エウレカの憂鬱

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【漫画考察】『ゴールデンカムイ』アシリパ 近代国家の迷い子たち③

アシリパのキャラクター

これまでに杉元と尾形について考察し、その中でアシリパについてアイヌ民族全体の具現かのように表現してきた。

彼女の名前がアイヌ語で新しい年を意味し、和名が明日子であることからも、明治という近代化の時代、日本による同化政策や文化の侵略、工業化による環境破壊や殖産興業政策により変化を迫られるアイヌ民族の未来を担う存在として、どのように生きるべきかを考える役割を作中で担わされていることは明らかである。

(この物語では未来を象徴するアシリパと鯉登両名がそれぞれアイヌ民族と日本国の未来を担わされて、他の人物たちはそれぞれ個人の問題に帰結している)。

彼女に重くのしかかる「殺人」の問題(アイヌの文化では殺人は地獄に堕ちるとされ、正当化されない)は、朴訥とした伝統を守り変わらないまま滅びを待つのか、新しい文化を受け入れ狡猾に生き延びる道を探すのか、という問題の比喩でもある。

当初のアシリパは伝統的なアイヌ文化の積極的なナビゲーターである。多くの仲間が猟の獲物を銃に変える中、アシリパは弓と毒を使い続ける。自らの伝統に誇りを持ち来訪者である杉元に振る舞いはするが、彼の文化である味噌を受け入れようとはしなかった。誇り高いともある種排他的でもあると取れる。

漫画の中では、共に旅する中、杉元と1人の人間として絆を深めることで歩み寄り相互理解を得る過程が丁寧に描かれている。そのうちアシリパは杉元も味噌も好きになる。

杉元の項で彼がアイヌ文化に触れることで再生したと説明したが、逆もまた然りであるといえる。

杉元に出会わないままのアシリパであれば、ウイルクの意図する通り、少数民族の文化を守り、日本やロシアと敵対するべく立ち上がるジャンヌダルク、革命の旗手となっていたかもしれない。しかしアシリパは和人の文化の中でそれを体感することにより第三の視点を手にいれる。敵と味方、侵略者と被害者という隔絶した関係であれば闘うことは容易い。通じ合うことがなければ、これらの単純な構図のもと敵対することができるからである。

しかしアシリパは知ってしまった。

網走までの道のりで、和人の文化であるライスカレーを食べ、牛山を尊敬し、杉元に恋をした。またその後はキロランケの導きで樺太やロシアの少数民族たちの暮らしや現状を知った。第三の視点とは、あらゆる文化を俯瞰的に見ることができるフラットな視点である。

多分杉元・キロランケのどちらかの視点だけでは足りないだろう。彼らはどちらもアシリパの求める回答を有していないのだ。

どちらの意見も飲み込んで自ら答えを出す、文化の橋渡しという大役をアシリパが担うのは、彼女が男の仕事である狩りを行うアイヌの常識からは外れた女であり、大人と子供の中間の境界の立ち位置にいるキャラクター性から必然といえるのかもしれない。

 

アシリパの成長

樺太の旅の最後、アシリパと尾形が問答するシーンは尾形からの視点とは別にアシリパにとっても重要なシーンとなる。

尾形はアシリパに「アシリパだけ手を汚さず清いままなのは正しくないのではないか」という問いかけをする。このときの尾形の意図は置いておいて、アシリパにとってこの問いはきっかけとなる。

アイヌ文化に誇りを持ち、和人の文化を知って、少数民族の危機を知ったことによりアシリパには責任の自覚が生まれる。知る責任を取る取らないは個人の考えによるものの、後の話でアシリパに狩りをしてヒンナヒンナしててくれればいい(伝統文化を素朴に守り平穏に暮らしてほしい・問題解決は別の誰かがやれば良い)という杉元に対し、はっきりと知ってしまった自分の責任について私事として捉えていると告げていることからもアシリパが前者であったといえる。

