エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【映画紹介】『スワロウテイル』90年代の都市幻想

本作は1996年に岩井俊二監督により製作された邦画である。

混沌として暴力的な世界観ながら、不思議な透明感に溢れた魅力的な群像劇となっている。

 

○モラトリアムの物語

よく(悪い意味で使う場合の)雰囲気映画の代表のように言われるのを見るが私はそうは思わない。
設定や舞台こそ大分漫画チックであるものの、描かれているのは、大都会で故郷も寄る辺もない蒼氓がどのようにして居場所を見つけアイデンティティを確立していくかであり、若者の夢や挫折を描く青春群像劇でもある。アゲハを中心にしっかりと個々の心の動きの描写もあり、この映画にはしっかりと訴えるテーマが含まれているだろうと思う。

バブル崩壊後の不況の只中で、人生ハードモードなロストジェネレーション世代の若者が溢れた当時、夢やお金、諦め、必死に生きる作中の登場人物たちにシンパシーを覚える人も多かったのではないだろうか。

○猥雑なネバーランドとしての円都

それはそうと、やはり作品の空気感が良い。
香港などアジアの都市をモデルにしたような多国籍で猥雑な雰囲気と、バブル時代に溢れていたであろう日本のエネルギッシュさが溶け合った独特の都市イェンタウン(円都)。
イェンタウン(円盗)と呼ばれる移民の登場人物たちは英語中国語日本語などをごちゃ混ぜになった言葉を使っているのもおもしろい。
混沌としていながら透明感に溢れている世界観は香港の王家衛に通じるものがあるが、王家衛作品の色彩が滲むような湿度を感じる映像に対して、岩井俊二作品はどこかくすんだ埃っぽいような色味が特徴である。日本の空気は海外の他の気候帯に比べると少し霞がかったような色合いになるので、それが反映された本作の映像は、多国籍感はありながらもやはり日本を感じさせる。それよりも作品に流れる自由の雰囲気こそが両者が似て感じる箇所なのかもしれないと思った。
仲間のランの営む都市の僻地の空き地の店「青空」の、あの誰にも縛られない清々しい佇まい。
映画当時の、あるいはそこから続く現在の日本の都市の閉塞感を知るからこそ、治安は悪くとも自由なあの世界観に憧憬を抱くのかもしれない。

○当時の人気俳優たちの名演

移民の物語といってもメインの登場人物は多く日本の俳優が演じている。
主役のアゲハを演じている伊藤歩は、加工されていない透き通った美しさがある。
際どいシーンも演じたその女優根性素晴らしい。
グリコは歌手のCHARAが演じているのだが、アゲハとは違う妖艶な美しさがとても魅力的。なによりもあの甘さと切なさが共存する独特の声は他の誰にも出せないだろう。
グリコの恋人フェイフォンを演じた三上博史、青空の店主ランを演じた渡部篤郎(この役がまたとんでもなくかっこいいんだ!)や、マフィアのボスを演じた江口洋介山口智子桃井かおり、小橋健児、大塚寧々などが演じる脇を固めるキャラクターも皆魅力的。
彼らにはそれぞれの物語があり、本作スワロウテイルはその交差路を切り取った映画ということなのである。

○センチメンタリズム溢れる名曲

主題歌の「スワロウテイルバタフライ」を歌うCHARAをボーカルに据えたイェンタウンバンドは作品から飛び出し現実でデビューしている。小林武史が最も脂の載っている90年代の楽曲で特にストリングスラインのアレンジがかっこいい。

粗削りさも魅力の憧憬溢れるスワロウテイル
オススメ。

 

スワロウテイル好きにオススメ】

王家衛監督『恋する惑星

返還前の香港を舞台にした2組の男女の恋模様をスタイリッシュに描いた本作。撮影監督クリストファー・ドイルのカメラがとらえた返還前の多国籍で猥雑な香港の自由で瑞々しい空気感は必見。肌に合う方は続編に当たる『天使の涙』でさらにアングラな香港に潜ってほしい。

 

スワロウテイル

スワロウテイル

  • 発売日: 2014/06/20
  • メディア: Prime Video
 

 

 

【アニメ紹介】『FLAG』レンズが写す争いと祈り

現実と地続きのリアルなロボットが登場する戦争を報道カメラマンの目線で描く意欲作『FLAG』を紹介したい。

 

あらすじ

内戦が続くアジアの架空の小国ウディヤーナ。その和平交渉の架け橋となった一枚の写真とそこに描かれた旗「FLAG」。和平協定を前にその平和の象徴FLAGが何者かに盗まれる。撮影者の若いカメラマン白須冴子は、国連軍の依頼でFLAG奪還特殊チームの報道員として内戦の陰謀の渦中に巻き込まれて行く。


作風

物語自体はどちらかというと地味で、ハーヴィックという人型戦闘ロボットが出てくるのだが、その扱い方もロボットアニメのそれとは異質である。

淡々と描かれる作戦や戦闘は、ロボアニメの肉弾戦とは程遠く、あくまで現実に存在する軍用兵器としての行動しかしないので、そういったものを期待すると拍子抜けするかもしれない。

逆にその地味さがまたリアルに感じられて好感が持てる。

 

