エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【漫画感想】『ミスミソウ』

胸糞サスペンス復讐譚。

ミスミソウを宣伝する際わたしならこういうコピーをつけるだろう。
この本は良心を横に置いてから読むことをお勧めする。
グロ耐性のない方、心が大変清らかで優しい方も見ないほうがいいだろう。

 

おおまかなあらすじをいうと、薄幸の美少女が自分の家族を皆殺しにした同級生たちに凄惨な復讐をする話。
同じ残酷皆殺し描写でも下手な人が描くと大変軽い白けたものになってしまうが、ミスミソウがこれほど重量があるのは、登場人物たちそれぞれの情念を丹念に描いているからだろう。
美しい少女、凄惨な復讐、歪んだ愛、白い雪、赤い血、ミスミソウ
数々のファクターを通して見れば一種の様式的な美しさがある。
語弊を恐れずいえば、そもそも日本人はもともとこういった凄惨な復讐譚が好物である。江戸の古典怪談の多くがこういった復讐譚や因果ものであることからも伺える。なかにはなぜそこまでという凄惨な描写も多くある。
この物語を古典怪談的な側面から見ることで、ただの後味の悪い復讐譚以外から読み解くことができるかもしれない。
では当時の人々はなぜわざわざ胸糞悪くなるような凄惨な復讐譚を好んだのか。もちろん悪い奴やっつけてスッキリ!という感覚を味わいたいわけではない。清いもの、美しいものが罪に堕ちていく、破滅に向かっていくという悲劇に対し、ある種の美しさを見たからではないだろうか。よく欧米人は永遠に美を見出し、日本人は儚さに美を見出すと言われているが、惜しむらく失われていくものに対して、儚さを感じたとしても不思議はない。
作者の押切蓮介さんは怪談もの、怪奇もの、妖怪ものなどを手がけることが多い。古典怪談的な情念渦巻く復讐譚と江戸末期に流行した無惨絵(言葉のまま、胸糞悪くなるような無惨な絵)を組み合わせたようなこの物語は、意図されていたのならなかなかに実験的な意欲作である。
ついでに言っておけば、ミスミソウやゆうやみ特攻隊など凄惨な作品も多いのでつい人の痛みの分からない悪趣味な人なのかと思いがちだが、氏の他の作品からは自然や動物、失われていく古いものへの優しい眼差しや、共同体から外れてしまったアウトサイダーへの共感などが見て取れる。実はこの作者は痛みを必要以上に感じ取れる繊細さを持った人なのではないだろうかとすら思えるほどである。
この、氏の持つアウトサイダーへの共感が、この作品に出てくる春香をいじめる流美をはじめとする胸糞なクラスメートたちに対しても描かれていることで、読者は、善性を捨てきれず罪悪感を持ちながらも復讐心をどうにもできなかった春香を憐れみながらも、ただ完全な悪意だけでない、更生と同情の余地がある(クズなことに変わりはないが)クラスメートたちを憎みきることができないというジレンマに陥る。
押切氏は氏の自伝を見る限り、バブル崩壊後のロストジェネレーション世代であると思われる。冷戦終結湾岸戦争就職氷河期を通して善悪で割り切れない時代に培われたであろうシビアな視点を、古典怪談の無惨の様式に組み込んだこの物語の容赦ない展開が、なんともいえない後味の悪さと無情感を演出している。
全てが雪にさらわれたのち、野に咲く小さなミスミソウが描かれた寂寥感溢れるラストシーンは、この救われない物語の帰結としてこの上ない美しい場面である。
ただ、1つ言いたい。
結果、じいさんが一番かわいそう。


最後、おまけに私的オススメ押切作品を紹介しておく。以下の押切作品の詳細ついてはいつか改めて記事にしたい。

『でろでろ』
妹萌え不良の耳雄とクールな妹の留渦が妖怪や幽霊の起こす事件に巻き込まれるホラーギャグ。幽霊とかを拳で黙らせる耳雄の良キャラさよ。
サイトーさんとカントクがかわいい。

ハイスコアガール
90年代ノスタルジーとゲーム愛に溢れた青春漫画。なんやかんや紆余曲折の末、絶賛連載中。アニメにもなるよ!