「殺害」はアシリパにとって「責任」の象徴である。獲物に対する彼女の考え方がそれを象徴している。殺した獲物は責任を持って食べて、残さず利用するのである。

アシリパに自らが手を汚す覚悟があるか、身を削る覚悟はあるか、罪を背負える覚悟はあるか。尾形はそれを問うている。

変革や何かを守るためには必ず血が伴う。土方ら幕末を生きた者や、杉元・谷垣・尾形・月島・鶴見ら日露戦争帰還者、キロランケやソフィアのようなロシアのパルチザンはそれを知っているが、アシリパは知らないしそれが受け入れられない。彼女が戦争や革命を知らない世代であるからであり、第三の視点を持っているからなら他ならない。

そんなアシリパが戦いの中で出した答えは、結果手を汚してでも大切なものを守るという選択であった。この選択が実は宿敵である鶴見と同じ選択であるのが、この漫画の面白いところである。

白石の示した金塊は使い方次第で幸福にも不幸にもなるという描写そのまま、アシリパのこの選択がどのような結末を結ぶのか、是非昨日発売の最終巻を見ていただきたいと思う。

 

この漫画アシリパを庇護対象の子供として描かない。

なぜならアシリパは、大切なもの(アイヌの文化、カムイ、杉元)を守るためには、近代化をも柔軟に受け入れ、自らの責任を持って弓を引く強かで逞しいひとりの自立したアイヌ(人間)だからである。

作者の野田先生はこの物語を描くにあたり、かわいそうなアイヌを描かないでほしいという趣旨の願いをアイヌの方からいただいたそうだが、そのアンサーが物語の中で燦然と輝く「アシリパ」の存在なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 補足〈尾形は救われたか〉

※未単行本話のネタバレあり

本稿【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 1/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱の補足です。

 

尾形は救われたか

漫画としては畳み掛けるような展開も怒涛の動から静のコマ割りも含めて、実にカタルシスに満ちた素晴らしい結末を魅せた尾形。

本稿で尾形について「永遠に得られぬ母の愛、罪悪感、自らの無価値感」の否定が行動原理であるとして、さらに尾形を救うのはアシリパと論じたが、結論としてはどうだったであろうか。

最後は自らとの問答で、愛を求めていた自分の深層心理と押し込めていた罪悪感を発見することで、自らの無価値観から脱却するという救いを経てなお、壮絶な自決へと至っている。

尾形がアシリパを光と喩えたことから、やはりアシリパに無意識にでも親愛を向けていたことが分かる。しかしアシリパの光に杉元のように浄化されなかった理由は勇作だろう。

17巻で尾形がアシリパを勇作と重ねはじめたのは、偶像としての父の子として重ねたと思われていたが、その実アシリパの献身と無性の愛を受けて、勇作が尾形に向けていた親愛を再認識したからであった。

求めても愛を与えてくれなかった母親の殺害という原罪(母への愛情故の父への試し行為)への罪悪感を押し込めるため作り上げた「罪悪感を感じない欠けた存在」としての仮面は、尾形を罪悪感から守るが「愛されることのない無価値な生(祝福されない)」という自己評価を強調するものとなった。ここで尾形の中で「罪悪感の欠如=無価値」という図式ができてしまった。「愛されなかったから罪悪感がない」とは「罪悪感があれば、母を殺さなかった。殺したということは罪悪感がないから」ということになり「罪悪感がないような自分の存在は祝福されない無価値な生」となるというどちらに転んでも救われない負のループになってしまう。

尾形はこの負のループを脱却するために「罪悪感がない」ことと「無価値観」を必死に分離しようとする。戦場という内集団バイアス(味方を敵より優先する心理)による殺人への罪悪感の摩耗が「みんな罪悪感はない」という思考を助長したと考えられる。

しかし作品の回想を見ていると尾形はここでも宇佐美相手に罪悪感問答をしている。つまり戦場においても実は深層心理では罪悪感に囚われているということである(杉元や他の兵士と同様に)。尾形がそれを器用に割り切れないのは、戦争殺人の延長に上記の原罪があったからに他ならない。

「祝福された価値ある生」を持つ勇作との出会いも深く関連している。勇作の存在自体が、尾形の無価値観を助長するからである。そのため勇作殺害という尾形にとっての2度目の大罪を犯してしまったといえる。

