エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【漫画考察】『進撃の巨人』リヴァイ兵長の人気と日本人的英雄像

進撃の巨人の人気キャラクターである、リヴァイ兵長。もちろん私もこのキャラクターが大好きである。

リヴァイ兵長といえば人類最強の兵士だが、小柄で刈り上げで三白眼で口が汚く暴力的で潔癖症という字面だけ見ると最初の一文以外イマイチなキャラクターにも思える。でも実際は大人気。

では何故世の中の人がこのリヴァイ兵長に魅力を感じるのか。リヴァイのかっこよさについては巷に多くの記事があるので、今回はそこではあまり描かれない側面から魅力を探ってみたい。

もくじ
1.外見的な魅力
   ①日本人的強キャラはチビ?
 ②リヴァイ兵長の元祖は牛若丸
 ③リヴァイ兵長=世界の中の日本人
2.性格的な魅力
 ①作中屈指の仕事人
 ②人類最強の中間管理職
3.構造的な魅力
 ①キャラにギャップを重ねると人間になる
 ②対象ごとに刺さるアンカー

○前提条件として

まずは、明らかな人気の理由をここで挙げる。

  • 強い
  • 仲間想い
  • クール

人類最強で、英雄とも呼ばれる作中最強人物で、死にゆく仲間の手を握り巨人の絶滅を誓うシーンなど、仲間を大切にする描写は印象的。ただ、強いけれど仲間想いが人気なことに理由はいらないのはご存知の通りだろう。

また強くてクールという特徴も人気の定番である。クールである部分に余裕を感じるので「強さ」が倍増して見えるのが理由だろう。クールなキャラクターは冷徹に見られがちなので実は仲間想いというのはベタだが王道のギャップである。

ただし、これは多くの作品の人気キャラクターに共通するもので余り考察の余地はなさそうである。王道の設定は人気がK点突破する直接的理由ではないからだ。

それ以外で魅力を探ってみることにしよう。

 

1.外見的な魅力

①日本人的強キャラはチビ?

まずリヴァイの外見的特徴から考えてみよう。

身長は160センチと成人男性としては小柄な方である。三白眼気味で人相は悪め、軍人らしく後ろは刈り上げているも前髪はさらりとしたターミネーター2エドワード・ファーロング系(笑)である。クラバックという貴族風の襟飾をつけておりハンカチを持ち歩くなど身だしなみはしっかりしているようだ。

小柄なやつ(余り強そうではないやつ)が強いというのは日本の古代からのお約束である。 『古事記』のヤマトタケルは敵地潜入の際女装をしており、見た目から敵の油断を誘っている描写であり古代の英雄像がゴリマッチョではなかったと分かる。

源平合戦で大きな戦果を挙げた源義経も小柄な男であると描写される。

昔話の『お伽草子』の「一寸法師」、『金太郎』、馬琴の『南総里見八犬伝』などは明らかで、小さいもの、一見か弱そうな者が大きなものを打ち倒すという日本人独特の〈小さ子〉に対する信仰がよく見える。これは民俗学でいう小さい者(子供・背丈の低い者・か弱い者)には神の霊威があり、強大な力を持っているという考え方である。

日本のアニメや漫画では欧米に比べて戦う少年少女が圧倒的に多いと云われるが、その根底にはこの〈小さ子〉信仰が流れており、小さいのに、ではなく小さいから強いという考え方があると考えられる。

現代の漫画にも引き継がれており、代表的なところで『幽遊白書』の飛影、『H×H』のキルア、『BLEACH』の日番谷冬獅郎、『るろうに剣心』の剣心、『ヴィンランドサガ』のトルフィンなどがそうだろう。

剣心を除いてチビでクールで目つきが悪いというテンプレをベース(あくまでキャラ造形の基盤)に持っており、リヴァイもこのテンプレを踏襲しているといえる。

絵面的にもダイナミクスがあって良い。

 

②リヴァイ兵長の元祖は牛若丸?

リヴァイ兵長の造形で最も元祖として似つかわしいのは飛影では無く、先述した源義経の子供の頃でもある『牛若丸』だろう。

牛若丸は〈小さ子〉信仰にのっとった前髪の残る(元服前)の小柄で身軽な少年英雄であり、大男の弁慶を軽く打ち負かす強者であると同時に、源義朝の遺児として迫害を受け鞍馬山に出家に出された貴種である。

リヴァイ兵長は年齢こそ30代のおっさんだが、小柄で一見華奢(着痩せタイプ笑)、身軽に飛び回り巨人を倒している。

一見ジョンコナー風のあのツーブロは、元服前の前髪や若衆髷を想起させないこともない。

地下街のごろつき上がりという割に、クラバックという襟飾や身だしなみの清潔さ、趣味は紅茶など気品がありそうな特徴を持っており、ストーリーが進むと明らかになる出自は、王家の武家だったが迫害を受けて隠れ住むようになったアッカーマンという一族の末裔であると判明する。

牛若丸は成長して義経と名乗り、源平合戦で多大な成果を挙げた英雄となる。

これも進撃の巨人世界で巨人を倒し人類を救う英雄として描かれるリヴァイと重なる。

 

③リヴァイ兵長=世界の中の日本人

日本人含むモンゴロイド(アジア人・黄色人種)は人種的特徴でいえば、コーカソイド(白人)・ネグロイド(黒人)と比べて小柄で線が細く、目鼻立ちもほっそりして小ぶり、比較的童顔といって良い。

進撃世界の日本人枠のヒィズル国人はキャラクター的にミカサであるが、イメージ的にはリヴァイが担当していると思われる。

リヴァイは小柄で目は比較的細め、童顔で黒髪である。同年代のエルヴィン、ハンジら始め他のエルディア人のキャラクターがコーカソイド的特徴を外観に強く持っている(また後半で出てくるオニャンコポンはネグロイド系の造形)ため、集合絵では、一見欧米人に囲まれたアジア人に見えてしまう。

そんなリヴァイが無双するという部分にある種のロマンを抱くことは、恵まれた体躯が全てではない小さ子信仰の土壌もあり日本人には受け入れやすいだろう。

 