斬新な映像

この物語の特徴は、ほぼ全ての映像が登場人物のカメラやビデオのレンズ越しに描かれているという点である。

アニメとは本来三人称である。

小説で言えば天の声の立ち位置から俯瞰して物語を見る事が出来るということである。

しかし、このFLAGに関していえばどちらかといえば一人称に近い演出がなされている。

我々視聴者はカメラのレンズ、つまり主人公白須の目線・感情を通して物語を見るという面白い構造になっている。ことに戦闘シーンなどではこの、演出が功を奏し実際の戦場カメラマンが撮った映像のような独特の緊張感が再現されている。

 

被写体としては極端に映ることが少ない主人公の心情や成長をカメラを通して描くという演出も面白い。

白須はカメラマンとしてはまだ未熟。当初は目標もあいまいで、当初の彼女が撮影した写真を見ると被写体との距離感がまだうまく取れない様子が見て取れる(現地の人を遠くから隠し?撮りしたり)。その後白須は国連軍のハーヴィック班に随従して過ごすようになるが、作戦が始まったばかりの頃の彼女のレンズには、オロウカンディ少尉、ハカン少尉、ベローキ中尉や食事班のスタッフといった好意的で親切に話をしてくれる面々との会話ばかりが残っており、エバーソルト隊長、ハーヴィック操縦士の一柳中尉ら、少し近寄りがたい無口な面々については遠巻きに見るばかりであった。初めての人間関係の中での彼女の心情がここで言外に描かれている。そこから少しずつ絆をかわし、白須がゲストではなく仲間として彼らの中に溶け込んでいく様、白須自身の迷いや努力、仕事への向き合い方の変化などが、会話などにより淡々と描かれている。

一人称に"近い"と言ったのは、視聴者はカメラの先の被写体を通して撮影者の白須の感情を知るという部分である。これはモノローグでの独白のようにダイレクトに主人公の考えを示すわけではない、あくまで視聴者の受け取り次第という諸刃の剣である。

そこで時折現れて、物語を客観的にナレーションをするのが白須の先輩カメラマン、赤城だ。

赤城により戦局の情報やウディヤーナという国の文化、白須の客観的な人物像など、白須の把握していない、また説明できない部分のフォローがなされることで、この斬新な表現方法が成り立っている。

個人的に赤城の説明は、ポエムが入りすぎていらいらするが、ベトナム戦争時の戦場カメラマンの手記などを読むと、やはり何処か小説に近いポエミーで感傷的な描写が多かったので元来そういうものなのかもしれない。

 


ジャーナリズムとはなにか

今も何処かで起こっている紛争とは我々とは無関係なのか。

歌のないシンプルなオープニングでは、ピュリッツァー賞で見るような戦場などを写したいわゆる報道写真と、日本で平和に育つ白須の成長記録が交互に画面に登場する。

二つの世界がFLAGで結ばれることにより、我々はそれが地続きであると再認識するのである。

 

 

 

【映画感想】『茄子-アンダルシアの夏』郷愁と男たちの熱い戦い

過酷なロードレースが行われるアンダルシアを舞台にした人間ドラマ。

監督はスタジオジブリ作画監督として数々の作品を手掛けてきたベテランアニメーターの高坂希太郎
1時間弱の短い時間の中で、
図らずもかつて背を向けた故郷のアンダルシアを、もっとも避けたかったタイミングで訪れることとなった、ロードレーサーの主人公ペペの故郷への葛藤を、ロードレースという形を借りて言葉に頼ることなく見事に描いている。
原作は未読なのだが、この映画を見ると毎回茄子のアサディジョ漬けを食べてみたくなる。すごい旨そう。

果てしなく続く荒野のロードレースという下手をすれば単調になってしまう舞台を、動きや構図の巧みさで飽きさせることなく演出。コメディな仕掛けも随所にあるので重くなりすぎることもない。
さらにレースの孤独感・緊迫感が増す後半戦、ラストスパートのデットヒートなど、こちらまで力が入り画面にのめり込んでしまうほど作画の力も素晴らしい。

ナチュラルな音楽の使い方も好印象。
スパニッシュギターの調べが乾いた荒野の映像と合わせてスペインらしさを醸し出し、孤独な戦いを続けるペペの心情を雄弁に語る。小林旭の「自動車ショー歌」を忌野清志郎がカバーしたエンディングも小気味よくgood。

もっとも好きなシーンは、酒場の親父フェルナンデスが歌うあのアンダルシアの歌の場面。
無骨な歌声が、レースの熱をそっと冷ますように暮れゆくアンダルシアの荒野に響き、そこからペペの心情へと重なってゆくあのシーンの素晴らしさ。

越えたかった兄。
かつての恋人。
逃げ出した故郷。
がむしゃらに走ってきた人生。
故郷と向き合い、背を向けていた過去を人生の一部として受け入れるペペ。
苦にばしった深みのある余韻がこの映画を静かだが印象的なものにしている。

主人公ペペの声を演じたのは大泉洋。これが素晴らしくマッチしていた。
余談だが、監督は水曜どうでしょうのファンだそうで、続編のスーツケースの渡り鳥では、同番組ディレクターである藤やんとうれしーが友情出演している。