さて、最新話で、尾形は勇作からの親愛をしっかり自覚していたと判明。

本来これは「愛されなかった自分の無価値感を否定」する喜ばしい事態のはずである。

しかしそこに自分の境遇と対比するような勇作という価値ある存在への嫉妬心と敵愾心があったがために、尾形は素直に愛を受容することができなかったのだ。

勇作殺害は尾形の無価値観と罪悪感をより強く結びつける。勇作の愛を自覚してしまうとその親愛を踏み躙って殺害をしてしまった罪悪感を認めることになるからである。

またもし、尾形が勇作の愛を受け自らも実は親愛の情を持っていたとするならば、勇作殺害は自らの罪悪感を認め、自分がまともであると認識するための試し行為の側面もあったのかもしれない。

結果はご存知の通り、重すぎる罪悪感に耐えられず、より強く「罪悪感を感じない欠けた存在」という仮面に依存しなければならなくなるという更なる歪みへと陥ってしまった。

そこからの尾形は本稿で論じた通り、虚無の証明という破滅に奔走することになる。

アシリパとの交流と親愛は尾形の罪悪感の自覚を促した。罪悪感の自覚は、原罪である「母親殺害」の過ちを改めて自省させ、かつて尾形が勝手に作り上げた「罪悪感の欠如=無価値観」の公式から逆に「罪悪感を感じる自分は、欠如のない愛された普通の人間であった可能性」に気づかせたのである。

尾形の自決は諸氏さまざまな感想を持つと思うが、気づいたこれまでの過ちや罪悪感(父母殺害、勇作殺害、日露戦争をはじめとするあらゆる殺人、アシリパの殺害未遂)の重さに耐えきれず崩壊寸前の自我の最後の尊厳を守る為の自殺だろう。

これだけみるとなんとも哀れに思えるが、脳内問答での子供の尾形の「ああ、でも、よかったなぁ」という呟きが全てではなかろうか。

生まれてこの方、愛されずに生まれて否定され続ける自分の生の意味を探していた尾形にとって、逆説的にでも父母の愛情の発見という〈祝福〉を得て自分の生に意味があったと思えたことは、救われたといっても良いのかもしれない。

尾形というキャラクターは構造が複雑で、本当に考察しがいがあって面白いですね。

 

 

▼まとめで尾形のキャラクターがどのような役割なのかの考察を長々入れました。

【漫画考察】近代国家の迷い子たち まとめ - エウレカの憂鬱

 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 3/3

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※本ページのみ未単行本のネタバレあり。

天から役目なしに降ろされた物はひとつもない

勇作に続き尾形の思考を否定する2人目の人物はお分かりの通りアシリパである。

「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」というアイヌの教えは、「全てに価値はない」という尾形の思想と真っ向から対峙するものである。それだけではなくアシリパの存在自体が、尾形に自らの思想を否定させようとしている。

尾形は深層心理下でアシリパに価値を見出していると思われる。それは偶像としての価値ではなく、自らに愛を与えてくれる、自分に価値を見出してくれる存在として、である。これは本来尾形が母に与えられたかったもので、心の底で求め続けていたものだ。

尾形は作中で「ヒンナ」「チタタプ」を口にしたことが一度だけある。読者はそれを、まず尾形が心を開いた描写と捉え、その後その裏切りによってアシリパから金塊のありかを聞き出すための演技であったかと肩を落としたことだろう。しかし私はこれをやはり絆された証であると、再度定義してみる。

その根拠は札幌で尾形がアシリパの狙撃を無意識に躊躇う(勇作の出現)シーンである。尾形が合理主義者であるため「道理に欠ける殺人である」から躊躇った、という理由では弱い。彼は札幌で浮浪者を身代わりにし、函館で機関士を射殺している。そこに道理はない。単純に尾形はアシリパを撃ちたくないから撃たなかっただけなのだ。

アシリパは尾形に価値を与えた。風邪をひいた時も熱心に看病してくれるし、釧路のコタンでは唯一尾形を信用してくれるなど、「出来損ないで、呪われた」その存在を肯定してくれる。そして彼の狩りを褒め、獲物を受けとり調理し与える。尾形の獲物がアシリパ(と他の仲間)の腹を満たし、命を繋ぐ。アシリパと同行している時だけ、尾形は自分に価値を感じたのではないか。

