エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 後編

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 前編 - エウレカの憂鬱

前編のつづき

 

4.百鬼丸は鬼か桃太郎か

少し戻るが百鬼丸が捨てられた理由を、もう少し時代を遡って考えてみよう。

百鬼丸は手足も目鼻もない不具の体であり、これは一種の異常出生である。

日本の習俗では異常出生の赤子を鬼子、と呼び忌避するというものがある。

例えば、酒呑童子は一説によると八岐大蛇と人間の娘の子供ともされているし、舎弟である茨木童子なども生まれたときは異常に大きく歯が生えそろっていたという。どちらも異常な出生である。

江戸時代の怪談本などでも異常出産の末、人を喰らう鬼子が生まれたので殺害したという恐ろしい話もある。

鬼などという恐ろしいものが普通に生まれるわけがないという鬼の脅威を示すためのツールである異常な出生譚が、いつしか逆転し生まれが異常な赤子は鬼になるとされたと推察される。

ゆえに百鬼丸は鬼子と判断されて捨てられ流されたとも考えられるのである。

実際、歯が生えた状態で生まれた子や誰にも似ていない子など鬼子と呼ばれ、一度辻に捨ててからまた拾う、他所に養子にするなどという習俗が近代まで残っていた。一度捨てられ再び拾われることでその子供は集落の一員、つまり人として認められるのである。

つまり百鬼丸を鬼子と考えると、寿海に拾われた時点で、その鬼としての性質は無くなったとも言えるかもしれない。

 

異常な出生が皆鬼になるかというとそういうわけではなく、逆に英雄となる話も多い。

読んで字のごとく異常出生譚というものは、善悪関係なく生まれの異常がそのものの霊性の証として機能している場合が多いのである。

例えば桃から生まれた桃太郎、身の丈一寸の一寸法師などが分かりやすい例だろうか。これらの物語では異常出生の子供たちの立身出世が語られる。

民俗学者柳田國男はこれら異常出生の子を「小さ子」と定義し、その著書『桃太郎の誕生』の中で、水神・海神とのつながりを示している。海洋国家にして農耕文化の日本では海や水の神様がとても重要な位置を占めていたであろうことは想像に難くなく、そういった神様の加護が裕福さや安泰に直結していたと考えられる。

醍醐家から見れば「鬼」の子であった百鬼丸は、寿海の目線で見ると川上という神域から流れて授けられた「桃太郎」つまり霊的な子供「小さ子」に映る。

ちなみに川上をなぜ神域と述べたかの補足をしておくと、三途の川の例を見るように川は彼岸と此岸の境界と考えられていたからである。

また2019年版アニメの描写において、寿海が転んで百鬼丸を見つけた河岸の道にお地蔵様があったことからあの場が土地の上でも村境(彼岸=外と此岸=村)であると明示されており、百鬼丸があの世から再びこの世に流れ着いたことを示唆していると思われる。集落の境を守る塞の神がこの場合地蔵尊(賽の河原から子供を救う存在)であるのは、寿海がお地蔵様の導きで百鬼丸と巡り合ったというようにも受け取れる。

 

捨てられた子が水域を下り流れ着き、結果的にその土地の人に福をもたらす構造は、流された貴い神様が水の神あるいは福の神として海から戻るという恵比寿神のモチーフとも不思議と合致する。

ところで百鬼丸が桃太郎だとしたら、どろろは何になるだろう。

昔話には浦島太郎の亀や桃太郎の犬猿雉のように助けた人間を導いてくれる動物が主軸の『動物恩報譚』というものがあるが、どろろは自分を助けてくれた百鬼丸を導く動物なんじゃないかと言ったら怒られるだろうか。

 

5.まとめ

冒頭でも述べたが手塚治虫(もしかしたら新アニメ製作陣も)はもちろんこれらのモチーフについて意識的に使用していたと思われる。その上でそのモチーフに逆説的な意味付けをすることで意外性とドラマ性を演出したのである。

百鬼丸の異常出生の原因は、父親である醍醐景光の野望のせいとなっている。

中世の説経節『弱法師』で父母の前世の罪と傲慢のせいで盲目の病者となったしんとく丸同様、他者の業を背負わされた百鬼丸であるが、彼は自らの仮の手足を持って自身の体の奪還を行なっている。

説経節では神仏への信心と功徳が救済の条件とされてきたが、百鬼丸はより能動的に、自らの意志と力をもって鬼神を殺害することによって目的を達している。ここにどろろという物語の肝があると思っている。

中世を舞台としながらも、百鬼丸の生い立ちや行動に見えるのは、敗戦というどん底から高度経済成長期を突き進む清濁併せ持った近現代のメンタリティのヒーロー像である。それは孤児でありながらも力強くしたたかに生きるどろろの姿とも重なる。

時折冷や水を浴びせるようにリアリスティックな視線が見え隠れし、物語が単純な善悪で語られるものではないことを言外に告げている。

 

2019年版アニメでは更なる解釈として百鬼丸が体を取り戻すたびに、醍醐の領地に災害が起こるという描写がなされている。もはやリアルを通り越してニヒリスティックであるとさえ思えるこの設定は、もしかしたら神仏も正義も大義も寄る辺となりえず、割り切れないまま生きるしかない今の時代を表しているのかもしれない。

 

いくら百鬼丸が好きとはいえ、時間割きすぎてしまった。

次回の記事で紹介しきれなかったものを足早に紹介しようと思う。

 

 

 



 

 

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 前編

ちょっと論文ぽいタイトルを気取ってみたが、内容はまあまあ薄味であると先に言っておく。どのくらいかというとカルピスを10倍の水で薄めたくらいでございますのでそこんとこよろしくおねがいします。

 

1.あらすじ

2.流された英雄、百鬼丸

3.百鬼丸のモデルは恵比寿様?

