エウレカの憂鬱

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【漫画考察】『ゴールデンカムイ』近代国家の迷い子たち まとめ

【もくじ】

個人の発見

自由な明治の不自由な登場人物たち

なぜ北海道が舞台なのか

尾形という明治人

近代の象徴・鶴見中尉

ゴールデンカムイとは

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個人の発見

江戸時代以前の近世と明治開花以降の近代の違いは何だろうか。

政治的には、人々が平等の名の下に階級から解放され、自由民権運動の名の下に個人の一部を除く参政権も認められた。経済的にも同様で誰もが稼げる資本主義が取り入れられた。学問的にも建前上は誰もが学べる制度が出来上がりつつある。

福沢諭吉が自書でいうような「一身独立」「自由」の思想は、つまり近代の明治期においてはじめて「個人」の価値を発見したといっていいだろう。

 

しかし、明治の暗部を覗くのであれば、この自由平等の思想は多くの矛盾を抱え続けている。

いざ西洋列強と肩を並べるのだと急速に進化し続ける明治は、多くの良き価値観を破壊し、また多くの悪習を取りこぼしている。

文明開花を開眼と評するならば、問題は明治人たちの目が開いたことで、彼らの基準が彼ら「個人」に移行してしまったが故に、その矛盾に気づいてしまったことだろう。

 

自由な明治の不自由な登場人物たち

作中で描かれる杉元や月島の村八分の描写も彼らが自由平等の世において「不当な差別である」という認識を持つことでより一層強い苦しみとなるだろう。

軍で権力を持つ鯉戸家や花澤家は新政府側の薩摩(鹿児島)出身、旧幕軍である長岡(新潟)出身の鶴見は中尉の階級であり(具体的な理由はあれど権力者にパイプがない証左)、母子共に捨てられた一兵卒の尾形は同じく水戸(茨城)の出身である。江戸以前の階級はそのまま明治になっても政治派閥や軍閥にシフトしただけといえる。新政府側、旧幕府側どちらの家に生まれた者であれど、生まれは彼らの人生にある種の既定路線や不自由をもたらし、福沢諭吉のいう「自由」から遠ざけようとしている。

 

なぜ北海道が舞台なのか

言わずもがなそれは彼らにとって、日本にとっての最後のフロンティアであったからに他ならない。作品が闇鍋ウエスタンと自称するように、ゴールドラッシュを夢見てアメリカ西部へと流れ着いたならず者たちさながら、彼らは生国で得られなかった自由と平等を求めて北海道へ来たのだ。

金塊はいわずもがな自由と夢と権力のシンボルである。誰が金塊を得て真の自由を手にするのか、ゴールデンカムイはこういった話でもあるのだ。

 

尾形という明治人

ここまで近代国家の迷い子と称して、ゴールデンカムイを取り上げるにあたり、尾形というキャラクターに多くの時間を割いたわけだが、それはただ尾形の人物像が好きだからというだけでなく、彼が最も明治人らしい明治人だからである。

尾形は、構造のみでいえば、前述した生まれの呪いに対抗し続け自由を希求し続けた象徴的なキャラクターなのである。

それは彼が「不自由」の頸木である血縁を絶ち、血統による身分を否定することからもうかがえる。

仲間になったキャラクターたちの行動には誰もが(それは家永や鶴見まで)どこかで利他的な想いを持つのに対し、尾形に関しては一貫して自分という個人の問題と向き合うことに終始している。尾形は近代合理主義の標榜するロジカルな思考でもって自分で考え決定する「個人」主義者なのである。

尾形の内省と自死は実に象徴的で、明治という近代国家の理想と矛盾を全てその身で体現したキャラクターに相応しい最期だといえるだろう。

物語中彼の没年は明治41年の5月頃と思われる(榎本武揚の没年月から逆算)が、そこから4年後の明治45年を舞台とした夏目漱石の小説「こゝろ」を読んだことはあるだろうか。