しかし残念なことに尾形が杉本のように素直に自分の価値を再認識して救われることはない。

はじめにその理由を尾形が近代合理主義者でニヒリストであるからと定義し、ここまでにそのニヒリズムと合理主義の根源に「母に愛されなかった事実、罪悪感、自分の無価値感」の否定があると説明してきた。

本来の目的(現段階で明かされる限りは金塊の見返りに母の愛した師団長の席に座り、その席が無価値であると再認識したいため)の途中、アシリパアイヌの思想に絆されかけた尾形だが、樺太で風邪にうなされる中で自らの罪悪感を再認識したこと(あるいはここで初めて勇作の言葉の真意を理解してしまったのかもしれない)で再び虚無の証明に縋ってしまう。

そしてアシリパからの「やはり信用できない」という否定をもってして、「やはり俺ではダメ」と彼は再び自らの価値を否定し呪われることになる。

 

尾形は救われるか

身もふたもない言い方をすれば、作劇の仕組み上「救われる」だろう。作中、鶴見中尉は乗り越えるべき、土方は背中で導く、それぞれ迷いのない絶対的存在であり、牛山や永倉、そして中盤からの谷垣も揺らぐことのない大人だ。対して杉元、尾形、白石、月島、鯉登、そしてアシリパは迷いの中で答えを探す途上の若者として描かれており、物語の帰結で彼らは何かしらの答えを得るはずだからである。

各単行本の折り返しに提示され続ける「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」というテーマは、陳腐な言い方をすれば「お前の命には意味があり、存在する価値がある」という意味である。これはもちろん主人公である杉元のための言葉であるが、批判を恐れず言うなら杉本の表裏である尾形のための言葉といえる。むしろこちらが本命と言ってもいいかもしれない。

尾形の思想や存在自体が物語のアンチテーゼであるため、尾形の結末には必ず「自分は欠けた存在として生まれ罪ある存在であるかもしれないが、それでも生まれてきたことに価値があったのだ」というアウフヘーベンが得られるはずなのだ。そしてその示唆を与えるのはやはり生きることに対し純然と肯定する人物、アシリパなのだろうと思う。

基本的に合理的で打算的、心に虚無主義を掲げた尾形が唯一、他人の感情に対して素直に良感情を向けたシーンがある。釧路の湿原でアシリパの杉本への恋心に気づいたときである。杉元の恋バナを聞きたくないために突然鶴の舞を始めたアシリパはその理由を聞かれ下手に誤魔化す。この一連のやり取りに尾形は「ははっ」といういつもの笑いではなく、「ふっ」という微笑みが溢れたような笑いを見せている。ヤマシギのドヤ顔シーンと合わせて尾形の素の人間らしさが見られた貴重なシーンである。

これらは尾形が真正サイコパスである宇佐美と違い、ねじれまくって拗らせきっているもののただの人間だという証拠である(サイコパスではないが反対に英雄や聖人にもなれない)。杉元が「忘れてしまった人間性」を思い出させてくれるのがアシリパなら、尾形にとっては「与えられず得られなかった人間性」を教えてくれるのがアシリパなのかもしれない。

精神的な救いは与えられても、肉体的にはやらかしすぎて先がなさそうな尾形であるが、せめて一瞬でも祝福を得られる瞬間があると良いなと、ここまで考察してきた身としてはフィクションながら願ってしまう。

ともあれ、この先は物語の行く末を待って結論づけられることだろうと思うので、結末を楽しみにしておく。

 

 



 

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 2/3

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尾形は完全な合理主義者にはなれない

そんな尾形に自分の矛盾を意識させる思考のターニングポイントを与えた人物は2人おり、その1人目が腹違いの弟勇作である。

勇作は尾形に親愛を向けるが、尾形は勇作に対して嫉妬の感情を持ちそのことで両者の人格の違いを思い知らされる。

彼が清廉な存在であるほどに、さらには罪(戦争殺人)を犯さなくて済んでいるのは「愛され望まれた存在」であるからと考えざるを得なくなるからである。 

尾形は最終的に自分の存在意義を実証するために勇作を射殺してしまうが、その結果否定したい自らの自己認識を補強する形となり、自らの嫉妬による道理なき勇作の殺害は、無意識の罪悪感としてその後尾形を苦しめ続けることになる。