4.百鬼丸は鬼か桃太郎か

5.まとめ

 

 

今回は『どろろ』のアニメから読み解くことができる民俗学的な背景をふんわりと考えてみようと思う。

どろろという作品は、他の手塚作品同様、日本のあらゆる伝承や民話、土着信仰に対する深い造詣で溢れている。

昔話や伝承をいくつも読み進めていくと、同じようなモチーフが繰り返されていることに気づく。日本でそれらを体系化したのは柳田國男折口信夫ら明治期の学者であり、体系化されることで民俗学という学問ジャンルが生じたことは言うに及ばないが、学問として分析されるようになったのちもあらゆる物語がここで分析される系譜に追随しているという事実は、民話や伝承の中に息づくモチーフが大変強い魅了を持っていたからに他ならないだろう。

漫画の神さま手塚治虫は、これらモチーフを意識的に踏襲、あるいは逆説的に使用することによって彼の作品に普遍的な深みを与えているのである。

深い考察は各個人に委ねるとして、ここからは私見をまじえて簡単に例を挙げてみたい。

 

1.あらすじ

この物語の主人公である百鬼丸は、父親である領主の醍醐景光と鬼神との契約の生贄として、目耳鼻や四肢など体のあらゆる部分を奪われた不具の状態で産まれた少年である。それ故に彼は産まれてすぐ川に流されたが、寿海という親切な医者に拾われ一命を取り留める。寿海に義肢をつけてもらった百鬼丸は自身の体を鬼神から取り戻す旅へと出る。というのがこの物語の起こりである。

 

2.流された英雄・百鬼丸

百鬼丸の身の上はまさにお手本のような貴種流離譚となっている。

貴種流離譚とは、読んでそのまま高貴な生まれの人あるいは神が、何かの因果で卑賤の身となり、流浪の旅の末に再びその地位を取り戻し幸せになるという、民俗学者折口信夫が提唱したいわば文芸のセオリーのひとつである。昔話の『鉢かつぎ』、源義経の幼少期の物語とされる『牛若丸』や日本最初のハーレークインもとい長編小説『源氏物語』、能の『山椒大夫』など、このセオリーを踏襲しているものは枚挙にいとまがない。

百鬼丸においてはこの何かの因果というのが、父親と鬼神との契約に当たる。

 百鬼丸の物語は貴種流離譚をベースに更なるモチーフを幾重にも重ねて形作られている。

 

3.百鬼丸のモデルは恵比寿様?

冒頭で川に捨てられる百鬼丸の最も判りやすいモチーフは、記紀神話の国生みのくだりでイザナギイザナミ2柱の最初の子として登場するヒルコ神だろうか。

この神は国生みの際女神から声をかけたため、不具の子として生まれたとされる。また日本書紀では3歳まで足が立たなかったため樫の舟で流してしまったといわれる神様である。

百鬼丸が四肢を失った不具の体で生まれ、それ故に流されたという点からヒルコ神をモチーフとしていると言って間違いないだろう。

ヒルコは蛭子と書き、蛭子はエビスとも読むことが出来る。

実は流されたのち記紀からその記述が消えてしまったヒルコ神であるが、この神を乗せた舟が着いたとする伝説は各地にありヒルコ神を祭神とする神社は多い。室町期頃より海神(=水の神)である恵比寿(戎・夷)様と習合し、流されてしまった蛭子神が海神あるいは福の神となって戻ってきたという物語が出来上がったと考えられている。また海辺に流れ着いた漂着物のことをエビスと呼び習わすことが海辺の民俗で頻出することからもその繋がりが見て取れる。

さて小舟で流された百鬼丸。彼もまた下流で寿海という医者に命を救われる。

寿海の呪術?で仮ではあるが体を与えられた百鬼丸は息子のように可愛がられ立派な少年に育つ。

一度は流されてしまうも、流れ着いた先で再び立派な神様として祀られるヒルコ神の姿と重なるようである。  

 

後編へつづく

【アニメ考察】『どろろ』と民俗学的モチーフ 後編 - エウレカの憂鬱

 

 

 



 

【アニメ感想】『どろろ』古橋監督なら間違いない!

漫画の実写化と往年の名作のリブートには期待しない事にしている。その理由はこんな末端のブログまでお読みになる諸氏には言わずとも伝わることと思う。

 

さて、2018年秋、手塚治虫の未完の名作『どろろ』がリブートすることを知った。個人的には『火の鳥』、『キリヒト讃歌』と並んで好きな手塚作品であるため、嬉しさ反面、封神を始めとするほかのリブート作品と同様にまた失敗するのではという不安がよぎった。好きな作品が駄作にされることほど悔しいものはない。

 

だが、その不安はスタッフロールを見てすぐに消されることになる。

監督の欄に古橋一浩という名前を見たからだった。

古橋監督の代表作といえばアニメ『るろうに剣心』、またそのOVAである『追憶編・星霜編』、1999年版アニメ『ハンター×ハンター(〜ヨークシン編)』、『ガンダムUC』などであり、一見手堅く派手さはないもの、実は細部までこだわり尽くされたクオリティの高い作品を作ることで定評のある監督である。

 

戦国という血生臭い時代を舞台とした時代劇でもある本作。戦場等の無残な描写に加え、主人公は父親と鬼神たちの契約によって四肢や眼球などのあらゆる体のパーツを奪われ産まれてきた少年となっており、欠損表現や差別表現、残酷な表現が難しい近年のアニメ界での再現は厳しい作品のひとつと言えるだろう。かといって中途ハンパな日和った描き方をすれば、作品のテーマがぼやけたり、そのおどろおどろしい雰囲気を損なって白けてしまう。

