジュアルも抜群にカッコいい)、突然の筋肉!などどれをとっても素晴らしく、名脚本・演出に加えて全てにおいて高品質な作りであることが、これほどまで人を熱狂させた理由だっただろう。

 

多くの人々とSNSを通じて楽しくドラマの推移を見守った本作は、新しい大河の形として良い基盤を築いたのではないだろうか。

 

 

年末に本作ロスになる予定の方は下記もおすすめ

『逃げ上手の若君』

暗殺教室の作者が描く南北朝の英雄譚。主人公は最後の北条執権の遺児・北条時行!義時らが築いた鎌倉幕府の最後を描く漫画で、めちゃめちゃ面白い。ジャンプ+でも途中まで読めます。はよアニメ化してくれ。

 

平家物語

女性監督の柔らかな視点で描かれた平家滅亡の物語。平家側の時代背景を見るのに分かりやすい。

 

清洲会議

三谷幸喜監督映画作品。鎌倉殿をもう少しコメディ寄りに凝縮した政治ドラマ。大泉洋の怪演をはじめ役者陣の個性が楽しい。

 



 

 

 

 

 

【映画紹介】『恋する惑星』ビビッドな90年代香港に恋せよ

大好きな映画が4Kレストアになった。

まさか王家衛作品が日本でまた上映されると思わなかったので、嬉しさ余って2回も鑑賞してしまった。

せっかくの4Kレストアにも関わらず観たのは古いミニシアターだった(近くの大型モールの放映は1ヶ月を待たずに終わってしまった!)が、それが逆に雰囲気満点で夜7時からのひっそりとした上映だが大満足だった。

 

わたしの王家衛映画のファーストインプレッションはこの『恋する惑星』である。
小さな子供だった90年代、香港という街に憧れていた。多分テレビでこの映画の予告を見たんだと思う。はっきり記憶にはないけど。
街に突っ込む飛行機。
猥雑でビビッドな色の洪水のような街並み。
フェイウォンの夢中人。
香港という街の妖艶さと爽快感が、混沌と透明感が、懐かしさと新しさが、相反するものが全て共存する不思議な空気感が、心のどこかに焼き付いて憧れになっていたんだと思う。

クリストファードイルの水分を含んだうっとりするような映像、錯綜する男女、わたしが思春期以降だったらもう一瞬でノックアウトだっただろう。

 

役者陣も素敵だ。
ボーイッシュなのに可憐なフェイウォン(彼女の話す広東語の語尾を伸ばすイントネーションもかわいい)とキッチェなのに儚げなブリジットリン。たくましさとフェミニンさが共存する魅力的な女性陣。男性陣はかっこいいのにすごく繊細で、ため息の出るような色気たっぷりのトニーレオンも、初々しい純粋さがキラキラした金城武も、その弱さがとても愛らしい。
男女どちらにも本当に恋をしてしまいそうな、そんな素敵な役者陣の演じる登場人物たちはユニークで、金髪レインコートで怪しい女、パイン缶を食べまくる男、エキセントリックな女、家具に話しかける男と字面だけ見ればなんとも共感し難いように感じる。しかし彼らのその破天荒な行動を純化して浮かび上がる大都会に生きる若者たちの「孤独・恋心」は、なにかと自分を偽ったり躊躇ったりしがちな我々観るものの心にダイレクトに響き、その滑稽なまでの愛らしさ・ピュアさに強いシンパシーを感じさせるのだ。

武侠映画にカンフー、ノアールと強くあれと叩き込まれた香港映画の男たちは、この映画では失恋の痛みに沈み込む繊細な優男として描かれている。フェイは破天荒で明るく見えてその実シャイで臆病でもあり、ブリジットは北京語を話すことや元カレの今カノの描写から、大陸出身者の女一人苦労してこの都会で生きてきたことが窺える。当時大金融国際都市であり膨張と変革を続けていた香港という混沌としたジャングルのような大都会で、そこに生きる出自も事情もまったく違うさながら異星人同士のような彼らが幾度も出会い、すれ違い、恋をする。それがこの『重慶森林』=『恋する惑星』なのだ。

前作の『欲望の翼』の持つオシャレだけれど亜熱帯である香港映画特有のじっとりとした泥臭さが一転、水気多めの空気感は残しつつ都会風にブラッシュアップされた本作は、90年代香港のポップカルチャーと若者像を刹那的にかつスタイリッシュにフィルムにとどめてみせた衝撃作だったのである。

 

ちなみに本作の原題は『重慶森林』英題は『Chungking Express』で、舞台となった香港の多国籍ビル重慶大厦(チョンキンマンション)とフェイの店であるmidnight expressから取られている。これを『恋する惑星』と翻訳した日本人に拍手を送りたい。前作の『欲望の翼』あわせてなんて素晴らしいセンスなんだろう!!