2性格的な魅力

①作中屈指の仕事人

シンゴジラ』は欧米で不評だったが、その理由は主人公たちの背景(家庭・内面)の描写が薄かったという部分がある。日本においては労働とそれ以外の区別が明確ではなく、仕事が時として生き様を表していることも多い。リヴァイはその仕事が生き様を表す典型である。

言動が荒いため、初見では強調性がない一匹狼的なキャラクターを想像するが、実際は集団主義の中で己の役割を理解し全うする職人肌で、スタンドプレーをしないキャラクターである。

情が深い描写を描きながらも、大局を見て時には冷静冷酷な判断が下せる人物でもあり、よくある仲間想いのキャラクターとは一味違った理性的な大人の苦味を含んだ魅力として描かれている。

己を殺し全体(人類)を生かすために粉骨砕身する姿のストイックさに魅力を感じる人は多いだろう。

②人類最強の中間管理職

上司にしては仕事をしっかりとこなし、自分の役割をきっちり把握して、上司が間違ったら面子は守りつつ諫言をし、時には汚れ役も引き受けてくれる信頼のおける部下である。

逆に部下に対しても常にケアを怠らない気遣い上手として描かれている。

それが最もよく表されているのが、ジャンが殺人を躊躇った事でアルミンが初めて殺人を行った有名なシーンである。

殺人を後悔するアルミンに対しては、事実は変わらないと諭し、そのおかげで仲間が生き残ることができたと感謝を告げ重荷を降ろさせ、同じく殺せなかった後悔をするジャンには、自分の失態を受け入れるよう諭し、殺人を躊躇った判断を否定せず、考え方が固定してしまわないようにフォローした。

人類最強という肩書きと一見粗暴な言動の裏で、鎌倉から続く封建社会意識のまだわずかに残る日本のサラリーマン的な(それもベンチャーの社長や自由な熱血新人ではなく中間管理職)立ち位置での有能さがキャラクターに深みを与えているといえる。

 

3構造的な魅力

①キャラにギャップを重ねると人間になる

ここまでくればお分かりだろう、リヴァイ兵長の魅力はギャップといえよう。

  • 人類最強→なのに小さい
  • 粗暴→協調できる大人
  • クール→場合によっては気遣いもできる
  • 見た目若く天才風→歴戦のおっさん兵士

これらは矢印の前と後どちらかだけでは大した魅力にならない。

前半はただのテンプレキャラであるし、後半はただのモブキャラである。

これがいわゆる不良と捨て犬の法則であり、ギャップによって一気にキャラクターが深まる。

しかもリヴァイはここにさらにもう一段「かわいげ、人間臭い欠点」というトッピングをしている。

  • 人類最強→なのに小さい→チビをちょっと気にしている
  • 粗暴→協調できる大人→でも口下手で冗談がつまらない
  • クール→場合によっては気遣いもできる→潔癖で掃除に小うるさい
  • 見た目が若く天才風→歴戦のおっさん兵士→掃除の時はエプロンと三角巾

そこにさらに「多くの仲間を失って、彼らの命を背負って苦闘を続ける」という悲劇性で包む。

この何層にも及ぶギャップのミルフィーユにより、リヴァイ兵長というキャラクターが、キャラというよりもはや人間として魅力的に感じられる構造になっている。

 

②対象ごとに刺さるアンカー

ここまで多重構造になると間口が恐ろしく広くなるだろう。

少年たちには、人類最強、クールな吊り目キャラというだけでもう厨二心をくすぐられる魅力的なキャラだろう。

女性的には強いのに小さい、清潔そう、実は優しいなどギャップだらけなので母性本能や乙女心にアンカーが突き刺さること間違いなし。

また、BL好きの女性にとっては、リヴァイ兵長の身近に配置されたエルヴィンという上司、またはエレンという部下のそれぞれの主従関係というブロマンス的なポイントがあるようだ。

そして社会人にはリヴァイの仕事人としてのストイックさや部下への情の描写が憧れるポイントだろう(私も部下になりたい!)

 

○まとめ

リヴァイ兵長の魅力を自分なりに分析してみたが、当てはまった方はいただろうか。

 

ストーリーも示唆に富み、キャラクターも魅力的な『進撃の巨人』、これを機会にまたリヴァイ兵長のかっこよさを読み直して再確認してみてほしい。

 

ちなみに私はアニメより原作派。

原作の兵長は圧倒的に渋カッコよく見えるので好きです。

 

 

 

 

 

 

【映画紹介】『スワロウテイル』90年代の都市幻想

本作は1996年に岩井俊二監督により製作された邦画である。

混沌として暴力的な世界観ながら、不思議な透明感に溢れた魅力的な群像劇となっている。

 

○モラトリアムの物語

よく(悪い意味で使う場合の)雰囲気映画の代表のように言われるのを見るが私はそうは思わない。
設定や舞台こそ大分漫画チックであるものの、描かれているのは、大都会で故郷も寄る辺もない蒼氓がどのようにして居場所を見つけアイデンティティを確立していくかであり、若者の夢や挫折を描く青春群像劇でもある。アゲハを中心にしっかりと個々の心の動きの描写もあり、この映画にはしっかりと訴えるテーマが含まれているだろうと思う。

バブル崩壊後の不況の只中で、人生ハードモードなロストジェネレーション世代の若者が溢れた当時、夢やお金、諦め、必死に生きる作中の登場人物たちにシンパシーを覚える人も多かったのではないだろうか。

○猥雑なネバーランドとしての円都

それはそうと、やはり作品の空気感が良い。
香港などアジアの都市をモデルにしたような多国籍で猥雑な雰囲気と、バブル時代に溢れていたであろう日本のエネルギッシュさが溶け合った独特の都市イェンタウン(円都)。
イェンタウン(円盗)と呼ばれる移民の登場人物たちは英語中国語日本語などをごちゃ混ぜになった言葉を使っているのもおもしろい。
混沌としていながら透明感に溢れている世界観は香港の王家衛に通じるものがあるが、王家衛作品の色彩が滲むような湿度を感じる映像に対して、岩井俊二作品はどこかくすんだ埃っぽいような色味が特徴である。日本の空気は海外の他の気候帯に比べると少し霞がかったような色合いになるので、それが反映された本作の映像は、多国籍感はありながらもやはり日本を感じさせる。それよりも作品に流れる自由の雰囲気こそが両者が似て感じる箇所なのかもしれないと思った。
仲間のランの営む都市の僻地の空き地の店「青空」の、あの誰にも縛られない清々しい佇まい。
映画当時の、あるいはそこから続く現在の日本の都市の閉塞感を知るからこそ、治安は悪くとも自由なあの世界観に憧憬を抱くのかもしれない。