その点で言えば古橋監督には、『るろうに剣心』という剣客ものの時代劇の前例がある。とくに規制の緩むOVA版『追憶編』においては、幕末の動乱における血で血を洗う斬り合いシーンを、その職人のようなリアルで細やかなコンテと演出の緩急で、生々しく見事なドラマに仕上げている。欠損した両手に仕込んだ刀で敵を薙ぎ払いながら戦うどろろの主人公百鬼丸の殺陣に関しても期待大である。

 

また、古橋監督は世界観の構築がとてつもなく上手い。

世界観が完成されているということはつまり視聴者をのめり込ませることができるということで、逆を言うと視聴者に違和感を持たれないようにしなければいけないということだ。

ハンター×ハンター』などを見るに、物語を盛り上げる自然なBGM、身体の動き(例えば戦闘中の重心移動など)、心の動き、緊張と緩和のさじ加減、または台詞の取捨や追加による違和感の徹底的な排除がなされていることが分かる。わかるというか、そういった部分に意識が向かないように細部まで作り込まれているといったほうが正しいかもしれない。

もちろん原作付きのアニメであるがゆえ、ハンターにしてもるろ剣にしても、原作との相違を非難する声は必ずあるものだ。かくいうわたしも星霜編のあの結末は原作およびテレビアニメとのあまりの雰囲気の違いから、るろうに剣心というコンテンツの延長として考えるならばファンとしては受け入れがたいものだと思っている。ただし、コミカルさや少年漫画的な希望にも溢れた原作とひとまず切り離し、緋村剣心というひとりの人物の生に真摯に焦点を当てた独立した物語として見るならば、この追憶編と星霜編に関しては名作と言わざるを得ないのもまた事実で、見ればやはりその卓越したドラマに心を揺さぶられてしまう。

 

多くのアニメ化や実写化、リブート作品で起こる炎上の一番の理由は原作との相違であることに疑う余地はないが、その背景には原作へのリスペクトの低さを感じとってしまうが故の反感があるのではないかと思っている。

文句を言いたい原作ファンの気持ちもわからないでもないが、漫画からアニメという媒体に変わることによって乖離は必ず生まれるものである。ならば一度、作品にとって最も重要なテーマや骨子の部分を残しそれを中心として再構築しようという、ある種最も作品理解が必要な、労力のいるしち面倒くさい古橋監督の手法は、実は最もリスペクトに基づく誠実な表現方法であるようにわたしには思われる。

 

今回の『どろろ』のリブートにしてもその手法は遺憾無く発揮されている。

最も顕著なのが百鬼丸の表現である。

原作および最初のアニメ化、そして2011年の実写化でも声帯、視力、聴力全て奪われた百鬼丸は、超常的な力によって物を見聞きし会話をしていた。それが今回は超常的な力が生命体の存在を炎のように第六感で感知するという最小限にとどめられている。百鬼丸は盲聾唖の三重苦状態であり、現在の3話に至るまで一言も発せず、また付きまとってくるどろろの言葉も聞こえないのでコミュニケーションがほぼ出来得ない状態である。鬼神に身体を奪われたということはどういうことか、なぜ身体を取り戻す必要があるのかに説得力を持たせた結果の設定なのだろう。

クールでニヒリスティック、もともと結構よく喋るかっこいい兄貴が見れないのは残念であるが、新しい百鬼丸像としては実に挑戦的だし同時に考えうる可能性として納得できるものである。百鬼丸が視力や聴力を取り戻した時はどれほどのドラマがあるのか、胸熱である。

百鬼丸の義肢についても作り物であることが強調されている。1話に至っては歩き姿のわずかな違和感まで再現されており舌を巻いた。こだわりすぎw

腕の刀はひじが曲がる際刀身の根元(本来柄となる所謂茎の部分)が突き出る構造になっており細部へのこだわりにも物語の方向性が滲み出ている。

皮膚がない百鬼丸の設定から登場時は面をかぶっているが、作り物感をしっかり出し異質さを演出するという意味でも今回のキャラクターデザインである浅田弘幸の絵柄(美しい!)が十二分に生きている。デザインを一新したのは現代受けするためには必要であるとはいえ、ただ綺麗になっただけではなくそれをしっかり物語の仕組みの一つとして活用しているのはうまいものだ。

どろろの描写は、百鬼丸に比べれば特出しているとはいえないが、悪童としてしっかり描かれているのは好感である。

1話でどろろが騙した親方以下数人は、おそらく荷運びの仕事をしていたと思われる。荷物を大事に扱ったり、最初は窃盗をしたどろろに対してある程度の折檻(戦国時代が舞台の本作に、子供への暴力は間違っているという現代の価値観を持ち出すのは愚の骨頂なので悪しからず)でことを収めようとしたところを見るにそこまで極悪だと思えないが、どろろは躊躇なく石礫をぶつけ親方の片目を潰している。

ここで重要なのはどろろが躾のなっていない悪童ということではなく、躾けて庇護してくれる存在がいなかったという背景の説明にもなっている。これは前シーンで百鬼丸に助けられた子供が、母親に言われ礼を言う部分との対比からも明確だ。

一人で生きてきたどろろ百鬼丸と出会うことで他人に対する思いやりや愛情や信頼を取り戻していくことが物語の一つのテーマになるであろうと自然に想像できるようなスムーズな流れとなっている。