 

まだ観ていない人は、この機会にぜひ。

また本作を観たならばぜひ続編の『天使の涙』も観て欲しい。

 

 




【漫画紹介】ペリリュー〜楽園のゲルニカ〜

昨日は8月15日の終戦記念日だった。

太平洋戦争終結から77年。今年ある戦争マンガが完結した。

自らの闘病を綴ったエッセイ「さよならタマちゃん」で有名な武田一義氏の漫画「ペリリュー〜楽園のゲルニカ〜」である。

水木御大をはじめ、戦争を知る漫画家世代が少なくなる中で、その悲惨さをどのように次世代に繋げるのかという命題に真っ向から取り組んだ本作は、戦争を知らない世代が描く戦争マンガでありながら、怖い、苦しい、加虐と被虐の歴史等近年忌避されがちなテーマを万人が読めるように間口を広げた作品でもある。

 

○かわいい絵柄によるリアルな戦争

一見矛盾した挑戦的な試みである。

ちびまる子ちゃんのような愛らしき絵柄が特徴の本作。これは戦闘による人体欠損や無残な情景のショックを緩和するために本作が用いた技法である。劇画タッチであり人体をリアルに描いた水木しげる「総員玉砕せよ!」を読むのには相当な覚悟が必要だが、ちびキャラ、ゆるキャラに慣れ親しんだかわいい文化の日本において親しみやすいキャラクター造形をした本作は、絵柄による忌避感を薄め、誰でも低いハードルで読むことができる。

とはいえ、欠損や戦死者、極限状態の描写に妥協は一切なく、背景もまた写実的である。

本来我々が読み進められないほどの戦争の悲惨をしっかりと伝えながら、キャラクターたちは尻込みする現代の読者を、いとも簡単に物語世界の深くに誘ってくれる。

 

○つい読み進めてしまう物語の面白さ

戦争マンガに面白いというのは不謹慎にあたるかもしれないが、そもそも学習漫画ではなく連載漫画である本作は、ストーリーの進め方に余人を惹きつけるための工夫が随所になされている。

物語のメインはサバイバルである。

玉砕と特攻ではなく持久戦が求められたペリリュー島の戦い。主人公たちが米兵に見つからないように潜みながら、どのように食糧と水を確保するかという問題、どうやって地獄の戦場を生き延びるかという姿が、戦局や仲間達の関わり・生死と共に描かれる。

漫画としての構成が大変上手い作品なので、そんな彼らがギリギリで生き延びる姿をハラハラしながら次はどうなるのか、大丈夫なのかとするする先まで読み進められてしまう。次項で紹介する主人公の田丸くんがとてもいい奴なので彼を心配しながらついつい読んでしまうのである。

 

○キャラクターたちの関係性に熱くなる

主人公の田丸くんはメガネでのんびりした顔をした青年。漫画家志望で絵が大好きである。思想とはよくよく無縁な彼は朽ちた戦車と小鳥を見て「うーむ、絵になるんだよなぁ」と言っては自分の不謹慎さに焦るなど、現代にも通じるようなキャラクターであり、我々の分身である。

主人公の親友となる吉敷くんは、田丸と同期でありながら、スナイプが得意で飛び級昇進したほど優秀、勇気と知恵と優しさを併せ持つまるで少年漫画におけるヒーロー型主人公のような好青年。目のぱっちりした顔も作中では比較的イケメンに描かれている。

力を合わせて戦場を生き抜くことを誓う田丸くんと吉敷くんの友情に熱くなる。

さまざまなアイデアで仲間たちの窮地を救う頼りになる青年将校の島田少尉、気が優しいが芯が強い泉くんや気の良い仲間たち。高い戦闘能力で仲間の先鋭となって敵と戦う片倉兵長とその部隊。ねずみ男のようにずる賢く嫌な奴なのになぜか憎めない小杉伍長。