『ピコピコ少年シリーズ』
押切氏の変わった、もとい冴えない、もとい愉快な実体験を独特な視点で語っているエッセイ漫画。
こちらも90年代ノスタルジーとゲーム愛に溢れている。大変面白い。

 

 癖がある作風なので読む人を選ぶが、興味ある人はこれらから観てみてはどうだろう。

【ドラマ感想】『新選組血風録(1998年)』

新選組

幕末。浅葱のだんだら羽織を靡かせ、不逞浪士を斬り京の町を震撼させた壬生の狼。

 歴史ファンでなくとも名前くらいは知っているであろう。

どういうわけか新選組には熱烈なファンが多い。もちろんわたしもその一人である。そう言ったファンには、絶対に今風に言うには「沼」に引きずり込むきっかけとなった罪深い作品がひとつあるものである。

わたしの場合、それが小学校の頃にテレビで見た新選組血風録であった。

もともと時代劇をよく見る家庭であったことや漫画「るろうに剣心」おかげでその土壌は整っていたので、堕ちるのは一瞬、まさに瞬殺だった。

 

新撰組血風録』は司馬遼太郎原作の短編連作で、同作者の同じく新選組を題材とした『燃えよ剣』と合わせて、現代の新選組のイメージに多大過ぎる影響を与えた傑作である。

日本映画でも新選組は人気だが、中でも血風録に関しては何度もテレビドラマ化されている。

わたしがハマったのは、朝日テレビ開局40周年として特別製作された1998年版の新選組である。この1988年ドラマ版版について原作、また同年代の新選組ものを絡めて書いていく。

 

ドラマの主演は近藤勇に渡哲也。そこに土方歳三役の村上弘明を始め重量感ある俳優陣が布陣し、沖田総司中村俊介若手俳優や深雪太夫天海祐希ら美しい女優たちが男臭い重苦しい画面に華やぎを与えている本作。スペシャルもやっていたので人気だと思っていたが、DVDも出ていないところを見るとそうでもなかったのか。はたまた東映の事情か。
背景は撮影所だとすぐわかるようなチープさがあったが、俳優陣の堂に入った演技のおかげでドラマには厚みがあったしさしたる問題ではない。

 

のちになって近藤と土方の年齢が行き過ぎだと知ったが、近藤はともかく土方の村上弘明に関しては、これ以上は考えられない最高の配役だったと思う。

京の町人らの使う京言葉のせいで余計か際立つ「近藤さんよぅ、おれぁね」「おめぇがなんとかしろぃ」と江戸というか武州の訛りの泥臭さ、司馬遼太郎の描く喧嘩師らしいさっぱりした潔さの妙もあり、男らしい色気があった。本作の土方は血風録というより燃えよ剣の土方像に近いように感じる。

余談だが、本作放映のしばらくのちガンガンで連載された『PEACEMAKER』という新選組漫画の土方像はこの村上弘明がモデルじゃないかと勝手に思っている。

渡哲也の近藤に関しては愚直だが清廉潔白な傑物として描かれている。原作の俗物感が薄れているところが俳優ありきなのかと今となっては気になるが、演技派の俳優陣が織り成す群像劇を締めるには、これくらいの重みのある人物の方が相応しかったのであろう。

 

さて、新選組を描くにあたり最も配役に苦労するのはおそらく沖田総司である。

夭折の美剣士。司馬遼太郎の作り上げたこの沖田像はどれほど罪深いことか。

実物の沖田は、背が高く肌が浅黒いヒラメ顔の人物だったというが、やはり司馬氏の作品に描かれたように、冗談が好きで子供と遊ぶ明るい人物だったとも伝えられている。とにもかくにも好人物だっただろうこの若者が、血なまぐさい戦場を駆け抜けてまだ若い命を燃やし尽くしたというそれだけで、日本人の琴線に触れるというものである。

 

そんなわけで決して外さない本作の沖田役は、当時若手俳優であった中村俊介であった。セリフに関してはまだ上手いとは言いがたいが、それをカバーしてありあまるその明るく清廉な雰囲気は一服の清涼剤のようで、まさに司馬遼太郎の描く沖田総司そのものである。それに最終話の別れのシーンでの表情の演技には贔屓目なしにグッと切なくさせられた。

ちなみに熟練者によくある感情のこもったセリフよりも、若干棒のアクのない平坦ぎみなセリフの方が『燃えよ剣』で土方の兄のセリフにある「俺は総司の声を聞くともの哀しくなるんだ」という表現にぴったりだと思ったが、これはまあ、贔屓の欲目だろう。

どちらにしてもこの中村俊介版の沖田総司のせいで、圧倒的に沖田ファンになってしまったのは事実である。

もう、あれだね。かっこ良いよネ☆

 

近藤土方沖田のキャラクター付けを始め、本作は連続ドラマとなっているので原作の話を合体補足、削ぎ落としをして10話にまとめている。

例えば本作の沖田は原作以上に「やだなぁ」とか「わたしはそういうの嫌いだなぁ」なんて子供っぽいセリフを言う。普段の子供っぽさを強調するからこそ、9話で仲の良かった脱走隊士を斬ったときの「この人には良くしてもらいました」という淡々としたセリフの狂気が際立ち、視聴者を居合わせた篠原泰之進と同じように驚愕させたのである。

ちなみに原作小説でこういった沖田の怖い側面が垣間見れるのが「前髪の惣三郎」のラストシーンであるが、そのシーンの土方沖田の役割はドラマでは近藤が引き受けており、聖人のようなドラマ版近藤の内面に唯一、少しの泥をつけさせるという面白い作りになっている。