このような細かい脚本や演出ひとつひとつに、古橋監督やシリーズ構成の小林靖子などの製作陣がいかに丁寧にこのどろろのリブートに着手しようとしているかが滲み出ている。

 

どろろの声を演じるのは、子役の鈴木梨央。わたしは子どもらしい素朴な質感のあるぴったりな声だと思ったが、ネットを見るに様々な意見があるようだ。

ちなみに声優の起用に際して、過去の古橋監督作品で知名度ではなくそのキャラクターに合うかどうかという一点に焦点が当てられて選ばれている印象がある。るろ剣における剣心役に宝塚の男役であった涼風真世を起用したのを始め、あまり声優声優していない声質がナチュラルな人かベテランを使うイメージである。

百鬼丸に関しては3話時点で未だ一言も発していない。舞台ありきの配役だったのだと思うが、そういった意味ではどのような演技になるのか楽しみだ。

 

墨絵に着色したという幽玄な美術や、背景に徹することが出来るクオリティの高いBGMなどなど、製作陣の力量はどこをとっても高い水準で、どのような演出や脚本にも対応できそうだし、もはや心配する部分が思いつかないくらいである。

歌詞は意味不明だがサビのギターのメロがかっこいい、ミスマッチの妙が光るオープニング。

切ない歌詞が美しい浅田絵と交差するエンディングは、和と今風のサウンドが融合したアレンジが素晴らしい(最後の百鬼丸の笑顔を見たいがために毎回見てしまう!)。

 

なんだか、絶賛一辺倒になってしまった。古橋監督のファンや、実写版どろろまで含めてどろろという作品が好きな人間(つまり私だ!)にはたまらないアニメであるのは間違いない。

うまく現代向けにアレンジしつつもけして現代の流行りには迎合しない硬派な作風、好感しかない。

 

憂鬱な月曜がこんなに楽しみになったのは、おそ松さん以来なので、しばらくはブルーマンデーとは無縁の生活ができそうである。

 

以上、敬称略

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【雑記】一枚絵の魅力

絵のある漫画は名作だ。

漫画は絵で出来てるんだから当たり前だ、と言われるだろう。

 

ここでいう絵とは印象的に考え抜かれて構図で絵画のそれのように一枚でドラマを描き切る、「絵になるねえ」の絵である。

 

コマとその行間には常に時間が流れている漫画という媒体においても、その瞬間だけまるでシャッターを押したかのように止まることがある。

漫画が一枚の写真あるいは絵画となる瞬間、ことエピソードの帰結としてその一枚の絵に物語が収束する美しさ。

これは漫画の大きな魅力である。

また、一枚絵を意識して描かれた漫画のエピソードは印象深く読者の意識に刻まれる。

 

何作か例を挙げてみよう。

まず、最初に触れなければならないのは『ONE PIECE』だろう。

作者の尾田栄一郎は、象徴的な一枚絵が大変上手な漫画家である。

断頭台の海賊王のスピーチ、ドラム王国の折れない旗、雪国のピンクの桜、仲間の印のばつ印等印象的なシーンは数あるが、なかでも一番わかりやすいのは、空島編のラストである。

 

空島編の流れをかいつまんで見てみよう。

主人公たちが海で超巨大な怪物の影を見る、空から船が落ちてきて空の上に羅針盤の指針を奪われる(物語世界では、この指針通りにしか進めないのだ)→

空の上へ行く方法を探すため近くの島に降りるがそこでは、空の上の空島なんて夢物語だと馬鹿にされ笑われる→

嘘つきと呼ばれた先祖の汚名を背負って、先祖が見つけたと嘯いた黄金郷を探すおっさんと出会う→

おっさんの協力で無事空島に登った一行は、空の上の冒険(ストーリーのメイン)の果てに、おっさんの探していた黄金郷が実は空島にあったという事実を突き止める

このエピソードのラストに描かれるのが、巨大な主人公ルフィの影を空の中に見るおっさんの一枚絵である。

 

物語の頭で出てきた巨大な怪物が、天空の人間の大きな影法師という説があるというおっさんの解説と、黄金郷にあったとされる鐘の音が鳴り響く擬音、黄金郷は実は空にあったということが描かれたその一枚絵、このエピソードのすべての線がこの一枚の絵という一点に帰結する構成は見事である。

ONE PIECEにおける一枚絵の役割は、古典芸能である歌舞伎の見栄の系譜であると考えられる。これは物語のハイライトを印象的な構図で静止することで印象付ける、つまり物語に流れる時間をストップし、観るものを一度立ち止まらせる効果があるのである。現に歌舞伎の見栄のシーンはそのまま浮世絵の題材とされている。(これ以外にもONE PIECEと歌舞伎の繋がりは多く、また別の機会に考察したい)

視線を静止させることで物語に対する印象を強く残すことになるという仕掛けの上に、作者特有のクリエイティブな構図があるからこその芸当であり、ここでエンターテイメントに大切なカタルシスを与えるための段取り、展開を重ねてきたストーリーテリングの技量が確かであるからこそであるとはいえ、一枚絵の使い方という点においては、この作者に並ぶものはいないであろうと個人的には思っている。

 

最近の作品でわたしが上手いなぁと思ったのは、このブログでもあげたことがあるが、大今良時の『不滅のあなたへ』である。

この作品の第1部は、氷の大地に飼い狼のジョアン(作品を通した主役であるフシという生物が擬態している)とひとりぼっちで暮らす生き残りの少年が主人公である。彼は楽園に行くことを夢見ているが、何度目かの探査で負った怪我が元で瀕死の重体となる。