キャラクターの描写に所謂キャラ付け的な描写はあまりなく、いろいろな側面を丁寧に描写することで浮かび上がっくる人間性と関係性が良い。

先程紹介したのはキャラクターたちのほんの一面である。物語が進むにつれて彼らの描写が深まると最初とは違う一面が見えてくるのが、群像劇としても大変面白い。

例えば規律を重んじ米兵や部下の粛清を行ったある人物の出自はお寺である。殺生を禁じる仏家に生まれた彼の心境はいかばかりか等、散りばめられた事実を繋ぐことで新しい発見があるのである。

 

○最後に

本作は専門家の監修のもと実際の戦争体験をもとにしており、ペリリューの悲劇は事実でありながら、キャラクターは半フィクションである。しかし彼らの物語の端々に実際戦争で命を落とした、また傷を負った人々の無念や葛藤が落とし込まれ、命を吹き込んでいる。

現代を生きる我々には当時の人々の壮絶な体験や心の痛みを完全に理解することは残念ながら出来ないだろう。だが、寄り添おうと努力することはできる。

田丸くんや吉敷くんに心を沿わせることで、当時遠い南の島(あるいは大陸や北の海)で命をかけて散って行った人々に心を沿わせることができるのではないだろうか。

 

【ペリリューが好きな人におすすめの漫画】

この世界の片隅に こうの史代

戦時中広島から呉に嫁いできたすずさんという女性の物語。片渕監督による映画も素晴らしいのだが、原作の丁寧な当時の日常と心の機微の描写は、我々にあの時代の追体験をさせてくれる。傑作。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』近代国家の迷い子たち まとめ

【もくじ】

個人の発見

自由な明治の不自由な登場人物たち

なぜ北海道が舞台なのか

尾形という明治人

近代の象徴・鶴見中尉

ゴールデンカムイとは

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個人の発見

江戸時代以前の近世と明治開花以降の近代の違いは何だろうか。

政治的には、人々が平等の名の下に階級から解放され、自由民権運動の名の下に個人の一部を除く参政権も認められた。経済的にも同様で誰もが稼げる資本主義が取り入れられた。学問的にも建前上は誰もが学べる制度が出来上がりつつある。

福沢諭吉が自書でいうような「一身独立」「自由」の思想は、つまり近代の明治期においてはじめて「個人」の価値が発見されたといっていいだろう。

 

しかし、明治の暗部を覗くのであれば、この自由平等の思想は多くの矛盾を抱え続けている。

いざ西洋列強と肩を並べるのだと急速に進化し続ける明治は、多くの良き価値観を破壊し、また多くの悪習を取りこぼしている。

文明開花を開眼と評するならば、問題は明治人たちの目が開いたことで、彼らの基準が彼ら「個人」に移行してしまったが故に、その矛盾に気づいてしまったことだろう。

 

自由な明治の不自由な登場人物たち

作中で描かれる杉元や月島の村八分の描写も彼らが自由平等の世において「不当な差別である」という認識を持つことでより一層強い苦しみとなるだろう。

軍で権力を持つ鯉戸家や花澤家は新政府側の薩摩(鹿児島)出身、旧幕軍である長岡(新潟)出身の鶴見は中尉の階級であり(具体的な理由はあれど権力者にパイプがない証左)、母子共に捨てられた一兵卒の尾形は同じく水戸(茨城)の出身である。江戸以前の階級はそのまま明治になっても政治派閥や軍閥にシフトしただけといえる。新政府側、旧幕府側どちらの家に生まれた者であれど、生まれは彼らの人生にある種の既定路線や不自由をもたらし、福沢諭吉のいう「自由」から遠ざけようとしている。

 

なぜ北海道が舞台なのか

言わずもがなそれは彼らにとって、日本にとっての最後のフロンティアであったからに他ならない。作品が闇鍋ウエスタンと自称するように、ゴールドラッシュを夢見てアメリカ西部へと流れ着いたならず者たちさながら、彼らは生国で得られなかった自由と平等を求めて北海道へ来たのだ。

金塊はいわずもがな自由と夢と権力のシンボルである。誰が金塊を得て真の自由を手にするのか、ゴールデンカムイはこういった話でもあるのだ。

 