作中で先生と呼ばれる人物の自死が描かれるが、その理由が「エゴイズム」と「精神の孤独」にあることはよく論じられている。

そもそも明治生まれの夏目漱石は本来「エゴイズム(自分本位/個人主義)」を自他の個性を共に尊重する前提として肯定的に捉えており、外圧に捉われることなく個人の幸福、あるいは自由を獲得するための推進力として迎合していたが、晩年になるとエゴイズムの負の側面(利己主義)を題材とした作品を多く描くようになる。こゝろもそのひとつであり、個人主義の理解し合えない孤独を描き、先生と呼ばれる人物を明治天皇崩御日露戦争の英雄・乃木希典の殉死=明治という時代の終わりと時を同じくして自殺させている。

尾形もまたエゴイズムの体現者であり、どこまでも孤独な存在である。

ゴールデンカムイの時代である明治40年頃から、富国強兵の名の下に輝かしい近代化の道を歩み続けてきた日本は、日露戦争の賠償金問題や藩閥政治への反発などの国内問題の噴出によりデモクラシーの時代へと突入していく。明治の理想が自らが見て見ぬ振りをしてきた歪みにより崩れようとしていた時代であった。

自らの良心や罪悪感を見て見ぬ振りをしてきた尾形の破滅は、明治の終焉と重なるのである。

 

近代の象徴・鶴見中尉

主人公たちと敵対する鶴見中尉は、まさに文明開化の申し子である。恐らく幕末の騒乱の中で生を受けたであろう鶴見は、明治維新とともに自己を確立させていった時代そのものである。幕末を戦った土方歳三たちとは国の捉え方が全く違う。

若い時分の諜報活動も踏まえて、鶴見は広い視野での、世界の中の小さな日本国の立ち位置を常に見ている。そしてロシアでのスパイ活動(きな臭い北東アジア情勢を踏まえてのロシアの動向を探る狙い。実際、日露戦争に至るまで日本の外交官らの入念な諜報活動が行われて、日本の勝利の一助に、彼らがパルチザンと結託したロマノフ王朝に対する革命のゴタゴタがあったという)から日清・日露戦争、やがて太平洋戦争敗戦と占守島の戦いまでの近代戦争史のはじめから終わりまでを戦い抜いているのである。アシリパ勢との金塊をめぐる争いに鶴見(戦争や暴力を包有した近代の象徴)が敗北したことは、アシリパが暴力にならない解決の道を目指し勝ち取ったと読めるし、さらには勝ち取るためには近代を受け入れざるを得なかったという綺麗事ではない部分まで象徴しているようにも受け取れる。

 

ゴールデンカムイとは

ゴールデンカムイの最後の戦いは、世代交代の話でもあった。土方歳三は新時代(鯉登少尉)に敗れたが、そしてその魂である兼定は明治(尾形)というモラトリアム期を終わらせて、新時代(アシリパ)の未来を拓く鍵となった。アシリパと鯉登は、彼らの責任感と未来を切り拓くエネルギーを持ってして、生き残ったものたちを導いていくというラストが描かれる。

アシリパは北方の縄文文化を残すアイヌの少女であるが、実は「噂の薩摩隼人」の隼人という呼称は古代九州に住んだ縄文系の民族のことであるのをご存知だろうか。

縄文文化の魂が近代になっても、人々を癒し、導くエネルギーになっているといえば、いや、これはこじつけが過ぎるかもしれないが、面白い構造ではないだろうか。

縄文文化、そして近世以前の「武士道」を土方歳三から受け継ぐ杉元や、鯉登に忠義を尽くした月島の象徴する日本が明治に至るまでに育んだロジックでは説明できない文化。

明治のひずみや近代化の中で迷いを抱えた不自由な登場人物たちが、自由の大地・北海道であらゆる価値観に触れる中で、個人として、どう生き、どのような絆や答えを得て、真の意味での個人の精神の自由を手に入れることができるか。冒険とグルメと変態と、サバイバルと愛憎と変態と、戦いと友情の闇鍋ウエスタンのなかでゴールデンカムイはそれを示しているのではないだろうか。

 

いやー、本当に面白い作品でした。

この素晴らしい作品に出会えたことを感謝すると共に、野田先生及び制作に携わったすべての人々に敬意を。