本作では鶴見中尉を中心に聖書関連のモチーフがよく使われており、中でも尾形の一連の尊属殺人エピソードは旧約聖書の「アベルとカイン」に基づいて形成されていることに注目したい。

尾形はもちろんカインであり、自らの獲物(供物)を母に受け取ってもらえず、祝福された弟・勇作を殺害、父より呪われる。カインと違い、尾形は父花沢中将を殺害してしまう。

尾形の青年期である兵役時代まではモラトリアム期、いわゆるなぜ自分は生まれながらに愛されないのか、なぜ世界は平等でないのか等の普通の悩みを抱えていた時期である(行動が普通ではないしにろ)。

その青年期の終わりは、言わずもがな花沢中将の呪いの言葉である。

尾形の「自分にも祝福された道はあったか」という問いに対し「呪われろ」という拒絶の言葉を返されたことにより、「自分には祝福された道はなかった」という自らの無価値観を再認識するという帰結にて彼のモラトリアムは終止符を打つ。これは神やら愛といった尾形曰くひどく曖昧な、また彼が生来実感できなかった存在との永遠の訣別を意味する。

 

尾形は超人になれるか

ここから尾形の思考はニヒリズムの色を濃くしていく。ニヒリズム虚無主義)とは、従来の価値観を失い信じられるものがなくなった「よすがのない」状態である。

哲学者のニーチェは、このニヒリズムを肯定的に捉え、従来の無意味な価値観の中で、自らの強い意志と力で新たな価値観を規定し突き進む「よすがを必要としない」一握りの人間を「超人」と呼んで推奨した。ニーチェによれば愛や道徳、思いやり、信仰などは、超人になれなかった弱い群衆が自分たちの抱える妬み嫉みの感情(ルサンチマン)を慰めるための欺瞞であるという。尾形の生き方はまさにこの超人街道まっしぐらに見えなくもない。

確かに尾形は樺太でキロランケの「カムイレンカイネ(神のおかげ)」という言葉を真っ向から否定し、食物となった神への感謝であるヒンナやチタタプを言わず、自分と近代兵器であるライフルのみを信頼している。

この超人としての生き方が体現できれば尾形はさぞ楽だろう。自分で自分を正しいと規定できれば、過去の罪悪感やルサンチマンに苛まれなくて済むのだから。

しかし結論からいえば尾形は超人になることは難しいだろう。

尾形にとってのこのニヒリズムは、彼がすがった近代合理主義の代わりだからである。

尾形は愛を希求するも得られず、それらと断絶された状態から自らを守るために合理主義の武装をするも、これも勇作により剥がされる。

そうして残るのは「永遠に得られぬ母の愛、罪悪感、自らの無価値感」である。

尾形にはこれを直視し肯定することはできない。その証左に母に愛されなかったトラウマに囚われ、「親殺しは通過儀礼」と嘯いたり、自らの存在否定(銃を突きつけられる等)に激昂したりし、勇作殺害の罪悪感に押しつぶされるように彼の亡霊を幻視したりしている。 

全てに価値を見出せなくなることがニヒリズムだが、尾形にとって無価値に思えるのは自分自身だけなので、もはや尾形が解放されるのは、世の中の全ては価値がない(虚無)と確信できるその時だけなのだ。

 

世の中の全てに価値がない、この思想と真っ向から対峙するのがアシリパアイヌの教えである。

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 3/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

※以下最新話までのネタバレが少しあります。

 



【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 1/3

裏の主人公ともいえる尾形

杉元と対になるよう設置された物語の裏の主人公格ともいえる狙撃手の尾形百之助。

尾形も谷垣と同じく日露戦争を経験した第7師団の兵士である。元師団長の妾腹として生まれ、幼少期、父に捨てられ精神を病んだ母親を、葬式ならばさすがの父も会いに来てくれるだろうという思いで殺害し、軍属となってのちは正妻の息子である弟の勇作を戦場で射殺、父親の偽装自殺の陰謀の実行犯となった過去を持つ。