青空とアンダルシアの大地
歌と踊りと人々の朗らかさ
悲喜こもごもの人生の素晴らしさ

爽やかな余韻を残す良作。
オススメです。

 

茄子 アンダルシアの夏

茄子 アンダルシアの夏

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【映画考察】『シン・ゴジラ』日本人から探るゴジラの実像

2016年にヒットした庵野康明監督のシンゴジラを取り上げてみる。

 

○本作のターゲットは日本人である

本作が海外でウケが良くないという話を聞くにつけ、なぜ海外の評価を気にする必要があるのかと疑問に思わずにはいられない。この映画は日本人による日本人のためのゴジラだと言っても良いだろう。

 

○日本の常識を知ることで生まれるリアル

日本独特の会議の煩雑さや悠長さ、リーダーシップの無さの再現という理由については既に多くの考察で語られているので敢えて言わないので、それ以外で話を進める。

二度目の上陸時に走って慌てず歩いて避難する人々(避難訓練の成果)、一般人のSNSに上がる放射線測定器の写真やシーベルトの文字、神社に避難する人々(風立ちぬでも震災の時神社に避難していましたね)など、本作は日本人、あるいは戦後、311震災・原発事故後の日本在住者にしか分からない記号で溢れている。記憶の中の体験と映画がシンクロすることで、観客にゴジラという虚構に実存感を持たせているのである。

ゆえに共通の感覚を持たない海外の観客にとっては、シンゴジラの特撮系ディティールも相まって退屈で共感しづらいものになっている。

 

ゴジラ=荒ぶる神か?

ゴジラの倒し方もまた海外の人には不可解だろう。ゴジラを倒すのではなく活動停止させるという結論は、原発の冷却を暗喩していると同時に、人知の及ばない脅威、かつては荒ぶる神といわれた自然の猛威に対して行った『鎮める』という行為に類似している。

ゴジラに限らず、日本のアニメーションの根底には制作が意識するしない関わらず、この力の暴走・荒ぶる神と『鎮める』或いは『封じる』という結論が出てくることがある。大友克洋監督の代表作『AKIRA』でも『風の谷のナウシカ』でもそれは描かれている。

これは極めて日本的な解釈である。

全能の神を戴き人間の被征服下にある自然というのがユダヤキリスト教的な西洋の価値観である。それに対し自然崇拝とそこから展開した汎神教的な八百万の神を戴く日本においては、誤解を恐れず言うならば自然は征服対象ではなく信仰対象となる。

近代以前の災害(獣害含む)というものの認識について、前者は人間の罪に起因する贖罪と試練としての神罰であり、もし人間に罪が認められない場合それは神の敵対勢力(悪魔やそれに準ずるもの)の悪意となるが、後者にはそのような神と人間の一対一の関係の中での超自然的な意思の介入は見られず、あくまで神(自然)自身の性格の一面であるという認識が強い。

これが和御魂(恵みを与える自然)と荒御魂(命を脅かす自然)の概念である。

もしそこにどうしても人間に対する神自身の故意を認めたいならば、それは人間の広義の攻撃に対する報復(祟り)として和御魂が荒御魂に変化したという解釈が正しかろう。

そこで日本では、荒御魂、読んでそのまま神様の荒ぶる魂を慰め鎮めて、人間に有益な和御魂となって貰おうという考え方がある。

これを御霊信仰という。

和御魂・荒御魂について、宮崎駿監督の『もののけ姫』を観たことがある人は、人間に致命傷を負わされてタタリ神になったナゴの守や、命を奪い与えるシシ神、そのシシ神が首を奪われ暴走して、主人公らが首を返そうとする場面を思い浮かべていただけると分かり易いだろう。

 

ゴジラは日本にとっては荒ぶる神である。

初代ゴジラではそれが罪(核汚染)というタブーを侵す行為に対する報復として描かれていたのに対し、本作ではより無作為な災害に近い荒御魂としての性格が強く打ち出されている。

それもそのはず、今回のゴジラが表しているのは先の東日本大震災に代表される自然災害そのものなのだ。

さすがに政治家を主人公に据えた現代劇(そもそも怪獣映画)で、ゴジラの魂を慰め鎮めるという解決は論外(盛り上がらない!見たくない!)なので、血液凝固剤でゴジラを物理的に沈静化するというヤシオリ作戦という形を取っている。八塩折ノ酒はスサノオノミコトが八岐大蛇を酔わせて倒した際に使われた酒だが、この『古事記』の神話をさらに遡って考えてみれば、そこには八岐大蛇という荒御魂を慰撫する供物として酒を捧げていた古代の神事が見え隠れしている。

ヤシオリの酒をたらふく飲まされた現代の八岐大蛇ことゴジラは、凍結という形で鎮静化した。これがつまり荒御魂が鎮められたシーンなのである。

この先神話のようにゴジラが崇め奉られるのかどうかは知らないが、日本人はこのいつ復活するとも知れない危険なゴジラと共存することになった。だがこのゴジラがいるという事実が、日本の防衛の新しい要になりはしないだろうか。少なくとも不用意な攻撃は相当な博打国家以外は躊躇うはずである。ゴジラの新元素は日本の発展と世界での地位向上に寄与するかも知れない。インバウンドは減るかも知れないが、商根たくましければゴジラが新たな観光資源となる可能性もなきにしもあらずである。