尾形という明治人

ここまで近代国家の迷い子と称して、ゴールデンカムイを取り上げるにあたり、尾形というキャラクターに多くの時間を割いたわけだが、それはただ尾形の人物像が好きだからというだけでなく、彼が最も明治人らしい明治人だからである。

尾形は、構造のみでいえば、前述した生まれの呪いに対抗し続け自由を希求し続けた象徴的なキャラクターなのである。

それは彼が「不自由」の頸木である血縁を絶ち、血統による身分を否定することからもうかがえる。

仲間になったキャラクターたちの行動には誰もが(それは家永や鶴見まで)どこかで利他的な想いを持つのに対し、尾形に関しては一貫して自分という個人の問題と向き合うことに終始している。尾形は近代合理主義の標榜するロジカルな思考でもって自分で考え決定する「個人」主義者なのである。

尾形の内省と自死は実に象徴的で、明治という近代国家の理想と矛盾を全てその身で体現したキャラクターに相応しい最期だといえるだろう。

物語中彼の没年は明治41年の5月頃と思われる(榎本武揚の没年月から逆算)が、そこから4年後の明治45年を舞台とした夏目漱石の小説「こゝろ」を読んだことはあるだろうか。

作中で先生と呼ばれる人物の自死が描かれるが、その理由が「エゴイズム」と「精神の孤独」にあることはよく論じられている。

そもそも明治生まれの夏目漱石は本来「エゴイズム(自分本位/個人主義)」を自他の個性を共に尊重する前提として肯定的に捉えており、外圧に捉われることなく個人の幸福、あるいは自由を獲得するための推進力として迎合していたが、晩年になるとエゴイズムの負の側面(利己主義)を題材とした作品を多く描くようになる。こゝろもそのひとつであり、個人主義の理解し合えない孤独を描き、先生と呼ばれる人物を明治天皇崩御日露戦争の英雄・乃木希典の殉死=明治という時代の終わりと時を同じくして自殺させている。

尾形もまたエゴイズムの体現者であり、どこまでも孤独な存在である。

ゴールデンカムイの時代である明治40年頃から、富国強兵の名の下に輝かしい近代化の道を歩み続けてきた日本は、日露戦争の賠償金問題や藩閥政治への反発などの国内問題の噴出によりデモクラシーの時代へと突入していく。明治の理想が自らが見て見ぬ振りをしてきた歪みにより崩れようとしていた時代であった。

自らの良心や罪悪感を見て見ぬ振りをしてきた尾形の破滅は、明治の終焉と重なるのである。

 

近代の象徴・鶴見中尉

主人公たちと敵対する鶴見中尉は、まさに文明開化の申し子である。恐らく幕末の騒乱の中で生を受けたであろう鶴見は、明治維新とともに自己を確立させていった文明開花の申し子である。幕末を戦った土方歳三たちとは国の捉え方が全く違う。

若い時分の諜報活動も踏まえて、鶴見は広い視野での、世界の中の小さな日本国の立ち位置を常に見ている。そしてロシアでのスパイ活動(きな臭い北東アジア情勢を踏まえてのロシアの動向を探る狙い。実際、日露戦争に至るまで日本の外交官らの入念な諜報活動が行われて、日本の勝利の一助に、彼らがパルチザンと結託したロマノフ王朝に対する革命のゴタゴタがあったという)から日清・日露戦争、やがて太平洋戦争敗戦と占守島の戦いまでの近代戦争史のはじめから終わりまでを戦い抜いているのである。アシリパ勢との金塊をめぐる争いに鶴見(戦争や暴力を包有した近代の象徴)が敗北したことは、アシリパが暴力にならない解決の道を目指し勝ち取ったと読めるし、さらには勝ち取るためには近代を受け入れざるを得なかったという綺麗事ではない部分まで象徴しているようにも受け取れる。

 

ゴールデンカムイとは

ゴールデンカムイの最後の戦いは、世代交代の話でもあった。土方歳三は新時代(鯉登少尉)に敗れたが、そしてその魂である兼定は明治(尾形)というモラトリアム期を終わらせて、新時代(アシリパ)の未来を拓く鍵となった。アシリパと鯉登は、彼らの責任感と未来を切り拓くエネルギーを持ってして、生き残ったものたちを導いていくというラストが描かれる。