○当時の人気俳優たちの名演

移民の物語といってもメインの登場人物は多く日本の俳優が演じている。
主役のアゲハを演じている伊藤歩は、加工されていない透き通った美しさがある。
際どいシーンも演じたその女優根性素晴らしい。
グリコは歌手のCHARAが演じているのだが、アゲハとは違う妖艶な美しさがとても魅力的。なによりもあの甘さと切なさが共存する独特の声は他の誰にも出せないだろう。
グリコの恋人フェイフォンを演じた三上博史、青空の店主ランを演じた渡部篤郎(この役がまたとんでもなくかっこいいんだ!)や、マフィアのボスを演じた江口洋介山口智子桃井かおり、小橋健児、大塚寧々などが演じる脇を固めるキャラクターも皆魅力的。
彼らにはそれぞれの物語があり、本作スワロウテイルはその交差路を切り取った映画ということなのである。

○センチメンタリズム溢れる名曲

主題歌の「スワロウテイルバタフライ」を歌うCHARAをボーカルに据えたイェンタウンバンドは作品から飛び出し現実でデビューしている。小林武史が最も脂の載っている90年代の楽曲で特にストリングスラインのアレンジがかっこいい。

粗削りさも魅力の憧憬溢れるスワロウテイル
オススメ。

 

スワロウテイル好きにオススメ】

王家衛監督『恋する惑星

返還前の香港を舞台にした2組の男女の恋模様をスタイリッシュに描いた本作。撮影監督クリストファー・ドイルのカメラがとらえた返還前の多国籍で猥雑な香港の自由で瑞々しい空気感は必見。肌に合う方は続編に当たる『天使の涙』でさらにアングラな香港に潜ってほしい。

 

スワロウテイル

スワロウテイル

  • 発売日: 2014/06/20
  • メディア: Prime Video
 

 

 

【アニメ紹介】『FLAG』レンズが写す争いと祈り

現実と地続きのリアルなロボットが登場する戦争を報道カメラマンの目線で描く意欲作『FLAG』を紹介したい。

 

あらすじ

内戦が続くアジアの架空の小国ウディヤーナ。その和平交渉の架け橋となった一枚の写真とそこに描かれた旗「FLAG」。和平協定を前にその平和の象徴FLAGが何者かに盗まれる。撮影者の若いカメラマン白須冴子は、国連軍の依頼でFLAG奪還特殊チームの報道員として内戦の陰謀の渦中に巻き込まれて行く。


作風

物語自体はどちらかというと地味で、ハーヴィックという人型戦闘ロボットが出てくるのだが、その扱い方もロボットアニメのそれとは異質である。

淡々と描かれる作戦や戦闘は、ロボアニメの肉弾戦とは程遠く、あくまで現実に存在する軍用兵器としての行動しかしないので、そういったものを期待すると拍子抜けするかもしれない。

逆にその地味さがまたリアルに感じられて好感が持てる。

 

斬新な映像

この物語の特徴は、ほぼ全ての映像が登場人物のカメラやビデオのレンズ越しに描かれているという点である。

アニメとは本来三人称である。

小説で言えば天の声の立ち位置から俯瞰して物語を見る事が出来るということである。

しかし、このFLAGに関していえばどちらかといえば一人称に近い演出がなされている。

我々視聴者はカメラのレンズ、つまり主人公白須の目線・感情を通して物語を見るという面白い構造になっている。ことに戦闘シーンなどではこの、演出が功を奏し実際の戦場カメラマンが撮った映像のような独特の緊張感が再現されている。

 

被写体としては極端に映ることが少ない主人公の心情や成長をカメラを通して描くという演出も面白い。

白須はカメラマンとしてはまだ未熟。当初は目標もあいまいで、当初の彼女が撮影した写真を見ると被写体との距離感がまだうまく取れない様子が見て取れる(現地の人を遠くから隠し?撮りしたり)。その後白須は国連軍のハーヴィック班に随従して過ごすようになるが、作戦が始まったばかりの頃の彼女のレンズには、オロウカンディ少尉、ハカン少尉、ベローキ中尉や食事班のスタッフといった好意的で親切に話をしてくれる面々との会話ばかりが残っており、エバーソルト隊長、ハーヴィック操縦士の一柳中尉ら、少し近寄りがたい無口な面々については遠巻きに見るばかりであった。初めての人間関係の中での彼女の心情がここで言外に描かれている。そこから少しずつ絆をかわし、白須がゲストではなく仲間として彼らの中に溶け込んでいく様、白須自身の迷いや努力、仕事への向き合い方の変化などが、会話などにより淡々と描かれている。

一人称に"近い"と言ったのは、視聴者はカメラの先の被写体を通して撮影者の白須の感情を知るという部分である。これはモノローグでの独白のようにダイレクトに主人公の考えを示すわけではない、あくまで視聴者の受け取り次第という諸刃の剣である。

そこで時折現れて、物語を客観的にナレーションをするのが白須の先輩カメラマン、赤城だ。

赤城により戦局の情報やウディヤーナという国の文化、白須の客観的な人物像など、白須の把握していない、また説明できない部分のフォローがなされることで、この斬新な表現方法が成り立って行っている。

個人的に赤城の説明は、ポエムが入りすぎていてら気がするが、ベトナム戦争時の戦場カメラマンの手記などを読むと、やはり何処か小説に近いポエミーで感傷的な描写が多かったので元来そういうものなのかもしれない。

 


ジャーナリズムとはなにか

今も何処かで起こっている紛争とは我々とは無関係なのか。

歌のないシンプルなオープニングでは、ピュリッツァー賞で見るような戦場などを写したいわゆる報道写真と、日本で平和に育つ白須の成長記録が交互に画面に登場する。

二つの世界がFLAGで結ばれることにより、我々はそれが地続きであると再認識するのである。

 

 

 

