【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 前編 - エウレカの憂鬱
前編のつづき
4.百鬼丸は鬼か桃太郎か
少し戻るが百鬼丸が捨てられた理由を、もう少し時代を遡って考えてみよう。
百鬼丸は手足も目鼻もない不具の体であり、これは一種の異常出生である。
日本の習俗では異常出生の赤子を鬼子、と呼び忌避するというものがある。
例えば、酒呑童子は一説によると八岐大蛇と人間の娘の子供ともされているし、舎弟である茨木童子なども生まれたときは異常に大きく歯が生えそろっていたという。どちらも異常な出生である。
江戸時代の怪談本などでも異常出産の末、人を喰らう鬼子が生まれたので殺害したという恐ろしい話もある。
鬼などという恐ろしいものが普通に生まれるわけがないという鬼の脅威を示すためのツールである異常な出生譚が、いつしか逆転し生まれが異常な赤子は鬼になるとされたと推察される。
ゆえに百鬼丸は鬼子と判断されて捨てられ流されたとも考えられるのである。
実際、歯が生えた状態で生まれた子や誰にも似ていない子など鬼子と呼ばれ、一度辻に捨ててからまた拾う、他所に養子にするなどという習俗が近代まで残っていた。一度捨てられ再び拾われることでその子供は集落の一員、つまり人として認められるのである。
つまり百鬼丸を鬼子と考えると、寿海に拾われた時点で、その鬼としての性質は無くなったとも言えるかもしれない。
異常な出生が皆鬼になるかというとそういうわけではなく、逆に英雄となる話も多い。
読んで字のごとく異常出生譚というものは、善悪関係なく生まれの異常がそのものの霊性の証として機能している場合が多いのである。
例えば桃から生まれた桃太郎、身の丈一寸の一寸法師などが分かりやすい例だろうか。これらの物語では異常出生の子供たちの立身出世が語られる。
民俗学者の柳田國男はこれら異常出生の子を「小さ子」と定義し、その著書『桃太郎の誕生』の中で、水神・海神とのつながりを示している。海洋国家にして農耕文化の日本では海や水の神様がとても重要な位置を占めていたであろうことは想像に難くなく、そういった神様の加護が裕福さや安泰に直結していたと考えられる。
醍醐家から見れば「鬼」の子であった百鬼丸は、寿海の目線で見ると川上という神域から流れて授けられた「桃太郎」つまり霊的な子供「小さ子」に映る。
ちなみに川上をなぜ神域と述べたかの補足をしておくと、三途の川の例を見るように川は彼岸と此岸の境界と考えられていたからである。
また2019年版アニメの描写において、寿海が転んで百鬼丸を見つけた河岸の道にお地蔵様があったことからあの場が土地の上でも村境(彼岸=外と此岸=村)であると明示されており、百鬼丸があの世から再びこの世に流れ着いたことを示唆していると思われる。集落の境を守る塞の神がこの場合地蔵尊(賽の河原から子供を救う存在)であるのは、寿海がお地蔵様の導きで百鬼丸と巡り合ったというようにも受け取れる。
捨てられた子が水域を下り流れ着き、結果的にその土地の人に福をもたらす構造は、流された貴い神様が水の神あるいは福の神として海から戻るという恵比寿神のモチーフとも不思議と合致する。
昔話には浦島太郎の亀や桃太郎の犬猿雉のように助けた人間を導いてくれる動物が主軸の『動物恩報譚』というものがあるが、どろろは自分を助けてくれた百鬼丸を導く動物なんじゃないかと言ったら怒られるだろうか。
5.まとめ
冒頭でも述べたが手塚治虫(もしかしたら新アニメ製作陣も)はもちろんこれらのモチーフについて意識的に使用していたと思われる。その上でそのモチーフに逆説的な意味付けをすることで意外性とドラマ性を演出したのである。
百鬼丸の異常出生の原因は、父親である醍醐景光の野望のせいとなっている。
中世の説経節『弱法師』で父母の前世の罪と傲慢のせいで盲目の病者となったしんとく丸同様、他者の業を背負わされた百鬼丸であるが、彼は自らの仮の手足を持って自身の体の奪還を行なっている。
説経節では神仏への信心と功徳が救済の条件とされてきたが、百鬼丸はより能動的に、自らの意志と力をもって鬼神を殺害することによって目的を達している。ここにどろろという物語の肝があると思っている。
中世を舞台としながらも、百鬼丸の生い立ちや行動に見えるのは、敗戦というどん底から高度経済成長期を突き進む清濁併せ持った近現代のメンタリティのヒーロー像である。それは孤児でありながらも力強くしたたかに生きるどろろの姿とも重なる。
時折冷や水を浴びせるようにリアリスティックな視線が見え隠れし、物語が単純な善悪で語られるものではないことを言外に告げている。
2019年版アニメでは更なる解釈として百鬼丸が体を取り戻すたびに、醍醐の領地に災害が起こるという描写がなされている。もはやリアルを通り越してニヒリスティックであるとさえ思えるこの設定は、もしかしたら神仏も正義も大義も寄る辺となりえず、割り切れないまま生きるしかない今の時代を表しているのかもしれない。
いくら百鬼丸が好きとはいえ、時間割きすぎてしまった。
次回の記事で紹介しきれなかったものを足早に紹介しようと思う。