アシリパは北方の縄文文化を残すアイヌの少女であるが、実は「噂の薩摩隼人」の隼人というのは古代九州に住んだ縄文系の民族のことであるのをご存知だろうか。

縄文文化の魂が近代になっても、人々を癒し、導くエネルギーになっているといえば、いや、これはこじつけが過ぎるかもしれないが、面白い構造ではないだろうか。

縄文文化、そして近世以前の「武士道」を土方歳三から受け継ぐ杉元や、鯉登に忠義を尽くした月島の象徴する日本が明治に至るまでに育んだロジックでは説明できない文化。

明治のひずみや近代化の中で迷いを抱えた不自由な登場人物たちが、自由の大地・北海道であらゆる価値観に触れる中で、個人として、どう生き、どのような絆や答えを得て、真の意味での個人の精神の自由を手に入れることができるか。冒険とグルメと変態と、サバイバルと愛憎と変態と、戦いと友情の闇鍋ウエスタンのなかでゴールデンカムイはそれを示しているのではないだろうか。

 

いやー、本当に面白い作品でした。

この素晴らしい作品に出会えたことを感謝すると共に、野田先生及び制作に携わったすべての人々に敬意を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』アシリパ 近代国家の迷い子たち③

アシリパのキャラクター

これまでに杉元と尾形について考察し、その中でアシリパについてアイヌ民族全体の具現かのように表現してきた。

彼女の名前がアイヌ語で新しい年を意味し、和名が明日子であることからも、明治という近代化の時代、日本による同化政策や文化の侵略、工業化による環境破壊や殖産興業政策により変化を迫られるアイヌ民族の未来を担う存在として、どのように生きるべきかを考える役割を作中で担わされていることは明らかである。

(この物語では未来を象徴するアシリパと鯉登両名がそれぞれアイヌ民族と日本国の未来を担わされて、他の人物たちはそれぞれ個人の問題に帰結している)。

彼女に重くのしかかる「殺人」の問題(アイヌの文化では殺人は地獄に堕ちるとされ、正当化されない)は、朴訥とした伝統を守り変わらないまま滅びを待つのか、新しい文化を受け入れ狡猾に生き延びる道を探すのか、という問題の比喩でもある。

当初のアシリパは伝統的なアイヌ文化の積極的なナビゲーターである。多くの仲間が猟の獲物を銃に変える中、アシリパは弓と毒を使い続ける。自らの伝統に誇りを持ち来訪者である杉元に振る舞いはするが、彼の文化である味噌を受け入れようとはしなかった。誇り高いともある種排他的でもあると取れる。

漫画の中では、共に旅する中、杉元と1人の人間として絆を深めることで歩み寄り相互理解を得る過程が丁寧に描かれている。そのうちアシリパは杉元も味噌も好きになる。

杉元の項で彼がアイヌ文化に触れることで再生したと説明したが、逆もまた然りであるといえる。

杉元に出会わないままのアシリパであれば、ウイルクの意図する通り、少数民族の文化を守り、日本やロシアと敵対するべく立ち上がるジャンヌダルク、革命の旗手となっていたかもしれない。しかしアシリパは和人の文化の中でそれを体感することにより第三の視点を手にいれる。敵と味方、侵略者と被害者という隔絶した関係であれば闘うことは容易い。通じ合うことがなければ、これらの単純な構図のもと敵対することができるからである。

しかしアシリパは知ってしまった。

網走までの道のりで、和人の文化であるライスカレーを食べ、牛山を尊敬し、杉元に恋をした。またその後はキロランケの導きで樺太やロシアの少数民族たちの暮らしや現状を知った。第三の視点とは、あらゆる文化を俯瞰的に見ることができるフラットな視点である。

多分杉元・キロランケのどちらかの視点だけでは足りないだろう。彼らはどちらもアシリパの求める回答を有していないのだ。

どちらの意見も飲み込んで自ら答えを出す、文化の橋渡しという大役をアシリパが担うのは、彼女が男の仕事である狩りを行うアイヌの常識からは外れた女であり、大人と子供の中間の境界の立ち位置にいるキャラクター性から必然といえるのかもしれない。

 