かくして日本はゴジラと共存していく。

追い払うのでも倒すのでもない共存するというのは日本らしい面白い着地点だろうと思う。

 

○日本的なヒーローとは誰か

本作は無駄な会議シーンが長く、人間側のドラマが薄いという意見があるそうだが、そうだろうか。本作はアメリカンな言い方をすればヒーローで溢れている。
寝食もおざなりにして寝ずに対策を立てる蘭堂ら官僚・研究者たち、重責の中判断を下す総理ら大臣たち、任務を黙々とこなす自衛隊員たち、冷却液を作る全国の製造者たち、日本を信頼しスパコンを貸してくれたドイツの研究機関、核に反対してくれたフランス政府、交渉の橋渡しをしてくれたアメリカの外交官、お茶を入れてくれた事務のおばちゃん、そしてヤシオリ作戦時の重機の点検をしてくれたであろう会社の人、急ピッチで線路を直してくれたであろう鉄道会社、とうとうゴジラに一矢報いることができた電車たち。

圧倒的なリーダーがいないことは作中でも問題視されているが、その代わりに映画では一致団結する力の強さが示されている。

日本はご存知の通り本来村社会である。

村社会では村というコミューン自体が一つの仕組みであり、生命装置なのである。一人一人の命が軽いということではなく、それぞれが補完し合う一つの細胞という捉え方だと思って欲しい。つまりこの仕組みの中では、リーダーすら指示を出す一つの細胞にすぎないのだ。

日本においては、これはともすれば少し前時代的と揶揄されるかもしれないが、私を滅し仕事をきっちりとこなす人間が職人とか仕事人と言って讃えられてきた歴史がある。

海に囲まれ逃げ場のない日本という国では、危機の時に仲間を引き連れて安住の地へ導くリーダーシップではなく、危機に際し共同体の存続のために和を乱さず協調出来る精神自体に重きが置かれるのはごく自然な感覚なのである。

そしてそのためには自らの幸福や安穏を犠牲にしなけれならないというデメリットも日本人、日本社会に生きる者ならば理解できるところだろう(この島国的な性格の良し悪しは今回は論じない)。

この映画で観客は、登場人物らの描かれない背景を勝手に補完し、日本という共同体の存続(ゴジラの対処はもとより、国連の核から守る為)に自らを犠牲にして、一致団結して命をかける姿に尊さを見つけるのである。

もちろん映画という媒体において、主人公に対しての共感や英雄性はある程度描写しなければならないだろう。それが如実に表れているのが以下のシーンである。

ヤシオリ作戦時の蘭堂の言葉で「日本のために危険を冒してほしい」という自己犠牲をお願いする場面がある。特攻を指揮した大本営と同じことを国民に強要しているとも取られかねない危険な発言だが、蘭堂が彼らと同じく被曝の危険を冒しているなかで、やむを得ない犠牲に対しての苦渋の決断であることで、観客はそこに英雄性を見つける(重ねて言うが良し悪しは論じない)。また原発の暴走の比喩でもあるシンゴジラにあって、それが危険を冒して作業した福島第1原発の作業員に対して蘭堂を通して自分たちが共に寄り添うことができたという感覚が、何より日本人の負い目を癒し、共感を得られたのかもしれない。

 

○日本らしさを通すことの意味
この日本人ならばわかる演出、演技、英雄性の表現の曖昧さが他文化からすると分かりづらく感じるだろう。だからと言って私は日本人以外分からないのだから観るなと排他的なことを言うわけではない。
アニメや漫画などの日本文化は本来は国内向けのニーズに応えたものを海外の人も好んでくれた結果の人気だろう。
よって海外の受けを気にしすぎる風潮は問題だ。ガラパゴスを貫いてこそ良い作品が生まれると思いたい。

その点本作の姿勢は素晴らしいものがある。
初代へのリスペクトを込めつつ、さらに日本オタクのマニアックをこれでもか詰め込み、現代にゴジラを蘇らせた。意見は色々あるが私は傑作だと思っている。

 

緊急時にも国民に銃を向けることを拒む日本。核爆弾を二度と使わせないという決意。そんな日本を誇りに思う。

あと無人在来線爆弾の名称がキャッチーすぎる。積年の恨み晴らせてよかったね!