 

序盤では池田屋芹沢鴨(なんと松山千春が演じている!)暗殺など、近藤土方側をまさに治安を守る正義の味方然として時代劇の主役らしく描いていく。しかし徐々に主役になる人物の視点をずらしていき、過激な局中法度や反乱分子の粛清、もみ消し、罠など負の側面を描いていく。前述のドラマ9話「油小路」では実質の主役が船越英一郎演じる伊藤甲子太郎派の篠原泰之進となり、近藤土方沖田はまるで狂気の集団に映る。伊藤派閥の間者を罠にはめ集団で囲み槍で突き刺すなんてなかなか主役側のやることではない。

ドラマ7話「長州の間者」では、斬られた間者の妻が沖田や永倉原田に憎しみを込めて「なぜ殺したのか」と問うシーンがある。沖田はバツが悪そうに「隊規を破ったから」「間者だから」と答えるが、妻は都度「それは殺すほどのことなのか」と返す。制作側はあえて主役であるはずの新選組の異常性を視聴者に示しており、物語はよりフェアな視点で描かれていたように思う。

最終的に史実の通り、大政奉還により新選組ら幕軍と薩長の立場が逆転し、新選組も追われる立場となる。史実と『燃えよ剣』を絡めて新選組敗走後の末路を、足早に伝えドラマは終わりを迎えた。

 

エンディングの松山千春の名曲「さよなら」は過去を懐かしみ決別する歌であるが、新選組の末路と重ねるとなんとも言い難い切ない心待ちにさせられる。

エンディングもそうだが劇伴もなかなか印象深く、歴代時代劇風でありながらかっこいい曲が多いのでぜひ視聴する際は気に留めてほしい。

 

以下各話の簡単な個人的感想である。

1話「幕末最大の決闘!池田屋斬り込み」

ザ・東映祇園祭りの宵山や深雪太夫の艶やかさと池田屋での凄惨な斬り合いのコントラストが良い。原作の同名話に燃えよ剣や別エピソードで描かれた斬り合い部分を付け加えている。沖田喀血もちゃんとやる。モアベター

 

2話「芹沢鴨 雨の襲撃」

松山千春の貴重な演技回。絶妙な狂気を持った芹沢のヴィラン感がとてもかっこいい。ちなみに芹沢役の松山はエンディングも担当しており、そう考えるとなんとなくシュールなエンディングである。

 

3話「沖田総司 剣と恋」

前半原作通り。初々しくて見ていると恥ずかしくなってくる。

原作では沖田の想いを知った近藤土方が余計な気を回して(文中で司馬遼太郎自身が余計なお節介と思うかもしれんが言っている)ご破算にしてしまうという沖田がまったく救われない遣るせない話だが、ドラマには後日談が付け加えられ、新選組の斬り合いに大文字見物に来ていた娘と父親が遭遇するという話になっている。原作でも沖田の気持ちを察して娘の方も赤くなったことから好意とまではいかないまでも憎からず思っていた描写があるが前述の終わり方のせいで宙ぶらりんになっていた。ドラマのこの場面で娘は沖田の正体を知りショックを受け、沖田はまた自分の気持ちに整理をつけ斬り合いに戻るという、ビターながらちゃんと落とし所がつけられた良補完となっている。

 

4話「脱隊 胡沙笛を吹く武士」

一隊士視点で新選組を描く。張り込みの時の緊張感の描きかたが素晴らしい。

切ない。

 

5話「妖艶 前髪の惣三郎」

昨今はやりのBL。男たちの複雑な恋模様。これをテレビでやるとはね。

とにかく黒田勇樹演じる加納惣三郎の色気がすごい。また前述のように原作の土方沖田の役目が近藤になっており、その点は意欲的な改変だった。

土方に無理難題を押し付けられる中間管理職な山崎烝大杉漣)がとても良キャラ。余談だが「御法度」は私のトラウマ映画である。

 

6話「土方謀殺計画 山南の脱走」

伊東一派の登場と山南脱走。

ここらへんから近藤土方一派の正義(視聴者目線)が明らかに揺らいで描かれていく。

原作の混ぜ具合も上手い。

山南と土方の対立に伊東一派の思惑がからむ。穏健派の山南を失い、この後物語は正義なき複雑な争いに変わっていく。

三浦洋一演じるの山南敬助が、大津の山中で沖田を呼び止めたときのあの笑顔が印象的である。ああ、山南さん……。

 

7話「潜入長州の間者」

永倉原田がとても明るい好人物と描かれるが、一方彼らは近藤らと同じく人斬りを平気で行う人物である。

今回は女たちがより我々に近い目線で、彼らの異常性に一石を投じる。

女が待つことしかできないものという見方は男の願望である。彼女たちは天下や沽券に振り回される男たちを支え愛するも、安寧な生活を守るときには気丈に反抗する。彼女たちはまっすぐ地に足のついた明日を見ており、リアリストだ。