このエピソードのラストの一枚絵は、自分の死期を悟った少年が、最後の力で椅子に座し孤独のまま息をひきとるその横で、今度は少年に擬態したジョアン(フシ)が前へと歩き出すシーンである。背景はなく真っ白な空間の中人物だけが描かれている。

生と死、静と動、ついに楽園へと行くことができなかった少年とその無念を背負うように立った少年姿のフシというあらゆる対比が象徴的なこのシーンは、個人的に最も美しいと思う一枚絵のひとつである。

この不滅のあなたへでは、他にも、グーグーとリーンの告白シーンや、囚われたボンとトドの影法師など印象的な一枚絵がある。逆にいうとこの作品では一枚絵のないエピソード(ジャナンダ編とか)は印象がやや薄く、やはりストーリーの面白さの他に一枚絵による緩急のリズムというものが、いかに印象の差を与えるかを表していると言える。

 

天野こずえは『AQUA』、『ARIA』の各エピソードにおいて、実に絵画的な美しい一枚絵を描いている。

ストーリーの帰結としてカタルシスを存分に感じさせるギミック的な要素も強い『ONE PIECE』の一枚絵に対して、日常ものでもあるこの『ARIA』では、より感覚的で絵画的な要素が強い。主人公の灯里の心に響いたもっとも美しい瞬間を切り取ったのがこの作品の一枚絵の特徴である。

この作品は映像作品からのオマージュも見受けられ、「お天気雨」における狐の嫁入り行列が一斉に振り向くのは黒澤明監督『夢』第1話の「日照り雨」のオマージュであるし、『ネバーランド』における飛び込みシーンは、かつてのポカリスエットのCM(BGMはセンチメンタルバスのsunnyday sunday)のオマージュである。どちらも大好きな映像作品だったためARIAを見てにやりとしたのはここだけの内緒だ。

「猫の王国」で旧植民地跡での迷宮の水路を彷徨った末に出逢った猫たちの集会シーン、「水没の街」での真夜中のきんと澄んだ空気と街灯揺らめく水面の情景、「希望の丘」の夕暮れの風が草を撫でる気持ちの良い風車の丘。季節の色や匂い、空気感まで伝わるような一枚絵は、読者に惑星アクアの生活を疑似体験させるのみならず、灯里ちゃんの感動と幸福感までも感じさせてくれる。

 

バスケ漫画の金字塔、井上雄彦の名作、『SLAM DUNK』で王者山王工業との死闘で最後の力を振り絞って逆転を目指す湘北。流川から桜木へのパスからのブザービーター。そして訪れる桜木と流川のハイタッチのその瞬間の一枚絵は多くの人が知るところだろう。

バスケ初心者桜木と天才プレイヤーの流川は、作品を通して犬猿の仲でありいがみ合ってきた。その二人のはじめての信頼、協力、バスケを通して互いを認め合った瞬間を描いたのが、このハイタッチの一枚絵である。

物語が積み重ねた時間、湘北高校バスケ部が必死に食らいついて最後まで全身全霊を込めて戦った勝利への執念、漫画を読み続けた者にだけ分かる言葉に出来ない数々の熱い思いが、その卓越した画力で描かれたセリフや音を一切排除した見開きの一枚絵から伝わってくる。

スラムダンクという漫画のすべて、1話からこの瞬間までの積み重ねがすべてこの一枚絵に収束し凝縮されている。

絵の力、漫画の力というものをまざまざと感じさせてくれる傑出した一枚である。

 

ここまで一枚絵の魅力を語らせていただいた訳であるが、

一枚絵が印象的ということは、構図の作り方や時間の切り取り方が上手い、つまり漫画のセンスが良いということである。漫画を判断するためのひとつの指標として十分だろう。

 

以上、一枚絵好きの独り言であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【漫画感想】『カクシゴト』パパの秘密のかくしごと

『カクシゴト』は『かってに改蔵』や『絶望先生』の久米田康二 の最新作である。

後藤可久士には娘の姫に重大な秘密を隠していた。それは自身が下ネタ漫画家、つまり"描く仕事"をしているということである。カクシゴトは可久士と天然娘の姫の周りで巻き起こる漫画家あるあると時事ネタをふんだんに盛りんだショートギャグである。

 

まず本屋で目に入ったのは鮮やかな青空が印象的なわたせせいぞう風の表紙であった(そういう意図せぬ出会いがあるという意味では本屋で紙の本を購入するのは意味深い)。ジャケ買いというのだろうか、買ってから調べるとどうやら絶望先生と同じ作者だというではないか。

この久米田康二との最初の出会いは高校で友人に借りたかってに改蔵であり、その頃下ネタ耐性ゼロだった私はすぐに苦手意識を持った。その後アニメ絶望先生のオープニングのかっこよさに痺れ単行本購入を試みるも、巻数が多過ぎていて無念の断念。

どうやら絶望先生が最終回を迎えたという噂を聞き、ネットで禁忌のネタバレをしてびっくり。わたしが普通のギャグ漫画と思っていた絶望先生、そしてかってに改蔵についても最終回で凄まじいどんでん返しがあったというのである。

ネタバレしか見ていなかったにもかかわらずこのどちらのネタバレ(あるいは伏線)に対しても鳥肌がたつほどびっくりした。これは予想できない。わたしはちゃんとストーリー追ってこの壮絶どんでん返しを体感したかったと、改めてネタバレの業を思い知ったのであった。