 

 

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

  • 発売日: 2017/03/22
  • メディア: Prime Video
 

 

 

【映画感想】『海洋天堂』平凡にして偉大なるすべての父と母へ

素晴らしい映画に出会えた。

心を深く揺さぶられ、見終わったときに胸の中を暖かく重たい水で満たされたような、あるいは胸に大きな穴が空いてしまったような、切ないような、哀しいような、それでいてどこまでも優しく愛しい言葉にできない感情に打ちのめされた。

こんな経験は久しぶりだった。

時間が経っても、日を置いても、ふとした瞬間に胸が詰まる。夜明け前の青い窓外に、映画全体を包んでいた優しい海や水族館の青が重なり涙が溢れてしまう。

シンチョンの無私の愛が、ターフーの無垢が、褪せることなく思い出されるのである。

映画の持つ力というのは本当にすごいなぁ、そう実感させてくれるような映画だった。

 

 

以下あらすじネタバレあり。長いので注意。

 

海洋天堂は2010年の中国・香港合作映画である。

青島の水族館で電気技師として働くワン・シンチョンは、妻を早くに失い、21歳になる自閉症で知的障がいを併せ持つの息子ターフーを男手一つで育てていた。

物語は穏やかな海に浮かべた小舟にのんびり腰掛ける父子の姿から始まる。

おもむろに足にロープを結びつけたシンチョンは、水面で遊ぶターフーに「行こうか?」と語りかける。

飛び込む親子、優しい音楽が流れる青い海中を背景に、『海洋天堂』日本語に直訳すると海の天国という印象的なタイトル画面となる。

 

監督は『北京ヴァイオリン』の脚本を手掛けたシュエ・シャオルーで、本作が初監督となる。彼女自身が14年間自閉症の施設で続けたボランティアの体験を元に作られた本作は、自閉症の息子を持つ家族の姿を淡々とそれでいて愛情深く描いている。

 

主演を務めるのは、香港・中国ひいては世界で活躍するアクション俳優であるジェット・リーリー・リンチェイ)。この映画を素晴らしいものにしている一つの要因は、脚本に感動しノーギャラで出演を申し出たといわれる彼の誠実な演技だろう。

アクションスターといえば演技は二の次というのは東西問わずの常識で、況や彼らは動きで魅せる俳優たちである。ジェットももちろん、『少林寺』『ワンチャイ 』、『キスオブザドラゴン 』などで魅せた芸術の域ともいえるキレのある中国武術・カンフー(マーシャルアーツ)が売りのアクション俳優のひとりだ。

だが本作で彼が演じたのは、アクションの無いくたびれた普通の中年の父親ワン・シンチョンである。

正直、私はこの映画の最初から最後までシンチョンをアクション俳優のジェット・リーと意識したことは一度としてなかった。それほど自然にどこにでもいるような名もなき小市民にしか見えないのだ。アクション俳優にしては、165㎝と小柄な身長と素朴な風貌のジェット、その優しそうな笑顔と雰囲気が、どこにでもいそうな中年男性のシンチョンに違和感なく重なっている。

ダニー・ザ・ドッグ』の時に表情の演技の上手い俳優だなとは思っていたが、余命わずかで自閉症の息子を遺して逝かなければならないという複雑な心境を実に繊細に演じた。

 

ある時がんで余命三ヶ月を宣告されたシンチョンは、一人では生きていけない息子ターフーの将来を憂い、一緒に入水自殺をしようとする。しかし泳ぎが得意な息子によって不本意ながら生きながらえてしまう。

帰宅した父子。シンチョンは訪ねてきたチャイさん(何かと二人を気にかけてくれる近所の女性)に生事をしつつ彼女宛の遺書をそっと隠す。

自殺を失敗したシンチョンは、ともすれば何事もなかったかのように自然にしているように見えるが、落ち着かずうろうろとし、医師に止められているであろう強目の酒を煽る。言葉にしない抑えた演出と演技で異常な心境が上手く表されている。

「嫌だったのか?」「残されてどうやって生きていくんだ?」とターフーに詰め寄るシンチョン。だがターフーは父親の言葉をおうむ返しにするだけで答えてはくれない。彼の問いかけは自身への問いかけだろう。

シンチョンは思い直し、自分が死んだ後も息子が安全に生きていけるように、残された時間で生活の仕方を教え、引き取ってくれる施設を探すことを決意する。

ただ、ここで21歳というターフーの年齢が壁となる。障がいを持った成人が受け入れられる施設はなく、仕事の合間に片っ端から連絡を取るも良い施設はなかなか見つからない。病の痛みに耐えながら、電話では少しでも施設に良い印象をと明るく振る舞うシンチョンの姿が切ない。

やっと見つかったとターフーを連れて見学に行った場所は精神病院。薄暗い雰囲気や部屋の鉄格子を見て慌てて逃げ帰る。

ターフーを一生しっかりと面倒を見てくれるちゃんとした施設を探さなければ、ターフーに一人で生きていけるだけの技術を覚えさせなければ、何よりターフーには自分がいなくなった後も幸せな一生を送ってほしい。

見つからない施設やなかなか物事を覚えてくれない息子、残された時間に焦るシンチョンだが、日々は苦しいばかりではない。

服の脱ぎ方、卵の茹で方、アイスの買い方、鍵の開け方、バスの乗り方。

シンチョンは根気強くターフーに教え続け、息子が覚えると「偉いぞ、お前は賢い子だなぁ」と本当に嬉しそうに褒める。父子二人の挑戦の日々が、優しく時にはコミカルに描かれていく。

 

ターフーを見つめる慈愛に満ちた目、その成長を喜ぶ満面の笑顔、ふとした瞬間よぎる不安や憂いを帯びた表情など、ジェット・リーの抑えた自然な芝居が本当に素晴らしい。

壁にかかった妻と息子と3人の写真を折に触れ見つめるシンチョン。

物語後半の水族館長との会話で、彼の妻が息子の障がいへの自責の念で入水自殺したということが匂わされる。もしかしたらターフーと心中しようとしたもののシンチョンと同じように息子だけ泳いで難を逃れたのかもしれない。