アシリパの成長

樺太の旅の最後、アシリパと尾形が問答するシーンは尾形からの視点とは別にアシリパにとっても重要なシーンとなる。

尾形はアシリパに「アシリパだけ手を汚さず清いままなのは正しくないのではないか」という問いかけをする。このときの尾形の意図は置いておいて、アシリパにとってこの問いはきっかけとなる。

アイヌ文化に誇りを持ち、和人の文化を知って、少数民族の危機を知ったことによりアシリパには責任の自覚が生まれる。知る責任を取る取らないは個人の考えによるものの、後の話でアシリパに狩りをしてヒンナヒンナしててくれればいい(伝統文化を素朴に守り平穏に暮らしてほしい・問題解決は別の誰かがやれば良い)という杉元に対し、はっきりと知ってしまった自分の責任について私事として捉えていると告げていることからもアシリパが前者であったといえる。

「殺害」はアシリパにとって「責任」の象徴である。獲物に対する彼女の考え方がそれを象徴している。殺した獲物は責任を持って食べて、残さず利用するのである。

アシリパに自らが手を汚す覚悟があるか、身を削る覚悟はあるか、罪を背負える覚悟はあるか。尾形はそれを問うている。

変革や何かを守るためには必ず血が伴う。土方ら幕末を生きた者や、杉元・谷垣・尾形・月島・鶴見ら日露戦争帰還者、キロランケやソフィアのようなロシアのパルチザンはそれを知っているが、アシリパは知らないしそれが受け入れられない。彼女が戦争や革命を知らない世代であるからであり、第三の視点を持っているからなら他ならない。

そんなアシリパが戦いの中で出した答えは、結果手を汚してでも大切なものを守るという選択であった。この選択が実は宿敵である鶴見と同じ選択であるのが、この漫画の面白いところである。

白石の示した金塊は使い方次第で幸福にも不幸にもなるという描写そのまま、アシリパのこの選択がどのような結末を結ぶのか、是非昨日発売の最終巻を見ていただきたいと思う。

 

この漫画アシリパを庇護対象の子供として描かない。

なぜならアシリパは、大切なもの(アイヌの文化、カムイ、杉元)を守るためには、近代化をも柔軟に受け入れ、自らの責任を持って弓を引く強かで逞しいひとりの自立したアイヌ(人間)だからである。

作者の野田先生はこの物語を描くにあたり、かわいそうなアイヌを描かないでほしいという趣旨の願いをアイヌの方からいただいたそうだが、そのアンサーが物語の中で燦然と輝く「アシリパ」の存在なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 補足〈尾形は救われたか〉

※未単行本話のネタバレあり

本稿【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 1/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱の補足です。

 

尾形は救われたか

漫画としては畳み掛けるような展開も怒涛の動から静のコマ割りも含めて、実にカタルシスに満ちた素晴らしい結末を魅せた尾形。

本稿で尾形について「永遠に得られぬ母の愛、罪悪感、自らの無価値感」の否定が行動原理であるとして、さらに尾形を救うのはアシリパと論じたが、結論としてはどうだったであろうか。

最後は自らとの問答で、愛を求めていた自分の深層心理と押し込めていた罪悪感を発見することで、自らの無価値観から脱却するという救いを経てなお、壮絶な自決へと至っている。

尾形がアシリパを光と喩えたことから、やはりアシリパに無意識にでも親愛を向けていたことが分かる。しかしアシリパの光に杉元のように浄化されなかった理由は勇作だろう。

17巻で尾形がアシリパを勇作と重ねはじめたのは、偶像としての父の子として重ねたと思われていたが、その実アシリパの献身と無性の愛を受けて、勇作が尾形に向けていた親愛を再認識したからであった。

求めても愛を与えてくれなかった母親の殺害という原罪(母への愛情故の父への試し行為)への罪悪感を押し込めるため作り上げた「罪悪感を感じない欠けた存在」としての仮面は、尾形を罪悪感から守るが「愛されることのない無価値な生(祝福されない)」という自己評価を強調するものとなった。ここで尾形の中で「罪悪感の欠如=無価値」という図式ができてしまった。「愛されなかったから罪悪感がない」とは「罪悪感があれば、母を殺さなかった。殺したということは罪悪感がないから」ということになり「罪悪感がないような自分の存在は祝福されない無価値な生」となるというどちらに転んでも救われない負のループになってしまう。