【映画感想】『茄子-アンダルシアの夏』郷愁と男たちの熱い戦い

過酷なロードレースが行われるアンダルシアを舞台にした人間ドラマ。

監督はスタジオジブリ作画監督として数々の作品を手掛けてきたベテランアニメーターの高坂希太郎
1時間弱の短い時間の中で、
図らずもかつて背を向けた故郷のアンダルシアを、もっとも避けたかったタイミングで訪れることとなった、ロードレーサーの主人公ペペの故郷への葛藤を、ロードレースという形を借りて言葉に頼ることなく見事に描いている。
原作は未読なのだが、この映画を見ると毎回茄子のアサディジョ漬けを食べてみたくなる。すごい旨そう。

果てしなく続く荒野のロードレースという下手をすれば単調になってしまう舞台を、動きや構図の巧みさで飽きさせることなく演出。コメディな仕掛けも随所にあるので重くなりすぎることもない。
さらにレースの孤独感・緊迫感が増す後半戦、ラストスパートのデットヒートなど、こちらまで力が入り画面にのめり込んでしまうほど作画の力も素晴らしい。

ナチュラルな音楽の使い方も好印象。
スパニッシュギターの調べが乾いた荒野の映像と合わせてスペインらしさを醸し出し、孤独な戦いを続けるペペの心情を雄弁に語る。小林旭の「自動車ショー歌」を忌野清志郎がカバーしたエンディングも小気味よくgood。

もっとも好きなシーンは、酒場の親父フェルナンデスが歌うあのアンダルシアの歌の場面。
無骨な歌声が、レースの熱をそっと冷ますように暮れゆくアンダルシアの荒野に響き、そこからペペの心情へと重なってゆくあのシーンの素晴らしさ。

越えたかった兄。
かつての恋人。
逃げ出した故郷。
がむしゃらに走ってきた人生。
故郷と向き合い、背を向けていた過去を人生の一部として受け入れるペペ。
苦にばしった深みのある余韻がこの映画を静かだが印象的なものにしている。

主人公ペペの声を演じたのは大泉洋。これが素晴らしくマッチしていた。
余談だが、監督は水曜どうでしょうのファンだそうで、続編のスーツケースの渡り鳥では、同番組ディレクターである藤やんとうれしーが友情出演している。

青空とアンダルシアの大地
歌と踊りと人々の朗らかさ
悲喜こもごもの人生の素晴らしさ

爽やかな余韻を残す良作。
オススメです。

 

茄子 アンダルシアの夏

茄子 アンダルシアの夏

  • メディア: Prime Video

 

 

【映画考察】『シン・ゴジラ』日本人から探るゴジラの実像

2016年にヒットした庵野康明監督のシンゴジラを取り上げてみる。

 

○本作のターゲットは日本人である

本作が海外でウケが良くないという話を聞くにつけ、なぜ海外の評価を気にする必要があるのかと疑問に思わずにはいられない。この映画は日本人による日本人のためのゴジラだと言っても良いだろう。

 

○日本の常識を知ることで生まれるリアル

日本独特の会議の煩雑さや悠長さ、リーダーシップの無さの再現という理由については既に多くの考察で語られているので敢えて言わないので、それ以外で話を進める。

二度目の上陸時に走って慌てず歩いて避難する人々(避難訓練の成果)、一般人のSNSに上がる放射線測定器の写真やシーベルトの文字、神社に避難する人々(風立ちぬでも震災の時神社に避難していましたね)など、本作は日本人、あるいは戦後、311震災・原発事故後の日本在住者にしか分からない記号で溢れている。記憶の中の体験と映画がシンクロすることで、観客にゴジラという虚構に実存感を持たせているのである。

ゆえに共通の感覚を持たない海外の観客にとっては、シンゴジラの特撮系ディティールも相まって退屈で共感しづらいものになっている。

 

ゴジラ=荒ぶる神か?

ゴジラの倒し方もまた海外の人には不可解だろう。ゴジラを倒すのではなく活動停止させるという結論は、原発の冷却を暗喩していると同時に、人知の及ばない脅威、かつては荒ぶる神といわれた自然の猛威に対して行った『鎮める』という行為に類似している。

ゴジラに限らず、日本のアニメーションの根底には制作が意識するしない関わらず、この力の暴走・荒ぶる神と『鎮める』或いは『封じる』という結論が出てくることがある。大友克洋監督の代表作『AKIRA』でも『風の谷のナウシカ』でもそれは描かれている。

これは極めて日本的な解釈である。

全能の神を戴き人間の被征服下にある自然というのがユダヤキリスト教的な西洋の価値観である。それに対し自然崇拝とそこから展開した汎神教的な八百万の神を戴く日本においては、誤解を恐れず言うならば自然は征服対象ではなく信仰対象となる。

近代以前の災害(獣害含む)というものの認識について、前者は人間の罪に起因する贖罪と試練としての神罰であり、もし人間に罪が認められない場合それは神の敵対勢力(悪魔やそれに準ずるもの)の悪意となるが、後者にはそのような神と人間の一対一の関係の中での超自然的な意思の介入は見られず、あくまで神(自然)自身の性格の一面であるという認識が強い。

これが和御魂(恵みを与える自然)と荒御魂(命を脅かす自然)の概念である。

もしそこにどうしても人間に対する神自身の故意を認めたいならば、それは人間の広義の攻撃に対する報復(祟り)として和御魂が荒御魂に変化したという解釈が正しかろう。

そこで日本では、荒御魂、読んでそのまま神様の荒ぶる魂を慰め鎮めて、人間に有益な和御魂となって貰おうという考え方がある。

これを御霊信仰という。

和御魂・荒御魂について、宮崎駿監督の『もののけ姫』を観たことがある人は、人間に致命傷を負わされてタタリ神になったナゴの守や、命を奪い与えるシシ神、そのシシ神が首を奪われ暴走して、主人公らが首を返そうとする場面を思い浮かべていただけると分かり易いだろう。

 

ゴジラは日本にとっては荒ぶる神である。

初代ゴジラではそれが罪(核汚染)というタブーを侵す行為に対する報復として描かれていたのに対し、本作ではより無作為な災害に近い荒御魂としての性格が強く打ち出されている。