「妻を責めたことなどなかったのに」とつぶやいたシンチョン。彼がその十字架を背負い生きてきたことが伺え、こうやって心の中で妻に自分は正しくやれているかと問いかけながら必死に息子を育ててきたのだろうことを思わされる。

言葉での説明を極力省いた演出は見事で、シンチョンの心情の機微が、折々の表情や視線、動きのカットでうまく表現されている。我々は物言わぬシンチョンの心境を慮り心を重ね合わせ、時折発せられる彼の心境の吐露に胸を打たれるのだ。

 

ジェットとともに名演技を見せるのが、ターフーを演じる若手俳優のウェン・ジャン。知的障がいを併せ持った自閉症という難しい役を見事に演じている。

 

知古のリウ先生の紹介でなんとか民間の施設を紹介してもらった父子。

それは一般の人々が経営する養護施設だった。

ターフーを預けた帰り、リウ先生にシンチョンが珍しく弱音を吐くシーンがある。

自閉症は自分の世界をもって生きていて良い、自分との別れを悲しまなくて済むから」というものだが、それに対して先生は「感情がないのではなく、感情をうまく出せないだけだ」と答え、「あなたも本当は分かっているでしょう?」と優しく慰める。

自閉症や、その置かれた状況を発信するという側面を持っているだろうこの映画では、ターフーの感情の動きについても細やかな描写がなされている。

まさに先ほどのリウ先生の言葉を映像がうまく表していると言っても良い。

怒られれば悲しい、褒められれば頑張る、他の人よりちょっと分かりづらいだけなんだよと、ターフーの姿が語っている。

水族館に来たサーカス一座のピエロの女の子リンリン(グイ・ルンメイ!かわいい)へのターフーの淡い恋が切ない。

一座が去ったあと水族館から姿を消したターフー。シンチョンが慌てて街中を探すと、マクドナルドのベンチでピエロのドナルドに寄り添って寂しそうに眠っているのを見つけるというシーンは、こちらまでターフーの気持ちを思って悲しくなってしまう。

またターフーのシンチョンへの愛情もたくさん描かれている。褒められて喜んだり、ご機嫌な時はくっついたり。

バスの中で父親を見てはにこにことするシーンなどまるで幼子のような無垢さが愛しい。

自閉症の子供を育てる大変さや生きづらさを表現する(現実は私などの想像するよりもずっと大変なのだと思うので、知ったかのような無責任な言葉は控えなければならない)一方、その無垢さや愛らしさも同時に表現される。

視聴するものが、シンチョンと同じ目線でターフーを見ることができるように分かりやすくされた演出なのかもしれないが、それが理解の一助になることは確かだろうと思う。

先ほど描いたシンチョンの弱音へのリウ先生の言葉は、作中すぐに回収されることとなる。

 

ターフーを預け、一人寂しく家で横になっていたシンチョンのもとに施設から電話が入る。新しい環境に混乱して興奮してしまい、施設の人間では手に負えないという話であった。

急いで向かったシンチョンはターフーを抱きしめて落ち着かせる。父を見て泣きだすターフーに、シンチョンは息子の想いを知る。

泣き疲れて眠る息子を置いて席を立とうとするも、ターフーの手が父親に「まだいる?行かないでね?」と訴える。シンチョンは答えるように軽く手のひらを叩いて、そして優しく握りしめる。

シンチョンの想いにターフーが応えるさまを、二人の手だけの演技で表したのである。慎ましやかな良い演出だと思った。

 

結局シンチョンもターフーとともに施設で暮らすことになった。

施設の部屋を自分たちの家と同じように飾り、二人の最後の生活が始まる。

少しずつ、少しずつ日々の物事を覚えているターフー。

洋服の場所、卵が茹であがるにはいくつ数えたらいいか、苦手だったバスの降り方も二人でたくさん練習する。

教えたいことはまだたくさんあるのに。

 

夜、ベッドに横になるターフーに寄り添い「お前は父さんと離れるのはさみしいかい?」と尋ねるも、彼はいつものようにその問いかけをそのまま父に返す。

シンチョンは冒頭の時とは違い、

「父さんは、さみしいな」と呟く。

静かな、心に響く良いシーンである。

 

いよいよと別れが迫るのを悟ったシンチョンは、ターフーに水族館の海亀を指してあることを伝える。

「海亀はターフーよりもずっと長生きなんだよ」

「父さんは海亀になってお前を見ているからな」

おそらくカナヅチであろうシンチョンが、病をおして水族館のプールに入り、泳ぐターフーに寄り添いながら何度も何度も「父さんは海亀だよ」と言い聞かせる。

自分亡き後もターフーが、寂しくないように。ターフー(大福)と名付けた息子が名前の通り悲しいことのない幸福な一生を送れるように……。

 