尾形はこの負のループを脱却するために「罪悪感がない」ことと「無価値観」を必死に分離しようとする。戦場という内集団バイアス(味方を敵より優先する心理)による殺人への罪悪感の摩耗が「みんな罪悪感はない」という思考を助長したと考えられる。

しかし作品の回想を見ていると尾形はここでも宇佐美相手に罪悪感問答をしている。つまり戦場においても実は深層心理では罪悪感に囚われているということである(杉元や他の兵士と同様に)。尾形がそれを器用に割り切れないのは、戦争殺人の延長に上記の原罪があったからに他ならない。

「祝福された価値ある生」を持つ勇作との出会いも深く関連している。勇作の存在自体が、尾形の無価値観を助長するからである。そのため勇作殺害という尾形にとっての2度目の大罪を犯してしまったといえる。

さて、最新話で、尾形は勇作からの親愛をしっかり自覚していたと判明。

本来これは「愛されなかった自分の無価値感を否定」する喜ばしい事態のはずである。

しかしそこに自分の境遇と対比するような勇作という価値ある存在への嫉妬心と敵愾心があったがために、尾形は素直に愛を受容することができなかったのだ。

勇作殺害は尾形の無価値観と罪悪感をより強く結びつける。勇作の愛を自覚してしまうとその親愛を踏み躙って殺害をしてしまった罪悪感を認めることになるからである。

またもし、尾形が勇作の愛を受け自らも実は親愛の情を持っていたとするならば、勇作殺害は自らの罪悪感を認め、自分がまともであると認識するための試し行為の側面もあったのかもしれない。

結果はご存知の通り、重すぎる罪悪感に耐えられず、より強く「罪悪感を感じない欠けた存在」という仮面に依存しなければならなくなるという更なる歪みへと陥ってしまった。

そこからの尾形は本稿で論じた通り、虚無の証明という破滅に奔走することになる。

アシリパとの交流と親愛は尾形の罪悪感の自覚を促した。罪悪感の自覚は、原罪である「母親殺害」の過ちを改めて自省させ、かつて尾形が勝手に作り上げた「罪悪感の欠如=無価値観」の公式から逆に「罪悪感を感じる自分は、欠如のない愛された普通の人間であった可能性」に気づかせたのである。

尾形の自決は諸氏さまざまな感想を持つと思うが、気づいたこれまでの過ちや罪悪感(父母殺害、勇作殺害、日露戦争をはじめとするあらゆる殺人、アシリパの殺害未遂)の重さに耐えきれず崩壊寸前の自我の最後の尊厳を守る為の自殺だろう。

これだけみるとなんとも哀れに思えるが、脳内問答での子供の尾形の「ああ、でも、よかったなぁ」という呟きが全てではなかろうか。

生まれてこの方、愛されずに生まれて否定され続ける自分の生の意味を探していた尾形にとって、逆説的にでも父母の愛情の発見という〈祝福〉を得て自分の生に意味があったと思えたことは、救われたといっても良いのかもしれない。

尾形というキャラクターは構造が複雑で、本当に考察しがいがあって面白いですね。

 

 

▼まとめで尾形のキャラクターがどのような役割なのかの考察を長々入れました。

【漫画考察】近代国家の迷い子たち まとめ - エウレカの憂鬱

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 3/3

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※本ページのみ未単行本のネタバレあり。

天から役目なしに降ろされた物はひとつもない

勇作に続き尾形の思考を否定する2人目の人物はお分かりの通りアシリパである。

「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」というアイヌの教えは、「全てに価値はない」という尾形の思想と真っ向から対峙するものである。それだけではなくアシリパの存在自体が、尾形に自らの思想を否定させようとしている。

尾形は深層心理下でアシリパに価値を見出していると思われる。それは偶像としての価値ではなく、自らに愛を与えてくれる、自分に価値を見出してくれる存在として、である。これは本来尾形が母に与えられたかったもので、心の底で求め続けていたものだ。

尾形は作中で「ヒンナ」「チタタプ」を口にしたことが一度だけある。読者はそれを、まず尾形が心を開いた描写と捉え、その後その裏切りによってアシリパから金塊のありかを聞き出すための演技であったかと肩を落としたことだろう。しかし私はこれをやはり絆された証であると、再度定義してみる。