 

8話「近藤勇を狙った女」

このドラマの気になるところは、やっぱり近藤の人物像である。

簡単に言えば、かっこよすぎの一辺倒で魅力がない。個人の見方だけどね。

 

9話「内部分裂 油小路の決闘」

陽気で小気味の良い男・篠原泰之進を主役に据える。映し出される新選組の狂気。

 

10話「近藤・土方・沖田 最後の別れ」

原作の「菊一文字」をベースに新選組の末路を描く。病み衰える沖田、敗走軍の中でなお毅然と立つ土方、次々と減っていく仲間。

原作では菊一文字の象徴性はこのエピソードの主人公である沖田を表していたが、ドラマでは拡大解釈され、沖田、近藤、土方それぞれの正義や生き様を表すに至っていた。ああ、切ない。

 

最後に なぜ日本人は新選組が好きなのだろうかを考えてみた。

立身出世ものはいつどの時代、場所においても人気である。戦国の武将で豊臣秀吉が人気があるというのも、この立身出世ものを地でいくタイプだったからである。

また、「もののあわれ」という言葉にある通り、日本人は滅びゆくものや儚いものへの憐憫の情も深い。盛者必衰から始まる平家物語、つわものどもが夢の跡という芭蕉の句、そして判官贔屓のもとにもなった源義経。英雄たちの活躍もさることながら、その悲劇的な最後に心を奪われるのである。

田舎の浪人や農民だった若者たちが、志のもと非情の剣を振るい続け京都の治安を守り、大名首にまで上り詰めるも、時代の流れに飲み込まれ、信じたものに裏切られ、やがては敗者となり落ち延び、滅ぶ。

新選組の物語には日本人の琴線に触れる要素が非常に多い。

天才と謳われながらも若くして病に倒れた沖田総司、仲間を次々失ってなお、北へ敗走を続けやがては幕臣新選組最後のひとりとして北海道で討ち死にした土方歳三。彼らに象徴されるように、若い命を幕末の動乱に捧げ滅んでいった新選組は、これからも日本人に愛され続けていくことだろう。

 

ちなみにこの1998年版新選組血風録は残念ながらソフト化していない。

Blu-ray BOX出してくれたら絶対買うのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【アニメ考察】『おそ松さん』記号とリアルの狭間

おそ松さんは、言わずと知れた赤塚不二夫のギャグ漫画『おそ松くん』を原作(原案?)としたギャグアニメであり、一期放送当時爆発的人気を博し、今放送されている二期もこの三月に無事最終回を迎える。

賛否色々あった二期であるが、わたし個人的には一期に続き大変楽しめたので、最終回を前に寂しい気持ちでいっぱいである。

おそ松さんファンを公言して幾星霜。
好きだからこそ手を出せないでいたが、最終回を前にしたこのタイミングで一度、無粋とはわかりつつも先日放送された二期24話「桜」までを踏まえて、おそ松さんとは何者なのかという考察に興じてみたい。

 

●「おそ松くん」とは何者か

まず前提としておそ松くんはギャグ漫画である。
基本のスラップスティックコメディを始め、パロディ、シチュエーションコント、メタ、エログロ、シュールなど何でもあり。何でもありなので、お話のオチで爆発しようが、次の話ではしれっと無かったことになって生き返っているし、分裂しようが巨大化しようが特に問題にならない。

彼らはキャラクターであり、キャラクターとはつまり性質であり、記号である。
記号なので生も死もない。
その辺りはアメリカのカートゥーントムとジェリーが輪切りになったり変形したりしているのを見ればよくわかるだろう。
+はどこまでいっても+で、ある時からそれが-や×に変わることはあり得ない。それが記号の本質であり、キャラクターがキャラクターたる所以である。

おそ松くんでは、おそ松からトド松までがはちゃめちゃな六つ子の少年というひとつの記号である。
イヤミの言を借りれば「誰が誰でもおんなじざんす」。
赤塚不二夫の過激なギャグを演じるためには、彼らは必然的に記号的キャラクターでなければならないのである。

しかし、おそ松さんが現代の作品として生まれ変わるためには、このおそ松くんがおそ松くんたる所以の「六つ子の少年という記号」を手放さなければならなかったのである。

 

●六つ子は何者になったのか

まず、おそ松さんでは、彼らは大人になっており、見た目からして全員が同じ顔だったくん時代とは違い、一目で見分けがつくような差別化がなされている。つまりそれぞれが別々のですがの記号になっている。グラサンをかけている奴を見て、「あ、十四松だ!」という判断をする人はいないだろう。
そしてそれぞれは内面もまったく別の人格へと成長している。

 

おそ松→小学生メンタルのクズ
カラ松→痛いナルシスト
チョロ松→真面目ぶったドルオタ
一松→ネガティブな危険人物で猫好き
十四松→人外バカ
トド松→女子力高い現代っ子