幸せに笑い合う父と子。

しかし次のシーンでは、シンチョンの棺が映り、彼がその生を全うしたことが分かる。

チャイさんや施設の人たち、そして水族館の館長、父子を見守ってきた人たちが彼のお墓の前で項垂れる。

シンチョンが生前ターフーの服に縫い付けた迷子札、保護者の欄にペンを入れられなかったそこには、今は施設の名前が入っている。館長は自分も彼の後見人に付け加えてほしい、ターフーには今後も水族館で清掃の仕事をしてもらいたいと提案する。

真摯に頑張ってきたシンチョンの想いを多くの人が受け継いでいる。

 

葬式が終わり日常が戻ってくる。

ターフーはひとりで服を着て、ゆで卵を茹でる。ひとりで鍵を閉め、バスに乗り、水族館の掃除をしっかりと行う。

シンチョンに教わったこと、怒られたこと、喜ばれたこと、覚えたことひとつひとつを丁寧に行う。シンチョンの願いは確実にターフーに伝わっていたのである。

水族館の水槽で大きな海亀の背に乗り、気持ちよさそうに泳ぐターフー。

「父さんは海亀だよ」

「ずっとお前を見守っているよ」

シンチョンの背におぶさり二人で海を泳ぐように遊んだ思い出が重なり、この物語は幕を閉じる。

 

私は俗に感動モノと呼ばれるジャンルが苦手だ。CMなど感動という言葉を連呼する、制作側が泣ける映画だよ、絶対に感動できるよ、と恥ずかしげもなく前面に出している商業作品群のことである。

感動というものは本来、シナリオ・演技・演出や音楽や映像、映画という媒体の中の登場人物たちの生きざまを見て初めて生まれる感情であるはずだ。

ゆえにこれら感動を売りにした商業映画に対し、私はどうしても創作に対する不誠実さを感じてしまう。

 

だが、この作品は違う。

とても誠実だ。

余命わずかな父、自閉症の息子。

やろうと思えばいくらでもドラマチックにすることはできたはずである。

しかしこの映画はそういった小細工はせずに、ひたすら淡々と父と子の最後の日々を綴っていく。その淡々とした日々の中にこそ、苦しみも喜びも全てあるのだということを、代え難いドラマが流れているのだということを知っているからである。ターフーを思うシンチョンの無私の愛情は日常の一つ一つの行動に宿っており、ターフーの成長はその幾多もの愛情の積み重ねの上にあるのだ。

映画という興行収入がモノをいう媒体において、一見地味に思えるような丹念なドラマを作り上げた制作陣からは、命や病、現実の問題でもある要介護の障がい者と老親、福祉の問題に正面から向き合おうという誠実さを感じる。

ジェット・リーがこの作品に出たいと思った理由もこの作品の実直な誠実さにあるのではないだろうかと思える。

 

海や水族館の透明な美しいブルー。登場人物たちをおだやかに包み込むような映像は、クリストファー・ドイルによるものである。

また親子の愛を、隣人たちのまなざしを表すような優しい劇中曲は、日本の久石譲が担当している。

 

海洋天堂は、おだやかで優しく、多くのものを与えてくれるまるで深い海のような作品である。

大好きな、大切なターフーの幸せのために頑張るシンチョンの、無私の深い深い愛情に深く胸を打たれた。

純粋に父親を愛するターフーの無垢な愛情に涙を誘われた。

彼らの幸せな時間の尊さに、別れなければならないやるせなさに、自分を産み育ててくれた親への尊敬を、家族への愛をあらためて思い出させてもらった。

今まで遠いものに感じていた自閉症障がい者の問題も、前より身近に感じられるようになった。なぜならみんなシンチョンの、親の深い愛情を受けてこの世に生まれてきたターフーなのだから。

 

この作品に出会えてよかった。

素晴らしい作品を世に送り出してくれたシャオルー監督はじめ製作陣、素晴らしい物語を演じてくれたジェット・リーら俳優陣に、心からの敬意を評します。

 

本当に、本当に素晴らしい映画である。

海洋天堂(字幕版)

海洋天堂(字幕版)

  • 発売日: 2018/11/07
  • メディア: Prime Video
 

【映画感想】『メイド・イン・ホンコン(香港製造)』

90年代香港は子供ながらに憧れの街だった。原色のネオンの看板、夜も眠らない高層ビル群の夜景、魔窟・九龍城砦、カンフースター、アジアであってアジアでない大都会。大人になって初めて訪れたときのあの高揚感は今でも忘れられない。ただその時すでに返還を終えた香港には、九龍城砦もビル群に飛び込むジェット機も無かった。その後何度か訪れたがその都度街の気配を少しずつ変え、前回などは空港にデカデカと「一帯一路」のスローガンがかけられ、もはや香港が香港ではなく中国の一部なのだと認識せずにはいられなかった。三年前のことである。

以来私の中の香港は、もはや実在ではなくノスタルジックな一つの幻想となってしまった……。

 

なんちゃって。

ちょっと叙情的になってしまった今回、香港返還の年に公開された『メイド・イン・ホンコン』という青春映画の感想を書きたい。

 