それもそのはず、今回のゴジラが表しているのは先の東日本大震災に代表される自然災害そのものなのだ。

さすがに政治家を主人公に据えた現代劇(そもそも怪獣映画)で、ゴジラの魂を慰め鎮めるという解決は論外(盛り上がらない!見たくない!)なので、血液凝固剤でゴジラを物理的に沈静化するというヤシオリ作戦という形を取っている。八塩折ノ酒はスサノオノミコトが八岐大蛇を酔わせて倒した際に使われた酒だが、この『古事記』の神話をさらに遡って考えてみれば、そこには八岐大蛇という荒御魂を慰撫する供物として酒を捧げていた古代の神事が見え隠れしている。

ヤシオリの酒をたらふく飲まされた現代の八岐大蛇ことゴジラは、凍結という形で鎮静化した。これがつまり荒御魂が鎮められたシーンなのである。

この先神話のようにゴジラが崇め奉られるのかどうかは知らないが、日本人はこのいつ復活するとも知れない危険なゴジラと共存することになった。だがこのゴジラがいるという事実が、日本の防衛の新しい要になりはしないだろうか。少なくとも不用意な攻撃は相当な博打国家以外は躊躇うはずである。ゴジラの新元素は日本の発展と世界での地位向上に寄与するかも知れない。インバウンドは減るかも知れないが、商根たくましければゴジラが新たな観光資源となる可能性もなきにしもあらずである。

かくして日本はゴジラと共存していく。

追い払うのでも倒すのでもない共存するというのは日本らしい面白い着地点だろうと思う。

 

○日本的なヒーローとは誰か

本作は無駄な会議シーンが長く、人間側のドラマが薄いという意見があるそうだが、そうだろうか。本作はアメリカンな言い方をすればヒーローで溢れている。
寝食もおざなりにして寝ずに対策を立てる蘭堂ら官僚・研究者たち、重責の中判断を下す総理ら大臣たち、任務を黙々とこなす自衛隊員たち、冷却液を作る全国の製造者たち、日本を信頼しスパコンを貸してくれたドイツの研究機関、核に反対してくれたフランス政府、交渉の橋渡しをしてくれたアメリカの外交官、お茶を入れてくれた事務のおばちゃん、そしてヤシオリ作戦時の重機の点検をしてくれたであろう会社の人、急ピッチで線路を直してくれたであろう鉄道会社、とうとうゴジラに一矢報いることができた電車たち。

圧倒的なリーダーがいないことは作中でも問題視されているが、その代わりに映画では一致団結する力の強さが示されている。

日本はご存知の通り本来村社会である。

村社会では村というコミューン自体が一つの仕組みであり、生命装置なのである。一人一人の命が軽いということではなく、それぞれが補完し合う一つの細胞という捉え方だと思って欲しい。つまりこの仕組みの中では、リーダーすら指示を出す一つの細胞にすぎないのだ。

日本においては、これはともすれば少し前時代的と揶揄されるかもしれないが、私を滅し仕事をきっちりとこなす人間が職人とか仕事人と言って讃えられてきた歴史がある。

海に囲まれ逃げ場のない日本という国では、危機の時に仲間を引き連れて安住の地へ導くリーダーシップではなく、危機に際し共同体の存続のために和を乱さず協調出来る精神自体に重きが置かれるのはごく自然な感覚なのである。

そしてそのためには自らの幸福や安穏を犠牲にしなけれならないというデメリットも日本人、日本社会に生きる者ならば理解できるところだろう(この島国的な性格の良し悪しは今回は論じない)。

この映画で観客は、登場人物らの描かれない背景を勝手に補完し、日本という共同体の存続(ゴジラの対処はもとより、国連の核から守る為)に自らを犠牲にして、一致団結して命をかける姿に尊さを見つけるのである。

もちろん映画という媒体において、主人公に対しての共感や英雄性はある程度描写しなければならないだろう。それが如実に表れているのが以下のシーンである。

ヤシオリ作戦時の蘭堂の言葉で「日本のために危険を冒してほしい」という自己犠牲をお願いする場面がある。特攻を指揮した大本営と同じことを国民に強要しているとも取られかねない危険な発言だが、蘭堂が彼らと同じく被曝の危険を冒しているなかで、やむを得ない犠牲に対しての苦渋の決断であることで、観客はそこに英雄性を見つける(重ねて言うが良し悪しは論じない)。また原発の暴走の比喩でもあるシンゴジラにあって、それが危険を冒して作業した福島第1原発の作業員に対して蘭堂を通して自分たちが共に寄り添うことができたという感覚が、何より日本人の負い目を癒し、共感を得られたのかもしれない。

 

○日本らしさを通すことの意味
この日本人ならばわかる演出、演技、英雄性の表現の曖昧さが他文化からすると分かりづらく感じるだろう。だからと言って私は日本人以外分からないのだから観るなと排他的なことを言うわけではない。
アニメや漫画などの日本文化は本来は国内向けのニーズに応えたものを海外の人も好んでくれた結果の人気だろう。
よって海外の受けを気にしすぎる風潮は問題だ。ガラパゴスを貫いてこそ良い作品が生まれると思いたい。

その点本作の姿勢は素晴らしいものがある。
初代へのリスペクトを込めつつ、さらに日本オタクのマニアックをこれでもか詰め込み、現代にゴジラを蘇らせた。意見は色々あるが私は傑作だと思っている。

 

緊急時にも国民に銃を向けることを拒む日本。核爆弾を二度と使わせないという決意。そんな日本を誇りに思う。

あと無人在来線爆弾の名称がキャッチーすぎる。積年の恨み晴らせてよかったね!