 

「六つ子の少年という記号」に変わり、これが彼らに与えられた記号というわけである。
原作でおそ松くんの主役がいつしかイヤミに取って代わられてしまったことを鑑みるに、「六つ子の少年という記号」は唯一無二でありながらも、その影響力は低く弱い。新しい(しかも記念作品)アニメシリーズには明らかに役不足なのだ。
幻の第1話で、彼らが自らの昭和感を危惧していたことや、あらゆる人気アニメのアイコン=キャラクターを模倣し試行錯誤していたことからもそれは汲み取れるだろう。

現代のアニメに生まれ変わるにあたり、彼らは主役を維持するために別々の記号にならなければならなかったのである。

 

ただ、ファンの人々はすでにご存じであろうが、物語が進むにつれてこの新たに彼らに与えられた記号が信用できないものであると判明する。

全員出すと面倒なので、一松を例に見てみよう。
一松はネガティブな危険人物に見えるが、実はガラスのハートで傷つくのが怖い臆病な人物であり、口は悪いが兄弟を大事にしており結構悪ノリもする明るさも持っている。密かに陽キャに憧れているところもある。あと猫が好き。
どうだろう。こんな長い記号、覚えられるだろうか。
極め付けはカラ松への対応である。当初は毛嫌いしており当たりが強かったが、一期16話「一松事変」で助けてもらってからはその対応が(若干)軟化している。これは一松の中のカラ松という人物評に変化があったためであり、つまり一松という記号は時間経過によってその性質が変えるものなのである。もはやそれは記号とはいえない。それは記号ではなく矛盾を常にはらんだリアルな感情を持つ人間そのものである。

 

上記幻の第1話で、あらゆるキャラクターを模倣した結果世界観はめちゃくちゃになってしまったが、ここで明示されているのは安易なキャラクター付けは成功しないという教訓である。


模索して生き残るために彼らが身につけなければならなかったものとは、実は新しい記号ではなく時間の流れの中で変化するリアルな肉体であったのだ。


●記号であろうとするおそ松の苦悩
前述したことを思い出してほしい、赤塚不二夫のギャグ漫画の過激さに耐えうるには記号化された不死身のキャラクターが不可欠であるはずなのに、おそ松さんの世界には時間が流れており、登場人物は生身の肉体を持ってしまった。つまり彼らには死があることが明示されてしまった。

それにもかかわらず、実際おそ松さんはキレのあるギャグを繰り出し、爆落ちもしょっちゅうである。
なぜリアルな肉体を持つ彼らにその記号的な動きが出来るのだろうか。

実は、おそ松さんの登場人物の中に、世界をおそ松くんの世界(記号的キャラクターが支配する世界)から逸脱しないようコントロールするバランサーがいるのである。
その役目を果たしているのが、おそ松とイヤミだ。
おそ松は六つ子の長男でありリーダーとして他の兄弟たちを取り仕切る立場にある。彼はアニメおそ松さんが持て余したおそ松くんたる所以、「六つ子の少年という記号」(それもすでに記号としての役割を失い形骸化した)をぎりぎりで繋ぎ止めている唯一の兄弟である。
おそ松以外の兄弟が個性を与えられ性格服装共にくん時代より変化しているのに対し、おそ松は子供の頃と同じ顔であり、性格も小学生メンタルのバカという変わらなさである。
つまり彼はただひとりおそ松くんの面影を残した兄弟なのである。

彼が終始働くことに否定的なのは、大人になった彼らが「六つ子の少年」であるために選ばざるを得なかったのがニートという職業(職業ではないがw)であるためである。
おそ松は「六つ子の少年」でなくなったとき彼ら6人の兄弟、ひいてはおそ松さんという番組が崩壊することを知っているのだ。

もう一人のイヤミは、言わずもがなおそ松くんの代名詞ギャグ「シェー」の人であり、作中唯一全ての面において原作を維持しているキャラクターである。彼は六つ子の見分けがつかず、いつも名前を間違えている。まさに誰が誰でもおんなじざんす。
イヤミは、おそ松くんの世界をそのまま生きているので、おそ松たちと絡む際も「六つ子の少年」以上の情報を必要としないのである。
一期21話の「逆襲のイヤミ」でイヤミの分解光線でみんな殺されてしまったが、なぜかおそ松だけは生きていたことを覚えているだろうか。
それはなぜか。イヤミとおそ松が未だ記号のキャラクターであるからにほかならない。


おそ松(とイヤミ)が、おそ松くんからおそ松さんが引き継いだギャグの世界線あるいは、記号的な虚構の世界が、リアルな人間の世界に引きずられないように手綱をとってバランスすることで、おそ松さんという世界観が存在していたのである。