この作品は、中学を中退しヤクザの手先として借金の取り立てをするチンピラの少年チャウ、チャウの弟分で知的障害を持つが故に迫害を受けるロン、取り立て先で出会った少女ペンの3人の友情を、底辺層の若者の苦悩や返還直前の香港の喧噪とともに描いた瑞々しい青春映画である。

フルーツチャン監督ら5人の製作陣が作り上げた低予算の映画であり、そのチープさや抑えの効かない映像効果のおかげか、不思議な浮遊感と当時の香港の生々しさを同時に感じさせてくれる映画だ。

父親は他所で女を囲い、母親も家出という悲惨な家庭環境にあるチャウは、チンピラだが弟分のロンの世話を焼いたりするような心根だけは曲がっていない少年である。そんなチャウだが、ペンが実は腎臓の病で余命の少ないことを知り、彼女を助ける金を手に入れるため、ヤクザの殺しの仕事に手を染めようと決意する。

悲惨な境遇にもかかわらず、笑って恋して友情を育む少年少女の、ひりひりとした叫び、喜び、悲しみが胸を打つ名作。

今だからこそ、ぜひ。

余談だが、主演のサム・リーは、その後日本の実写映画『ピンポン』でチャイナ役を演じているぞ。

本作がデビューであるサムの私服をそのまま使用したチャウのファッションがすごく90年代の香港的で(?)オシャレなので、透明感のある映像美と合わせてそちらも要チェック。

 

返還当時の香港を知りたい方は、このルポもおススメ。当時の香港に暮らして書いただけあり、返還を控えた人々の生活や心情がよくわかって面白い。

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

 

 

 

【アニメ紹介】『パンスト』愛すべきアメリカン風おバカコメディ

私は子供の頃テレビで『オースティンパワーズ』をみてあまりの下品さに驚いた思い出がある。それと同時に、アメリカのコメディのあまりの明け透けさに一種の異文化への憧憬のようなものを覚えたのも確かである。

子供の頃のそんなお下品でおバカで飾らない底抜けなら明るい作品を思い出させてくれるのが、この『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』である。

 

あらすじ

天使のパンティとストッキングの姉妹は、日々の悪行からとうとう天国から堕天してしまう。神父の姿をした天使ガーターベルトの指示のもと、地上のダテンシティで悪魔を倒して、天に戻ることができるコインを集める。

 

可愛いキャラと下品なストーリー

本作はカートゥーンを意識して作られているが歴とした日本のアニメである。

キャラクターはパワーパフガールズのような愛らしい姿だがその性格は中々に強烈。姉のパンティはまさにアメリカンな美人のパツキンギャルだが、どうしようもない男好きのビッチ。毎回いい男を見つけては物陰にしけこむという深夜アニメにしても中々のどぎつい描写が多いキャラである。妹のストッキングは黒髪ロングのゴスロリ少女、甘いものが大好きで男の趣味は悪いし口も悪い。チャーリーズエンジェルのチャーリーよろしく彼女たちに指示を出すアフリカ系の神父さんガーターは、ガチムチのゲイ。

ハッピーツリーフレンズのような、はたまたスポンジボブのようなアメリカンなデフォルメがされたペットのチャックは、なんの生物かもよくわからない。

パンティに首ったけのギーク(所謂オタクでアメリカのスクールカーストの最下層民)のブリーフや、2人を邪魔するデイモン姉妹などの癖があって魅力的なキャラクターたちが揃う本作。

時にはメインテーマに、もしくは無駄な背景に、あるいは不必要なのに無理やりねじ込まれた下ネタの数々がいちばんの特徴といっても過言ではない。

なにせ主人公の2人は自分のパンツとストッキングを銃にして戦うのである。

下ネタ耐性の低い人は必ずや不快になるだろう。逆に下ネタ耐性が高い下ネタ大好きマンは大いに楽しめるので、好きなアニメ談義の時にこの作品を上げる奴には要注意だ。

ちなみに下品はこの作品に対しては褒め言葉なので。

 

本気の悪ふざけを目に焼き付ける

無駄にハイクオリティな作画、わかる人にしかわからない凝った洋画パロディ、放送スレスレのノリなど、技術のある集団が本気で悪ふざけをしたらどうなるかの見本のような作品である。

特に悪魔がやられるときの爆破シーン(ここだけご丁寧に実写)には、よくわからないふざけの美学まで感じられる。

 

なんやかやかっこいい、音楽とか

下ネタがなんだいってもクオリティは確かであり、突き抜けて一周回ってかっこいい作品だ。

特にm-floの手がける音楽は文句なしで、エモーショナルなDTM『Fallen Angel』や劇中歌である『CHOCOLAT』は曲単体としてもクオリティが高い。特にロックナンバー『D City Rock - TeddyLoidfeat. Debra Zeer』は映像と合わせて見てほしい。ビートルズ、オアシスなどロックファンならにやりとするオマージュでいっぱいで楽しい、そしてかっこいい!

 

まとめ

玄人が全力でふざけた一作。

クオリティが大変高いのは間違いないが!本当に親しい人以外に勧めてはいけないだろう。相手のあなたに対する人間像に多大な影響を与えること間違いないからである。仲が良くあなたのことを良く知る友人家族にだけ、そっとオススメしてみよう!

 

もちろん、私は大変楽しめましたよ★