 

 

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

  • 発売日: 2017/03/22
  • メディア: Prime Video
 

 

 

【映画感想】『海洋天堂』平凡にして偉大なるすべての父と母へ

素晴らしい映画に出会えた。

心を深く揺さぶられ、見終わったときに胸の中を暖かく重たい水で満たされたような、あるいは胸に大きな穴が空いてしまったような、切ないような、哀しいような、それでいてどこまでも優しく愛しい言葉にできない感情に打ちのめされた。

こんな経験は久しぶりだった。

時間が経っても、日を置いても、ふとした瞬間に胸が詰まる。夜明け前の青い窓外に、映画全体を包んでいた優しい海や水族館の青が重なり涙が溢れてしまう。

シンチョンの無私の愛が、ターフーの無垢が、褪せることなく思い出されるのである。

映画の持つ力というのは本当にすごいなぁ、そう実感させてくれるような映画だった。

 

 

以下あらすじネタバレあり。長いので注意。

 

海洋天堂は2010年の中国・香港合作映画である。

青島の水族館で電気技師として働くワン・シンチョンは、妻を早くに失い、21歳になる自閉症で知的障がいを併せ持つの息子ターフーを男手一つで育てていた。

物語は穏やかな海に浮かべた小舟にのんびり腰掛ける父子の姿から始まる。

おもむろに足にロープを結びつけたシンチョンは、水面で遊ぶターフーに「行こうか?」と語りかける。

飛び込む親子、優しい音楽が流れる青い海中を背景に、『海洋天堂』日本語に直訳すると海の天国という印象的なタイトル画面となる。

 

監督は『北京ヴァイオリン』の脚本を手掛けたシュエ・シャオルーで、本作が初監督となる。彼女自身が14年間自閉症の施設で続けたボランティアの体験を元に作られた本作は、自閉症の息子を持つ家族の姿を淡々とそれでいて愛情深く描いている。

 

主演を務めるのは、香港・中国ひいては世界で活躍するアクション俳優であるジェット・リーリー・リンチェイ)。この映画を素晴らしいものにしている一つの要因は、脚本に感動しノーギャラで出演を申し出たといわれる彼の誠実な演技だろう。

アクションスターといえば演技は二の次というのは東西問わずの常識で、況や彼らは動きで魅せる俳優たちである。ジェットももちろん、『少林寺』『ワンチャイ 』、『キスオブザドラゴン 』などで魅せた芸術の域ともいえるキレのある中国武術・カンフー(マーシャルアーツ)が売りのアクション俳優のひとりだ。

だが本作で彼が演じたのは、アクションの無いくたびれた普通の中年の父親ワン・シンチョンである。

正直、私はこの映画の最初から最後までシンチョンをアクション俳優のジェット・リーと意識したことは一度としてなかった。それほど自然にどこにでもいるような名もなき小市民にしか見えないのだ。アクション俳優にしては、165㎝と小柄な身長と素朴な風貌のジェット、その優しそうな笑顔と雰囲気が、どこにでもいそうな中年男性のシンチョンに違和感なく重なっている。

ダニー・ザ・ドッグ』の時に表情の演技の上手い俳優だなとは思っていたが、余命わずかで自閉症の息子を遺して逝かなければならないという複雑な心境を実に繊細に演じた。

 

ある時がんで余命三ヶ月を宣告されたシンチョンは、一人では生きていけない息子ターフーの将来を憂い、一緒に入水自殺をしようとする。しかし泳ぎが得意な息子によって不本意ながら生きながらえてしまう。

帰宅した父子。シンチョンは訪ねてきたチャイさん(何かと二人を気にかけてくれる近所の女性)に生事をしつつ彼女宛の遺書をそっと隠す。

自殺を失敗したシンチョンは、ともすれば何事もなかったかのように自然にしているように見えるが、落ち着かずうろうろとし、医師に止められているであろう強目の酒を煽る。言葉にしない抑えた演出と演技で異常な心境が上手く表されている。

「嫌だったのか?」「残されてどうやって生きていくんだ?」とターフーに詰め寄るシンチョン。だがターフーは父親の言葉をおうむ返しにするだけで答えてはくれない。彼の問いかけは自身への問いかけだろう。

シンチョンは思い直し、自分が死んだ後も息子が安全に生きていけるように、残された時間で生活の仕方を教え、引き取ってくれる施設を探すことを決意する。

ただ、ここで21歳というターフーの年齢が壁となる。障がいを持った成人が受け入れられる施設はなく、仕事の合間に片っ端から連絡を取るも良い施設はなかなか見つからない。病の痛みに耐えながら、電話では少しでも施設に良い印象をと明るく振る舞うシンチョンの姿が切ない。

やっと見つかったとターフーを連れて見学に行った場所は精神病院。薄暗い雰囲気や部屋の鉄格子を見て慌てて逃げ帰る。

ターフーを一生しっかりと面倒を見てくれるちゃんとした施設を探さなければ、ターフーに一人で生きていけるだけの技術を覚えさせなければ、何よりターフーには自分がいなくなった後も幸せな一生を送ってほしい。

見つからない施設やなかなか物事を覚えてくれない息子、残された時間に焦るシンチョンだが、日々は苦しいばかりではない。

服の脱ぎ方、卵の茹で方、アイスの買い方、鍵の開け方、バスの乗り方。

シンチョンは根気強くターフーに教え続け、息子が覚えると「偉いぞ、お前は賢い子だなぁ」と本当に嬉しそうに褒める。父子二人の挑戦の日々が、優しく時にはコミカルに描かれていく。

 

ターフーを見つめる慈愛に満ちた目、その成長を喜ぶ満面の笑顔、ふとした瞬間よぎる不安や憂いを帯びた表情など、ジェット・リーの抑えた自然な芝居が本当に素晴らしい。

壁にかかった妻と息子と3人の写真を折に触れ見つめるシンチョン。

物語後半の水族館長との会話で、彼の妻が息子の障がいへの自責の念で入水自殺したということが匂わされる。もしかしたらターフーと心中しようとしたもののシンチョンと同じように息子だけ泳いで難を逃れたのかもしれない。

「妻を責めたことなどなかったのに」とつぶやいたシンチョン。彼がその十字架を背負い生きてきたことが伺え、こうやって心の中で妻に自分は正しくやれているかと問いかけながら必死に息子を育ててきたのだろうことを思わされる。

言葉での説明を極力省いた演出は見事で、シンチョンの心情の機微が、折々の表情や視線、動きのカットでうまく表現されている。我々は物言わぬシンチョンの心境を慮り心を重ね合わせ、時折発せられる彼の心境の吐露に胸を打たれるのだ。

 

ジェットとともに名演技を見せるのが、ターフーを演じる若手俳優のウェン・ジャン。知的障がいを併せ持った自閉症という難しい役を見事に演じている。

 