しかし、一期1話で復活した誰が誰でも同じなおそ松くんたちは、話数を重ねるごとに記号から逸脱し複雑な精神を持った生身の人間へ枝分かれしていった。そして一期24話「手紙」。物議を醸し出したこの回で、とうとう瀬戸際でおそ松が守っていたバランスが崩れる事態が発生する。
記号的な虚構の世界が、生身の人間が支配するリアルの世界に乗っ取られてしまったのである。
その原因はもちろん、チョロ松の就職による「六つ子の少年」という記号の完全な喪失である。
これはつまりおそ松さんという番組の崩壊を意味している。


たとえば超人ギャグマシーン・変幻自在の十四松も、リアルな世界になるととたんにただの人になってしまうことは、
一期9話「十四松の恋」において、彼がではいくら走っても彼女の新幹線に追いつくことはできなかったことですでに描かれている。24話でもおそ松に蹴り飛ばされた際、すぐに復活したら弾き返す等カートゥーンな動きをすることなく怯えて痛がることしかできない様子が描かれている。
チョロ松してもあの簡素な作りからは考えられないような複雑な表情で男泣きを見せ、イヤミがいくら挑発やシェーを繰り出すもツッコミをすることはなかった。
これではギャグ漫画(アニメ)としての体面を維持できるはずがない。

ギャグ、特におそ松さんのような登場人物が別のキャラクターを演じるコント形式のものは、演者(ここではおそ松たち)の生々しい背景が見えてしまうと途端にそのつまらなくなってしまうのである。
それなのに、体面を守りこれまで番組を牽引してきたおそ松はというと、崩壊に対しただ憮然とし沈黙とすることしかできなかった。なぜなら「六つ子」であることを奪われリアルの世界に取り残された彼には、もはや何の力も残っていないからである。

●おそ松の逆襲
しかしご存知の通り、
一期の25話の冒頭から、おそ松による怒涛の逆襲が始まる。
おそ松がセンバツという力技で、ギャグの世界線に引き戻したのである。
たちまち24話のサブタイでもあったチョロ松の手紙は発火し、十四松の怪我は消えて無くなり、6人のハートがひとつになってあっという間に「誰が誰でもおんなじ六つ子の少年」に逆戻り。

最後は宇宙に飛んで行くカオスな展開。バランスを取り戻すどころか、勢い余ってギャグに全振りした大変気持ちの良い最終回であった。

おそ松の華々しい勝利である。

 

さて、宇宙から舞い戻ってきた6人によってちゃんとしようと始まった二期も、いよいよ佳境の24話「桜」を迎えた。ここで一期で一度バランスを取り戻したおそ松さんの世界は再び崩壊の危機に瀕しようとしている。
今回は一期の24話よりよほど深刻である。
その理由はおそ松がリアルの側に立ってしまったということにある。
松蔵の病という記号の世界にとって最も縁遠い、リアルな死の影(幸い松蔵は快方したが)の描写の導入が、彼を記号の世界線から引きずり出してしまったのである。
おそ松は、一期24話で自身だけは最後まで堅持しようとしていた「六つ子の少年という記号」の完全な撤廃を自ら宣言し、結果彼は「松野」という無個性なラーメン屋のバイト青年に変わってしまった。
もう一人の牽引者イヤミはというと、二期23話で自らをおそ松さんに溶け込めないと判断している。彼が一番輝いたのが戦後を舞台にした「イヤミはひとり風のなか」であるというのも中々暗示的である(さすがに深読みか)。
そしてイヤミは24話においてはリアルに身を置いてしまったおそ松と袂を分かち、記号的な虚構の世界をおそ松さんの世界と切り離し去っていくという恐ろしい結論に達してしまった。
おそ松とイヤミを失ったおそ松さんの崩壊はもう止まらない。

 

唯一の救いはおそ松が崩壊に対し、自覚的ということである。
トト子ちゃんに打ち明けた「自分はまだおそ松でいれているか」という問いは、記号である自身が失われていくという危機を自覚している現れである。

「これでいいのか?」と自問を繰り返すおそ松は、はたして最終回で「これでいいのだ」をとりもどすことができるのだろうか。

 

おそらくはこれを載せる時には、最終回の本放送が世に出ていることだろう。

そして、すでにこの文章がちゃんちゃら可笑しいピエロの世迷言となっていることだろうと思う。いやそうなってほしい。

悲しき地方民は土曜日深夜まで、記号・キャラクターの持つ無限の可能性が、しけたリアルの世界に風穴を開けて、スッキリ大笑いさせてくれることを期待しながら全裸待機することにしよう。