そこから久米田康二の印象は、下ネタ時事ネタと美少女が得意なギャグ漫画家→ものすごい構成力を持ったギャグ漫画家に変わった。

そんな作者の新作カクシゴトでも、冒頭カラーページから伏線の予感でいっぱいである。まるで一枚絵のような美しいカラーページでは高校生になった姫が父親の秘密を知るというアフターストーリーが語られるのだが、ここでは可久士が漫画家を辞めている風であり、しかもその生死がわからない不穏な空気が漂っている。現行で6巻まで出ているが、その最初と最後にこのアフターストーリーが楽しい本編とは別に続いているのである。可久士の本当の秘密とはなんなのか、気になって仕方がない。

本編に関しては、下ネタはほぼなく、絶望先生から続く時事ネタは健在である。ただそれもエッセンス程度で、メインは漫画家あるあるネタと父娘のほっこりエピソードである。この漫画家ネタが実体験に基づいているのか結構面白く、漫画家業界や出版業界ことがよくわかる仕組みになっている。しかも毎回連載漫画風になっているなど小ネタも満載で楽しい。個人的に特に巻末コメントがツボである。

基本お気楽な作風の合間に、アフターストーリーに通じるような可久士の秘密が見え隠れしており読む手が止まらない。

可久士はどうなってしまったのか?

箱の秘密とは?

姫の母親の秘密とは?

楽しい本編と散りばめられた謎、洗練されたコマ割りと絵柄・綺麗なカラーページ、そして可久士と姫の癒しのエピソード。これらがふんだんに盛り込まれたカクシゴト。次巻が楽しみな一冊である。

 

 

 

 

【漫画紹介】『ハイスコアガール』我が愛しの90年代ノスタルジー

90年代があの頃の仲間入りをしたのはいつだったろうか。 

私の話になり恐縮だが、小学校から中学校時代を丸々過ごした90年代は、バブル崩壊阪神大震災オウム事件、雲仙の大噴火など暗い出来事ばかりが記憶に残る一方、アニメやゲームなどの表現分野では随分と恵まれた世代でもあったように思う。


近所の駄菓子屋にはストリートファイターⅡなんかの筐体があって、友達の家のゲームソフトではみんなで格闘ゲームや人生ゲームをやったものだ。

このハイスコアガールの舞台も、そんな90年代になる。


勉強も運動もイマイチで劣等生の烙印を押された主人公のハルオだが、アーケードゲームの腕にかけては「豪指のハルオ」と自負するほど唯一とも言える特技だった。ゲーセンのみが生き場所になっていたハルオだが、ある日馴染みのゲーセンで同級生の金持ち万能美少女大野に遭遇、得意のスト2で勝負するも大敗する。追い詰められたハルオはついには禁忌のハメ技を使って大野にキレられ殴られる始末。

そこからハルオと大野の因縁が始まる。

この物語は劣等生でゲームセンターだけが居場所のゲーム狂ハルオ、そして同じく家庭環境からゲームのみが心の安らぎだった大野、この二人の成長と淡い恋心を、小中高校を通して壮大なゲーム愛とともに描く青春ストーリーである。

 

●等身大の90年代描写

この作品は、90年代を知る者にとっては恐ろしくこそばゆい描写が随所に入れられている。

例えばマジ?という言葉をあの頃なぜかマジキ?と言っていた。死語としても残っていないレベルの存在すら忘れていたこの言葉だが、作中で見たときには当時の記憶を蘇らせ、懐かしいというより小恥ずかしい気分にさせられた。まるで小学校時代の自作ポエムを読んでしまったときのように。

ストツー、サムスピ、駄菓子屋に置かれた筐体、ポリゴン、スーファミからセガサターン、プレステと進化するゲーム機。

持っているゲーム機で格差が生まれた90年代。みんな誰かの家に行ってコントローラーを奪い合っていた思い出。

愛しさと切なさと心強さとが流行り、篠原涼子が吉本芸人ではないと知った衝撃(ダウンタウンのごっつええかんじというコント番組にレギュラー出演していたのだ!)。

ゴルビーJリーグ湾岸戦争クリントン大統領、プリント倶楽部(プリクラの初期形態)、たまごっち、そしてエヴァ。彼らの成長物語の隙間隙間に配置された当時の風俗によって、なんとも言えないノスタルジーを感じさせてくれるのがハイスコアガールの大きな魅力である。

ちなみに00年代以降の人が見るとどんな気分なのか興味がある。

 

●愛おしいキャラクターたち

ミスミソウ」の記事を書いたときにも言ったような気がするが、押切蓮介の絵は個性がものすごく強いもちろん漫画家として賞賛されるべきことであるが、好き嫌いが分かれるところでもある。そして慣れるまで時間はかかるかも知れないが、慣れたらクセになるタイプである。

ビジュアルもさることながらこの作者は内面描写に関しても手を抜かない。

ゲーム少女大野とハルオに恋する小春のとんでもない可愛さについてはすでにほかの方の記事で山のように描かれていると思うので、ここでは奇をてらって主人公ハルオの魅力を紹介したい。

ハルオはいわゆるゲーム好きのゲームオタクであり、中学以降では小春ちゃんと大野の二人の美女から想いを寄せられる羨ましい男である。

平凡なハルオがハーレム漫画のように女子にモテるのが疑問に思えるかもしれないが、ゲームなりアニメなりオタクという人々が今よりよほど肩身が狭かった時代、自分が良いと思うものをはっきりと良いと言えるその男らしさ、そして好きなものに打ち込む真摯さは十分に魅力的である。

しかもそれだけでなく、ハルオは自分に厳しく、人を思いやれる人なのだ。

大野と同じ学校へ行くためにゲームを封印できる根性。朝夜のバイトでちゃんとお金を稼いで家に入れたりする思春期にあるまじき素直な家族想い。

大野の息抜きのためにお手製ゲームを作ってあげたりする想いやり(そのくせに恋愛には疎いが)。しかも滅多に悪口を言わない。(作中きってのヒールである萌美先生に対しても、仕事で厳しくしているだけなのだと大人な理解を見せた)。