知古のリウ先生の紹介でなんとか民間の施設を紹介してもらった父子。

それは一般の人々が経営する養護施設だった。

ターフーを預けた帰り、リウ先生にシンチョンが珍しく弱音を吐くシーンがある。

自閉症は自分の世界をもって生きていて良い、自分との別れを悲しまなくて済むから」というものだが、それに対して先生は「感情がないのではなく、感情をうまく出せないだけだ」と答え、「あなたも本当は分かっているでしょう?」と優しく慰める。

自閉症や、その置かれた状況を発信するという側面を持っているだろうこの映画では、ターフーの感情の動きについても細やかな描写がなされている。

まさに先ほどのリウ先生の言葉を映像がうまく表していると言っても良い。

怒られれば悲しい、褒められれば頑張る、他の人よりちょっと分かりづらいだけなんだよと、ターフーの姿が語っている。

水族館に来たサーカス一座のピエロの女の子リンリン(グイ・ルンメイ!かわいい)へのターフーの淡い恋が切ない。

一座が去ったあと水族館から姿を消したターフー。シンチョンが慌てて街中を探すと、マクドナルドのベンチでピエロのドナルドに寄り添って寂しそうに眠っているのを見つけるというシーンは、こちらまでターフーの気持ちを思って悲しくなってしまう。

またターフーのシンチョンへの愛情もたくさん描かれている。褒められて喜んだり、ご機嫌な時はくっついたり。

バスの中で父親を見てはにこにことするシーンなどまるで幼子のような無垢さが愛しい。

自閉症の子供を育てる大変さや生きづらさを表現する(現実は私などの想像するよりもずっと大変なのだと思うので、知ったかのような無責任な言葉は控えなければならない)一方、その無垢さや愛らしさも同時に表現される。

視聴するものが、シンチョンと同じ目線でターフーを見ることができるように分かりやすくされた演出なのかもしれないが、それが理解の一助になることは確かだろうと思う。

先ほど描いたシンチョンの弱音へのリウ先生の言葉は、作中すぐに回収されることとなる。

 

ターフーを預け、一人寂しく家で横になっていたシンチョンのもとに施設から電話が入る。新しい環境に混乱して興奮してしまい、施設の人間では手に負えないという話であった。

急いで向かったシンチョンはターフーを抱きしめて落ち着かせる。父を見て泣きだすターフーに、シンチョンは息子の想いを知る。

泣き疲れて眠る息子を置いて席を立とうとするも、ターフーの手が父親に「まだいる?行かないでね?」と訴える。シンチョンは答えるように軽く手のひらを叩いて、そして優しく握りしめる。

シンチョンの想いにターフーが応えるさまを、二人の手だけの演技で表したのである。慎ましやかな良い演出だと思った。

 

結局シンチョンもターフーとともに施設で暮らすことになった。

施設の部屋を自分たちの家と同じように飾り、二人の最後の生活が始まる。

少しずつ、少しずつ日々の物事を覚えているターフー。

洋服の場所、卵が茹であがるにはいくつ数えたらいいか、苦手だったバスの降り方も二人でたくさん練習する。

教えたいことはまだたくさんあるのに。

 

夜、ベッドに横になるターフーに寄り添い「お前は父さんと離れるのはさみしいかい?」と尋ねるも、彼はいつものようにその問いかけをそのまま父に返す。

シンチョンは冒頭の時とは違い、

「父さんは、さみしいな」と呟く。

静かな、心に響く良いシーンである。

 

いよいよと別れが迫るのを悟ったシンチョンは、ターフーに水族館の海亀を指してあることを伝える。

「海亀はターフーよりもずっと長生きなんだよ」

「父さんは海亀になってお前を見ているからな」

おそらくカナヅチであろうシンチョンが、病をおして水族館のプールに入り、泳ぐターフーに寄り添いながら何度も何度も「父さんは海亀だよ」と言い聞かせる。

自分亡き後もターフーが、寂しくないように。ターフー(大福)と名付けた息子が名前の通り悲しいことのない幸福な一生を送れるように……。

 

幸せに笑い合う父と子。

しかし次のシーンでは、シンチョンの棺が映り、彼がその生を全うしたことが分かる。

チャイさんや施設の人たち、そして水族館の館長、父子を見守ってきた人たちが彼のお墓の前で項垂れる。

シンチョンが生前ターフーの服に縫い付けた迷子札、保護者の欄にペンを入れられなかったそこには、今は施設の名前が入っている。館長は自分も彼の後見人に付け加えてほしい、ターフーには今後も水族館で清掃の仕事をしてもらいたいと提案する。

真摯に頑張ってきたシンチョンの想いを多くの人が受け継いでいる。

 

葬式が終わり日常が戻ってくる。

ターフーはひとりで服を着て、ゆで卵を茹でる。ひとりで鍵を閉め、バスに乗り、水族館の掃除をしっかりと行う。

シンチョンに教わったこと、怒られたこと、喜ばれたこと、覚えたことひとつひとつを丁寧に行う。シンチョンの願いは確実にターフーに伝わっていたのである。

水族館の水槽で大きな海亀の背に乗り、気持ちよさそうに泳ぐターフー。

「父さんは海亀だよ」

「ずっとお前を見守っているよ」

シンチョンの背におぶさり二人で海を泳ぐように遊んだ思い出が重なり、この物語は幕を閉じる。

 

私は俗に感動モノと呼ばれるジャンルが苦手だ。CMなど感動という言葉を連呼する、制作側が泣ける映画だよ、絶対に感動できるよ、と恥ずかしげもなく前面に出している商業作品群のことである。

感動というものは本来、シナリオ・演技・演出や音楽や映像、映画という媒体の中の登場人物たちの生きざまを見て初めて生まれる感情であるはずだ。

ゆえにこれら感動を売りにした商業映画に対し、私はどうしても創作に対する不誠実さを感じてしまう。

 

だが、この作品は違う。

とても誠実だ。

余命わずかな父、自閉症の息子。

やろうと思えばいくらでもドラマチックにすることはできたはずである。

しかしこの映画はそういった小細工はせずに、ひたすら淡々と父と子の最後の日々を綴っていく。その淡々とした日々の中にこそ、苦しみも喜びも全てあるのだということを、代え難いドラマが流れているのだということを知っているからである。ターフーを思うシンチョンの無私の愛情は日常の一つ一つの行動に宿っており、ターフーの成長はその幾多もの愛情の積み重ねの上にあるのだ。