尾形は愛されず存在を否定され続けた人物である。

狂った母親は尾形を見ることはなく、父親も葬式に現れない。自分に好意を持ってくれた弟は、父母や世間に愛された存在であり、最後は尾形の人間性を否定し(たと尾形は認識している)、今際の際の父親も彼に愛ではなく呪いの言葉をぶつける。


尾形は自分を殺人に対する罪悪感を持たない人間性の欠けた存在であると認識しているが、無意識下では罪悪感を封印し、欠けた部分(与えられなかった愛や存在の肯定)を渇望しているような節がある。それはフチの子守唄のシーンで尾形の寝顔がオーバーラップするコマ等からも読み取れる。

 

アシリパは、尾形にその欠けた部分を与える。

尾形に見向きもしなかった母の代わりに獲物を仕留める尾形を褒め、その獲物で食事を与える。

尾形もまた杉元と同様、アシリパアイヌ文化)による肯定を受けることで生まれ変わるように物語上定められた人間である、はずだが、それは未だ為されていない。

 

その理由は尾形が強い近代合理主義的な思想の持ち主でありニヒリストであるからで、その渇きの根源には愛の不在があると考えられるからである。


尾形は近代合理主義者か

尾形はまさに実証・合理性をその信条としている。

尾形に鶴見中尉の洗脳が効かなかったのは、その手法が擬似キリスト教的な愛と信仰に基づいていたからに他ならない。

loveという意味での「愛」は明治期に輸入された言葉であり、中でも尾形がよく言及しているのは広義の意味でのアガペー「無償の愛」である。尾形は幼少期にこの「無償の愛」を獲得することができなかったがために神も愛もまたうまく理解することが出来ないのである。作中で彼はそのままそれを祝福されなかったと言及している。

啓蒙主義の内省としてロマン主義が生まれたように、合理的な思考は、時に本来人間の持つ感情を置き去りにしてしまうという欠点があるが、本来の感情をうまく認識・処理できない尾形は、それと気づかず成長してしまう。ゆえに傍目にはその人物像が無機質に映るのである。

尾形というキャラクターのいびつさは、近代的な合理主義のなかでその感情を処理しきれないジレンマに起因している。


前述したように尾形は罪悪感を感じないのではなく封印している節がある。

彼が罪悪感はないと自称しているのは、「道理(あるいは法)の上での行いは許容される」ゆえに「罪は存在しない」従って「罪悪感を感じることはあり得ない」という証明に基づいているからである。

しかし自分が「何かが欠けた存在(正常ではない)」であるのは愛を与えられなかったからであるという花澤幸四郎への尾形の独白や、自分の思考の正しさについて宇佐美に確認していることからも、実は罪悪感を感じない自分に対する違和感(あるいは無意識の罪の意識)を持っていることが伺える。


尾形が無意識下に閉じ込めている願望と後悔のその中心はやはり母親にあるだろう。

「母に愛された存在として産まれたかった」

「自分を妊娠したせいで愛する男に捨てられ不幸になった母への罪悪感」

「そんな母を見兼ねて殺してしまった罪悪感」

花澤幸四郎への独白の時点で「愛されず望まれず生まれた自分はそもそも道理のない存在であるから、生まれながら正しくなく容易に罪を犯す存在」という自己認識を口にしている。

しかしながら、そんな認識のままでは人間はまともな精神で生きていくことができず、特に尾形に関しては、自分の母殺しという原罪に直面せざるを得ない。

よって、

「実証できない愛は人間の価値基準とはならず、全ての人間は平等でなければならない。道理の上の行いならば殺人だろうとそこに罪は発生しない」という理性主義的な生き方を信じることで自身の存在価値を死守する必要があったのである。

つまり尾形というキャラクターの言動は、常に二つ以上の意味(未発達の本心とそれを理性的に解釈した思考)を持っていると考えて良いだろう。そしてそれはどちらも無意識に自分の存在価値を守るために機能している。

大変複雑な興味深いキャラクター造形である。

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 2/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』杉元佐一 近代国家の迷い子たち①