ゲームバカで心の機微に疎くて冴えないハルオだが、こういった漫画的な派手さはなくとも実際の人間にあって最大の魅力を描くことで大野と小春の想いに説得力を持たせている。


ハルオの成長を縦軸に物語が進んで行く本作品。たとえゲームと関係がない場面であっても、彼の心の中ではガイルをはじめ、沢山のゲームキャラクターたちが背中を押して相談に乗ってくれる。

ゲームを通して人間として成長していくハルオをいつのまにか応援したくなるそんな作品なのである。

 


●胸キュンの恋愛描写

もうこれは読んで体感してもらう他ないのだが、ハルオと大野のピュアなお互いを想う心、小春の健気な想いなど、恋愛漫画に必須の直接的な愛情表現を極力控えた恋愛描写が魅力である。せっかくのラッキースケベチャンスを無駄にするハルオに憤慨する読者もいるかもしれないが、むしろリアルでキュンキュンしてしまう。


●まずは1巻を読むべし

ハイスコアガール は9巻現在小学校から高校までのストーリーとなっている。その中で小学校編とも言える1巻は、一冊のみで考えると近年稀に見る完成度である。1巻のジュブナイルのようなノスタルジーと爽快感、最終話で覚えたなんとも言えない切なさはぜひ体験してほしい。

この漫画が合うかどうなのか1巻をみて判断すればいいだろう。

もちろん2巻からも面白いぞ。


ハイスコアガールはいいぞ

次回10巻で最終回を迎えるハイスコアガール 、今回も大変気になるヒキで続いており時間が狂おしいほど待ち遠しい!

現在アニメも絶賛放映中であり、実際のゲーム画面を使用した対戦シーンは大変見応えがある。大野も可愛い(ハルオの声とキャラデザとオープニングは個人的にイマイチ)。とはいえ一度やらかして流されたアニメ化なだけに感慨深い。

スト2をやった人も00年世代以降の人もこの機会にぜひ一度押切ワールドを体感してみてほしい。


ちなみに川崎のウェアハウスでは初代ストリートファイターを体感できるので興味があれば行ってみてはどうだろうか。ここは電脳九龍城といって建物自体がかつて香港にあった巨大スラム九龍城砦をものすごいクオリティで再現している。ゲーマーでなくても訪れて損はない場所であるというプチ情報で今回は締めるとする。

 

ハイスコアガール 好きさんにおススメ

でろでろ…押切先生の作風が気に入ったら是非読むべし。ホラーギャグ。

ピコピコ少年…押切作品の作風が気に入ったら是非読むべし。ハイスコアガール よりもさらにゲーム愛に溢れた同氏のエッセイマンガ。


押切漫画ばっかになった……。

ですます調を使わないのだんだんストレスになってきたゾ!

 

 

 

 

【アニメ紹介】世界を革命せよ『少女革命ウテナ』

1997年に放映され、華麗な少女漫画風の絵柄と前衛芸術的な手法を駆使した演出、どろどろの愛憎絡み合った心理描写、恣意的で哲学的でありながら謎めいたストーリーなど、アバンギャルドな作風で現在でもカルト的な人気を誇る本作。監督は美少女戦士セーラームーン幾原邦彦。企画は幾原や漫画家のさいとうちほらによって結成されたビーパパスである。

わたしも、放送当時は子供だったため綺麗な絵柄だが内容が意味不明という印象だったが、大人になって再度視聴してみると独特の味わい深さに唸ってしまった。

ということで今回は少女革命ウテナの見所を紹介してみる。

 


●概要

全寮制の鳳学園中学二年生の天上ウテナは、子供の頃王子様に救われた過去を持ち、それから王子様に憧れるあまり王子様になろうとしてしまった少女で、学生服に身を包み運動神経も男子顔負け、 女子たちの黄色い声援も浴びるというベルばらのオスカル顔負けの男装の麗人である。

そんなウテナはある日、学園の中庭にある薔薇園で、生徒会の西園寺と彼に頬をぶたれる姫宮アンシーを目撃する。実は西園寺の所属する生徒会の面々は、学園の裏の秘密の森で世界を革命する力と薔薇の花嫁であるアンシーを手にするための決闘を繰り広げていたのである。

ある日親友の若葉に対し、その想い人だった西園寺がした酷い仕打ちに怒ったウテナは、そうとは知らず西園寺に決闘を申し込んでしまう。

かくしてウテナは、世界を革命する力をかけた決闘へと巻き込まれていく。

 

見所①唯一無二の世界観

切り絵の飾り枠や薔薇の花、お城と王子様、古めかしい洋館風の学園、秘密の森、美しく謎めいた生徒会の面々、そして男装の麗人ウテナ

少女漫画的記号をこれでもかと散りばめた本作。

影絵による場面転換や、演劇的な台詞回し、唐突に現れる平面的な切り絵の薔薇などなど、その演出面は前衛的で寺山修司のアングラ演劇を連想させるものとなっている。

アニメーションであることを十二分に発揮したロマンチックで可憐な絵柄とアングラで前衛的な演出の妙が織りなす唯一無二の耽美な世界観は一見。


見所②深い心理描写

さいとうちほのデザインによる美形キャラクターたちが数多く登場する本作、外見もさることながら特筆すべきはその複雑な内面描写である。

近親相姦、同性愛、嫉妬、憧憬、野心……人間の内に秘めたあらゆる情念を実に繊細にそれでいて蠱惑的に描いた深いキャラクター造形も本作の魅力である。我々人間がそうであるように、登場人物たちの本心は彼らの言動とは別のところにある場合が多く、作品はそれを安直に示してはくれない。それが作品を難解にしているとも言えるが、だからこそ、その端々に垣間見れる本心を知った時、その人間らしさがいじらしく思えるのだ。