その根拠は札幌で尾形がアシリパの狙撃を無意識に躊躇う(勇作の出現)シーンである。尾形が合理主義者であるため「道理に欠ける殺人である」から躊躇った、という理由では弱い。彼は札幌で浮浪者を身代わりにし、函館で機関士を射殺している。そこに道理はない。単純に尾形はアシリパを撃ちたくないから撃たなかっただけなのだ。

アシリパは尾形に価値を与えた。風邪をひいた時も熱心に看病してくれるし、釧路のコタンでは唯一尾形を信用してくれるなど、「出来損ないで、呪われた」その存在を肯定してくれる。そして彼の狩りを褒め、獲物を受けとり調理し与える。尾形の獲物がアシリパ(と他の仲間)の腹を満たし、命を繋ぐ。アシリパと同行している時だけ、尾形は自分に価値を感じたのではないか。

しかし残念なことに尾形が杉本のように素直に自分の価値を再認識して救われることはない。

はじめにその理由を尾形が近代合理主義者でニヒリストであるからと定義し、ここまでにそのニヒリズムと合理主義の根源に「母に愛されなかった事実、罪悪感、自分の無価値感」の否定があると説明してきた。

本来の目的(現段階で明かされる限りは金塊の見返りに母の愛した師団長の席に座り、その席が無価値であると再認識したいため)の途中、アシリパアイヌの思想に絆されかけた尾形だが、樺太で風邪にうなされる中で自らの罪悪感を再認識したこと(あるいはここで初めて勇作の言葉の真意を理解してしまったのかもしれない)で再び虚無の証明に縋ってしまう。

そしてアシリパからの「やはり信用できない」という否定をもってして、「やはり俺ではダメ」と彼は再び自らの価値を否定し呪われることになる。

 

尾形は救われるか

身もふたもない言い方をすれば、作劇の仕組み上「救われる」だろう。作中、鶴見中尉は乗り越えるべき、土方は背中で導く、それぞれ迷いのない絶対的存在であり、牛山や永倉、そして中盤からの谷垣も揺らぐことのない大人だ。対して杉元、尾形、白石、月島、鯉登、そしてアシリパは迷いの中で答えを探す途上の若者として描かれており、物語の帰結で彼らは何かしらの答えを得るはずだからである。

各単行本の折り返しに提示され続ける「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」というテーマは、陳腐な言い方をすれば「お前の命には意味があり、存在する価値がある」という意味である。これはもちろん主人公である杉元のための言葉であるが、批判を恐れず言うなら杉本の表裏である尾形のための言葉といえる。むしろこちらが本命と言ってもいいかもしれない。

尾形の思想や存在自体が物語のアンチテーゼであるため、尾形の結末には必ず「自分は欠けた存在として生まれ罪ある存在であるかもしれないが、それでも生まれてきたことに価値があったのだ」というアウフヘーベンが得られるはずなのだ。そしてその示唆を与えるのはやはり生きることに対し純然と肯定する人物、アシリパなのだろうと思う。

基本的に合理的で打算的、心に虚無主義を掲げた尾形が唯一、他人の感情に対して素直に良感情を向けたシーンがある。釧路の湿原でアシリパの杉本への恋心に気づいたときである。杉元の恋バナを聞きたくないために突然鶴の舞を始めたアシリパはその理由を聞かれ下手に誤魔化す。この一連のやり取りに尾形は「ははっ」といういつもの笑いではなく、「ふっ」という微笑みが溢れたような笑いを見せている。ヤマシギのドヤ顔シーンと合わせて尾形の素の人間らしさが見られた貴重なシーンである。

これらは尾形が真正サイコパスである宇佐美と違い、ねじれまくって拗らせきっているもののただの人間だという証拠である(サイコパスではないが反対に英雄や聖人にもなれない)。杉元が「忘れてしまった人間性」を思い出させてくれるのがアシリパなら、尾形にとっては「与えられず得られなかった人間性」を教えてくれるのがアシリパなのかもしれない。

精神的な救いは与えられても、肉体的にはやらかしすぎて先がなさそうな尾形であるが、せめて一瞬でも祝福を得られる瞬間があると良いなと、ここまで考察してきた身としてはフィクションながら願ってしまう。

ともあれ、この先は物語の行く末を待って結論づけられることだろうと思うので、結末を楽しみにしておく。