映画という興行収入がモノをいう媒体において、一見地味に思えるような丹念なドラマを作り上げた制作陣からは、命や病、現実の問題でもある要介護の障がい者と老親、福祉の問題に正面から向き合おうという誠実さを感じる。

ジェット・リーがこの作品に出たいと思った理由もこの作品の実直な誠実さにあるのではないだろうかと思える。

 

海や水族館の透明な美しいブルー。登場人物たちをおだやかに包み込むような映像は、クリストファー・ドイルによるものである。

また親子の愛を、隣人たちのまなざしを表すような優しい劇中曲は、日本の久石譲が担当している。

 

海洋天堂は、おだやかで優しく、多くのものを与えてくれるまるで深い海のような作品である。

大好きな、大切なターフーの幸せのために頑張るシンチョンの、無私の深い深い愛情に深く胸を打たれた。

純粋に父親を愛するターフーの無垢な愛情に涙を誘われた。

彼らの幸せな時間の尊さに、別れなければならないやるせなさに、自分を産み育ててくれた親への尊敬を、家族への愛をあらためて思い出させてもらった。

今まで遠いものに感じていた自閉症障がい者の問題も、前より身近に感じられるようになった。なぜならみんなシンチョンの、親の深い愛情を受けてこの世に生まれてきたターフーなのだから。

 

この作品に出会えてよかった。

素晴らしい作品を世に送り出してくれたシャオルー監督はじめ製作陣、素晴らしい物語を演じてくれたジェット・リーら俳優陣に、心からの敬意を評します。

 

本当に、本当に素晴らしい映画である。

海洋天堂(字幕版)

海洋天堂(字幕版)

  • 発売日: 2018/11/07
  • メディア: Prime Video
 

【映画感想】『ヒットマン(殺手之王)』

ヒットマン」と検索しても数ある作品に淘汰され全く出てこない「ヒットマン」ことジェット・リー主演「殺手之王」の話をしよう。

 

あらすじ

香港でヤクザな商売をしていた日本人社長が炎の天使と呼ばれる(広東語だと熾天使)に殺された。社長のかけていた復讐基金の大金目当てに世界中の殺し屋が集まった。

中国の田舎から出稼ぎに出てきた殺し屋志望の青年フウ(ジェット)。彼の夢は田舎の母親に家を建ててやること。戦闘能力は高いのにどうしても殺しが出来ず貧乏生活を抜け出せないフウ、最後の望みをかけて復讐基金の争奪戦に参加しようとするも会場で門前払いを食ってしまう。困ったフウに手を差し伸べたのは、詐欺師のノウ、彼もまた基金の大金を狙っていた。

 

ジェット先生がうだつの上がらない貧乏青年を好演。釣り銭が違うとスーパーのレジで延々揉めたり、物乞いのおっさんと小銭の取り合いをしたり、ノウに奢ってもらったレストランの料理をタッパーで持ち帰ったりとせせこましい&意外と図々しく面の皮が厚いフウは、ジェットの素朴な風貌も相まって微笑ましい。そしてやはり先生の蹴りは凄まじい!美しい!

ちなみに本作はリーサルウェポン4でローナを華麗な裏拳ならぬ裏脚?で一撃ノックする直前の公開だ。鼻の黒子が見れる最後のチャンスでもある。

この映画で面白いのはいつも無敵なジェット先生が、全般割と苦戦しているところである。スカッとするアクションを期待している諸氏は物足りなさを感じるだろうが、個人的には新鮮でよかった。ワンチャイと同時進行でフラッシュファイターやラスチャイを撮る人なだけあって、俺様映画にしないところがジェットの良いところだろう。

この映画でジェットを食う勢いでいい味出しているのがノウを演じる名バイプレイヤーのエリック・ツァン。胡散臭く抜け目がないがどこか愛嬌のあるノウ、キャラ的にはシュワちゃんの『ツインズ』のような典型的な組み合わせだが、欧米ではチビだ半人分だとなにかといじられるジェットが高身長に見える稀有なバディなので結構好きだ笑

ノウの娘役のジジ・リョンも清潔感があって良い。マイフェイバリットオブ・海外女優であるロザムンド・クワン(ワンチャイのイーさん役の人)に迫る美しさだ。

ブリジット・フォンダといいケリー・コンドンといい人種年齢問わずジェットの共演者は素敵な女優さんが多いなぁ。

 

大陸➕香港、vs西側諸国

ごくありふれたアクション映画だが、その背景はなかなか興味深い。

本作は香港の中国返還翌年に公開。当時の中国と香港の格差は今の比ではなかっただろう。

本作の主人公フウは中国からの出稼ぎ労働者で、冒頭で唐辛子を混ぜた卵とじを作っていたことから中国北部の出身と思われる(広東や香港料理は本来はあまり辛くない)。箱詰めのアパートで同郷の男たちやインド系(良い奴。イギリス総督の兵士にインド人が多かったので香港は意外にインド人が多い)の殺し屋仲間と一緒に住んでおり、大陸出身というだけで下に見られる。フウにとってイギリス統治下で資本主義を謳歌した香港の金銭感覚や家族関係は理解しがたいが、その理解を助けるのが相棒のノウである。香港で強かに生き延びてきた小悪党のノウは、大陸からきた純朴だがたくましいフウを使って稼ごうとする。と同時に自分の売り込みかたや虚勢をはる手段、ドライでめまぐるしい大都会香港での身の処し方を教えていく。

そして本作の敵は、当時90年代当時、香港で大きく商売を展開していた日本人と、そのボディガードの欧米人。

本作は香港人と大陸人がその差異を乗り越えて手を携えて、(経済的に)強い日本や西側諸国と渡り合っていくという内容にも読み解ける。

 

というわけで中国返還後の新生香港の頑張るぞ宣言みたいな側面のある映画だが、ラストもいい感じに前向きに俗っぽくて私は結構好きである。

ダサかっこ可愛いジェット先生はじめ、したたかで人間味があるキャラクターたちも魅力的だし、炎の天使の正体を巡るサスペンスも適度に面白い。

ちょっと脚本がチープなところはご愛嬌笑

気楽に見れておススメだ。

金曜の夜とかビール片手に楽しみたい作品。

 

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