 

見所③荒ぶるシュールギャグ

こちらもタイトルや作品説明では想像がつかないであろうが、ウテナはギャグにも力が入れられている。

影絵少女のくすりとくるちょっとブラックな掛け合い、七実主役回の振り切ったシュールなギャグセンスなどシリアスの中にもしれっとギャグを挟み込んでくるのが恐ろしい。

きわめつけは暁夫と冬芽の謎のドライブパート。これは何度見てもツッコミを入れざるを得ないレベルのシュールさである。ちなみに作中にはツッコミはいないのであしからず。


見所④華麗な音楽

ウテナは音楽の面から見てもこだわって作られている。本作は天井桟敷万有引力などアングラ演劇界隈の重鎮、J.A.シーザー作曲の合唱曲を劇中歌として使用している。放送当時、視聴中やザッピング中に耳に入った「絶対運命黙示録」が頭の片隅に残っている人も多いだろう。

二期のエンディング「バーチャルスター発生学」のアレンジは、ギターのイントロやリフなどハードロックとして聞いても大変かっこいい。

劇伴を担当した光宗信吉は、華麗な映像にマッチしたエレガントな曲から、現代音楽のような怪しげで恐ろしげなもの、クールなジャズ風など色彩豊かなオーケストレーションで作品を彩っている。とくにアイキャッチの完成度が素晴らしい。

また、オープニングの「輪舞~Revolution」は、90年代アニソンの代表の一つといっても過言ではないだろう。間奏もかっこよくラストの転調のカタルシスが半端ないので、ぜひフルで聴いてほしい名曲である。


見所⑤謎を呼ぶストーリー

ウテナは全39話だが、先の読めないストーリーで一度観始めると止まらなくなってしまう作品でもある。

長編ものの宿命として繰り返しの展開もあるにはあるが、それぞれ飽きないように変化させ魅せてくれる。


王子様の正体とは。

決闘の目的とは。

薔薇の花嫁とは何者なのか。

そして世界を革命するとはどういくことなのか。

回をおうごとに解き明かされ、また深まっていく謎。


その難解さから現在でもファンにより多くの考察が展開されているウテナであるが、作品随所に散りばめられた幾つものメタファーや登場人物たちの描写の端々から物語を読み解いていくことができる。

39話に渡り蜘蛛の糸のように張り巡らせたファクター、積み重ねられたウテナとアンシーの関係やあらゆる感情を一気に解放する最終回は大変見事であり、ある種爽やかな視聴後感をもたらしている。


●現実を革命するウテナ

90年代のセル画アニメの成熟期に燦然と現れたウテナは、個性的などという言葉では言い表せない、まさに総合芸術として完成された怪作である。

また、おとぎ話から綿々と受け継がれた騎士と助けられる姫というロマンスの構図をそのまま利用しながら、王子役に少女を据えることによりその矛盾を意識的に暴いており、それを新たな現代の説話たるために再構築を施している。これをディズニーが「アナと雪の女王」を発表する15年以上前に夕方6時台のアニメで放映したというのは驚きしかない。

美少女戦士セーラームーン」でロマンスにおける男女の役割の逆転という革命をアニメで魅せた監督が、セーラームーンですら抜け出せなかったロマンスの孕む矛盾、つまり助けるものと助けられるものという超えられない立場の格差をついに打ち砕いたのが、この「少女革命ウテナ」であったのだ。

少年漫画における世界を守る少年英雄像を破壊した「新世紀エヴァンゲリオン」と同時期に、少女漫画における王子に助けられ幸せになるお姫様像を破壊したウテナは、まさに物語の外の世界でも革命を起こしていたのである。


2017年に20周年を迎えた少女革命ウテナ。作風から好き嫌いがはっきりと分かれる作品なのであまり強くはオススメできない(ここまで書いていまさらだわね)が、合う人には本当に麻薬のようにキマるので試してみる価値は大ありである。

ちなみに巷では百合作品(いわゆる女性の同性愛もの)ということで名前が上がることがあるが、この作品においてそれは耽美演出の一環であると断りを入れておく。主人公ウテナヘテロであるし、作中にはレズビアンの女性も出てくるには出てくるがあくまでシリアスであり、ピュアできゃっきゃウフフした百合描写は皆無なので、そういうものを目的に観ようとする方にはあまりオススメはできない。

逆に、どろどろした少女漫画的な心理描写やキラキラな絵柄や耽美表現に耐性がある人や哲学的な小難しいものが好きな人であれば楽しめる可能性大なので、是非全話視聴してほしい。

 

ウテナ好きさんにお勧め作品

ベルサイユのばら池田理代子

もはや説明不要だろう!これもやはり革命している。歴史モノとしても素晴らしい!オスカル様!麗しい!

帝一の國」古谷兎丸

耽美な世界観とシュールギャグのバランスが素晴らしい学園政治闘争コメディ。

ルナティック雑技団岡田あーみん

可憐な絵柄で繰り広げられるシュールギャグの境地。変態執事の黒川が良キャラ、ゆり子はもはや狂キャラ。

 

 

絶対!運命!黙示録!

 

 

少女革命ウテナ 絶対進化革命前夜

少女革命ウテナ 絶対進化革命前夜