ゴールデンカムイに今更ながらはまってしまい、単行本も揃えて連日読んでいる。

本作は日露戦争後の日本の北海道を舞台に、アイヌの隠し金を探す物語である。

しかも北鎮部隊や203高地、網走監獄の囚人たち、五稜郭で敗れた旧幕軍の残党、そしてなにより今より遥かに豊かな北海道の自然林とそこに根ざしたアイヌの豊かな文化が絡んでくるロマンあり、アクションあり、ギャグありの群像劇である。野田さとる氏の描くキャラクターたちの複雑な人物描写もとても魅力的だ。

ということで今回はゴールデンカムイについて物語の構造を深読みしてみたい。

もちろんこれはゴールデンカムイという素晴らしい物語のただの一側面であり、個人的な考察であることを念頭に見ていただきたい。

ちなみにネタバレは最新28巻までとし、極力アニメの最新話までにとどめようと思う。

 

アシリパの役割

この物語の主人公は元軍人の杉元佐一であるが、物語の軸となるのはアイヌの少女アシ(リ)パ(リはrという母音のない発音で小文字表記のため。以下アシリパと表記)である。

アシリパは杉元に北海道の自然での生き方を助け、アイヌ民族の生き方を紹介するヒロイン兼ナビゲーターとして登場する。

まず自然の中で生きるアイヌ民族は、弥生時代以降の農耕を主軸とする大和民族に対し、狩猟採集を生活基盤とする汎神教的な信仰を持つ人々であり、古代の縄文文化を色濃く残す人々といえる。

構造的に主人公たちは北海道の大自然の中では、知恵も知識もない弱い子供のような存在であり、アシリパがそんな彼らを導く親のような存在として描かれることが、この作品の面白いポイントの一つである。

アシリパはその見た目はいたいけな少女でありながら、北海道の大自然で身の処し方を知らない主人公たちを導き守る存在として描かれており、料理を食べさせ、生命を養う母性と、獲物との向き合い方など知恵を与える文化的な父性の役割を同時に担う存在である。

彼女がアイヌ文化の思想においては一切の迷いを見せないのは、誤解を恐れず言うのであれば、彼女がアイヌ文化(縄文的な文化体系)を具現化したキャラクターであるからといえる。

本作は、狩猟採集文化である縄文時代から始まり、渡来系文化である稲作文化を中心とした農耕民族として文化を確立していった日本が、明治維新により新たに踏み出した近代化の中で、世界で初めて経験した近代戦争である「(日清・)日露戦争」。その戦争により人間性を失ってしまった者が豊かな縄文文化アイヌ文化)の中で人間として生まれ直す物語とも読むことができるのだ。

 

戦争から戻れない男・杉元

主人公である元軍人の杉元佐一は、不死身の杉元と呼ばれ、日露戦争の旅順攻略戦の白襷隊(所謂決死隊でほぼほぼ戦死)の戦闘でも生き延びた戦闘力と生命力の持ち主である。

故郷で家族を亡くした結核による村八分から、幼馴染との結婚を諦め親友に譲り、軍に入った男である。しかしその親友は同じ戦場で戦死、彼の遺言を伝えに帰った故郷で目を患った幼馴染に、自分を幼馴染の杉元と認識してもらえなかったことが、戦争の殺戮を経て己がかつての人間性を失ってしまったという心の傷となっている。現に杉元は、命の危険が迫る事件に遭遇すると瞬時に殺戮スイッチ(一種のPDSDか)が入り、どんな相手であろうと躊躇なく殺し、仲間をも恐怖させるというシーンが劇中重ねて登場する。

本来の杉元は多少の気性の荒さはあれど、動植物を愛でたり他人を気遣うこともできる優しい青年であるため、この殺戮スイッチは日露戦争の後遺症だと考えられる。つまり杉元は戦争から帰れず人間性を失った人物なのである。

アシリパはそんな杉元にアイヌの狩りを教える。それは獲物との向き合い方、殺して食べる獲物に対する尊敬である。本来あるべき命のやり取りである狩猟と食事により、戦争の殺戮で失ってしまった生命の価値を再定義したのである。彼女の教える自然の中で共に生きる文化は、彼を肯定し、再び生きる力を与える。