【映画感想】ドラえもん短編映画③『がんばれジャイアン』

ドラえもん短編映画最後の一本は、まさかのジャイアンが主役である。

これは隠れた名作。

ジャイアンの男気が堪能できること請け合いな、ジャイアンファンにはたまらない一本である。
メインはジャイアンジャイ子

ドラえもんのび太、しずかちゃん、スネ夫は登場しますがあくまでもわき役としての役回りである。こんなことができるのが円熟期のドラえもんの良さであろう。

雪のシーンで、ドラえもんジャイアンの気持ちを慮った道具を出すところなど、大山ドラえもんののび太たちより少し大人の視点を持った所謂保護者的な立ち位置が顕著に表れている。
今挙げたジャイアンの気持ちを汲むドラえもん、原稿を探してくれた仲間の友情に感謝しつつ迷惑をかけまいとするジャイアン、またそんなジャイアンを理解して最後までそっと見守るドラえもんのび太
あえてセリフにせず、登場人物たちの相手への思いやりを行動で示すことこそアニメや映画の本懐ではないだろうか。そういった演出がこの作品では実に光っている。また小道具や表情、間で感情の機微を表現することについてもこの映画は一級であるだろう。
妹に好きな男ができた→それを知った兄が妹への愛情ゆえに怒り狂う。

これはよくあるコミカルでわかりやすい演出であるが、この映画ではあえてその簡単な表現方法を取っていない。
もて君(ジャイ子の想い人)に対して、まずジャイアンは相手の真意を確かめようとしている。そしてジャイ子の気持ちを知るやショックもあれど自分のエゴを押し付けず(基本的にジャイアンの愛はから回っていますがw)、黙って後押ししようとするのである。
前述したよくある演出では兄が自分の気持ちを整理して妹を応援することでその気持ちの変化がクライマックスになるのだが、この映画では最初から兄は自分の気持ちよりも妹の気持ちを優先する。妹を導き守る立場としてもぶれることがない。この映画は互いを思いやる兄妹の気持ちのすれ違いに軸を置いている。

このわかりづらく地味な展開を短時間で魅せる制作陣の力量は見事。

最小限かつ象徴的な道具使いとドラえもんの活躍、ジャイアンの漢気の若干古臭さを良いものであると同時にコミカル要素としても活用したのか、落語や丁子木などの小道具がいい味出している。

ジャイ子たちを目撃したしずかちゃんの動きが個人的にツボだった。
また、エンディングのダ・カーポの歌声が映画の内容も相まって優しい気持ちにさせてくれる。

最後、ジャイアンの映った写真を直す、指輪をはめた女性の手はおそらく大人になったジャイ子のものか。グッとくる素敵な演出である。
いやー、やはりジャイアンこそアニメ界の理想の兄キですね。

ジャイアンファンはぜひ見るべき一本。

 

 


【映画感想】ドラえもん短編映画②『のび太のぼくの生まれた日』

ドラえもん短編映画感想、前回は大人のび太の話だったが、今回は子供のび太の話である。

 

家出をしたのび太が、過去に遡り自分が生まれた頃の両親に出会うというお話。

 

冒頭から一貫して描かれていた一本の木。ファミリーツリーとしての野比一家の軌跡と一本の木をなぞらえて、ラストの父を中心として寄り添う野比一家〈もちろんドラえもんも〉へと帰結する演出は見事。大山ドラえもんの母性がここぞというほど発揮されている。やっぱりドラえもんの安心感はこの母性だと思うの。
ドラマの背景には、過度なほど街並みが描かれている。古い家々が残る地区から区画整理された更地へ、過去に戻るとどぶ川にたもを下す子供たち、平屋の古い家々の遠くに立て掛けのビル群。変わっていく街並みとある一本の木を通して、この時代変わりつつあった家族の形とそれでも変わらない家族の絆を表現したのではないだろうか。

 

 

 

 

【映画感想】ドラえもん短編映画①『のび太の結婚前夜』

大山版のドラえもん後期の短編は、大人向けにも十分通用するハイクオリティなものばかりである。むしろ大人になってみるとよりグッとくる。

そんな素敵な短編映画のうちいくつかを3回に分けて紹介したい。

ちなみに名作と誉れ高い『おばあちゃんの思い出』は今の所未視聴である。

だって絶対に泣くからさー。

 

ということで、1回目は青年期ののび太が主役の『のび太結婚前夜』の感想を書いていきたい。

 

小学生ののび太は、本当にしずかちゃんとちゃんと結婚できるのか不安を覚え、未来を見に行くことにする。着いた先は、ちょうどのび太としずかちゃんの結婚直前であった。

 

未来で描かれた青年になっても変わらないのび太の優しさは、しずかちゃんが選んだ理由としても納得。式場でのウェディングドレス試着時の靴の向きなど大変細かいところに行き届いた演出が光る。ジャイアンの歌に「へたくそ~」とヤジを入れたり(そしてそれに対するジャイアンもしかり)、小学生時代の先生にジャイアンのことを豪田と言ったり、あののび太が時を重ねて大人になっているのが、感じ取れるようなセリフ回しはみごとである。それにしてもジャイアンスネ夫出木杉君も、子供時代からの仲間っていいものだ。疎遠にならずに良好な友人関係を続けているのが微笑ましい。

スタンドバイミーではなんだか頼りない大人のび太になっていたが、この作品では心身ともに成長した素敵な青年になっている。しずかちゃん、のび太を選んで本当によかったね。

 

 

 

【アニメ感想】『伊藤潤二コレクション』グロと怪奇と時々ユーモア。一周回って愛おしい。

伊藤潤二作品との出会いは新宿のカプセルホテルの談話室の、やけにマニアックなタイトルが並ぶ本棚の一角で見つけた『富江』であった。その耽美な絵柄と不条理な内容は新宿の奇妙な一夜とともに心に刻まれた。刻まれはしたが、ディープなエログロナンセンスの趣味がなかったので、その時はその良さを理解できなかった。

伊藤潤二作品のユーモアがハマったのは猫エッセイ漫画『よん&むー』である。

怪奇な絵柄と愛らしい内容の妙にだいぶ笑った。 

オムニバスアニメ『伊藤潤二コレクション』第1話Aパートの「双一の勝手な呪い」も『よんむー』と同じく怪奇な絵柄と愛らしい(この場合はおバカな?)内容のギャップ楽しい作風である。

一言で言えば、陰気なくせに自信過剰な小学生・双一が、ガチの呪い能力で周囲に迷惑をかけるという話である。

簡単にしか言わなかったのは、先にも書いた絵柄とのギャップのシュールさで笑いを取っていくスタイルなので、文字だけにしては意味がないからである。

それだけそのギャップが凄まじい。

ホラーやエログロが苦手な人もこのAパートまではぜひ観ていただきたい。

CV三ツ矢さんの名演技も相まって、双一が段々愛おしく見えてくるから不思議なものだ。

怪奇でどこかユーモラスであるのが伊藤潤二作品の魅力であるが、これはユーモアに全振りしたお話である。機会があればぜひ漫画に手を出したいものである。

 

さて、ホラーとエログロが苦手な諸氏はここで一旦以降観るかどうするかを悩んで欲しい。オープニング映像から感じた不快感が強い方は、ここでやめたほうが賢明である。

 

3話まで視聴した個人の感想であるが、

1話B「地獄の人形葬」、2話B「長い夢」、3話B「蛞蝓少女」は、グロの割合が強くトラウマ度が高い。

とくに「長い夢」はグロに加えて、ストーリーの組み立てが上手いが故か、視聴後の不安感が抜群である。寝る前には絶対観たくない。

「人形葬」と「蛞蝓少女」はストレートにグロい。どちらかと言えば「蛞蝓少女」のほうがツッコミどころがある分楽しめるかもしれない。

わりと洋物ホラー寄りなのが2話A「ファッションモデル」である。これは、冨樫義博作『HUNTER×HUNTER』のヒソカでお馴染み?の淵さん登場回である。

3話B『四つ辻の美少年』はホラー度が強い作風である。グロさも若干控えめなので、怪しげな辻の風景、主人公やヒロインらキャラクターの耽美な容貌も落ち着いて堪能できる。ストーリーとしてもまとまっているので一番観やすいのではないだろうか。

話はそれるが、最近、起承転結の結部分にはっきりとわかりやすいオチがないものに対し、投げっぽないしでつまらない、手抜きであるという批判をネットで見かける。

全ての作品にはっきりとオチを求め解明したがる風潮はいかがなものか。

ことホラーに関しては、因果応報ものならともかく、結果を提示しないことで起こる、正体が分からないものへの恐怖というのも大きな魅力であると思う。テレビで心霊写真なんかについて霊媒師が片っ端から原因を説明しているのを見ると特に。

 

寄り道しすぎちゃった。

話を『伊藤潤二コレクション』に戻す。

伊藤潤二作品を雰囲気を壊さず映像にするのは難しいように思うが、この作品ではかなり成功しているのではないだろうか。とくにキャラクターは、元絵の美しい(または気持ち悪い)繊細なタッチが絶妙に再現されている。

それもそのはず監督とキャラクターデザインは田頭しのぶである。

田頭さんを知ったのは『ハンター×ハンター(1999年)』の作監としてであった。彼女の絵はハンターアニメで1・2を争う美しさ(セル画当時は作画監督によって毎回絵柄が変わっていた)で特にテレビ版最終回が素晴らしかったように記憶している。繊細で丁寧な、そこはかとない色気のある絵を描く人だという印象だ。

ますます今後放送されるであろう「富江」回が楽しみである。

 

オープニングやエンディングも秀逸なので、きっとセンスがあるスタッフが集結しているのだろう。

 

ホラーやエログロに耐性がある人は、観て損はない完成度の高い作品である。

しかもオムニバス形式なので見逃しても大丈夫!

 

冬のホラーも乙なもの。

この機会にぜひ伊藤潤二ワールドを体験してみては?

 

 

 

伊藤潤二『コレクション』 完全版DVD 上巻

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伊藤潤二の猫日記 よん&むー (ワイドKC 週刊少年マガジン)

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