本作のテーマのひとつが、杉元の人間としての再生といえる。

戦争で傷を負ったキャラクターが北海道の自然とアイヌ文化の中で再生するというテーマは、第7師団の谷垣源次郎というキャラクターにおいてすでに端的に描かれている。

彼は脱走囚人である熊撃ち名人の二瓶鉄造により本来の生業であるマタギの生き方を思い出し、その後アイヌコタン(アイヌの集落)での療養と交流を経て本来の人間性を取り戻している。構造的に谷垣はコタンを出た時点で生まれ直しが完了しているため、人間として次のステップに進むことが許されたといえるのだ。

 

アイヌマタギの教えは円環の思想である。

アイヌの考え方では、カムイたちは地上世界に獣の姿をしてやってきて、人に喰われたのちまた神の世界に戻りを繰り返し恵みを与える存在であり、人間の魂もこの世とあの世を循環するものと考えられている。

二瓶の言葉を借りるなら、獣と戦い、負けたならその獣に喰われ、糞として大地に還ることである。

ここに自然の大きなサイクルのなかの一部として個人の生を捉える循環の思想が読み取れる。

杉元はかつて家族を結核で失っており、その結核が原因で村八分になっている。共同体というサイクルから弾かれ、戦争を経て再び故郷で否定されてしまった杉本に対して、アシリパは再び生命の循環という大きな共同体の一部として受け入れられているという示唆を与えたのである。

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 1/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

 



 

【漫画考察】『進撃の巨人』リヴァイ兵長の人気と日本人的英雄像

進撃の巨人の人気キャラクターである、リヴァイ兵長。もちろん私もこのキャラクターが大好きである。

リヴァイ兵長といえば人類最強の兵士だが、小柄で刈り上げで三白眼で口が汚く暴力的で潔癖症という字面だけ見ると最初の一文以外イマイチなキャラクターにも思える。でも実際は大人気。

では何故世の中の人がこのリヴァイ兵長に魅力を感じるのか。リヴァイのかっこよさについては巷に多くの記事があるので、今回はそこではあまり描かれない側面から魅力を探ってみたい。

もくじ
1.外見的な魅力
   ①日本人的強キャラはチビ?
 ②リヴァイ兵長の元祖は牛若丸
 ③リヴァイ兵長=世界の中の日本人
2.性格的な魅力
 ①作中屈指の仕事人
 ②人類最強の中間管理職
3.構造的な魅力
 ①キャラにギャップを重ねると人間になる
 ②対象ごとに刺さるアンカー

○前提条件として

まずは、明らかな人気の理由をここで挙げる。

  • 強い
  • 仲間想い
  • クール

人類最強で、英雄とも呼ばれる作中最強人物で、死にゆく仲間の手を握り巨人の絶滅を誓うシーンなど、仲間を大切にする描写は印象的。ただ、強いけれど仲間想いが人気なことに理由はいらないのはご存知の通りだろう。

また強くてクールという特徴も人気の定番である。クールである部分に余裕を感じるので「強さ」が倍増して見えるのが理由だろう。クールなキャラクターは冷徹に見られがちなので実は仲間想いというのはベタだが王道のギャップである。

ただし、これは多くの作品の人気キャラクターに共通するもので余り考察の余地はなさそうである。王道の設定は人気がK点突破する直接的理由ではないからだ。

それ以外で魅力を探ってみることにしよう。

 

1.外見的な魅力

①日本人的強キャラはチビ?

まずリヴァイの外見的特徴から考えてみよう。

身長は160センチと成人男性としては小柄な方である。三白眼気味で人相は悪め、軍人らしく後ろは刈り上げているも前髪はさらりとしたターミネーター2エドワード・ファーロング系(笑)である。クラバックという貴族風の襟飾をつけておりハンカチを持ち歩くなど身だしなみはしっかりしているようだ。

小柄なやつ(余り強そうではないやつ)が強いというのは日本の古代からのお約束である。 『古事記』のヤマトタケルは敵地潜入の際女装をしており、見た目から敵の油断を誘っている描写であり古代の英雄像がゴリマッチョではなかったと分かる。

源平合戦で大きな戦果を挙げた源義経も小柄な男であると描写される。

昔話の『お伽草子』の「一寸法師」、『金太郎』、馬琴の『南総里見八犬伝』などは明らかで、小さいもの、一見か弱そうな者が大きなものを打ち倒すという日本人独特の〈小さ子〉に対する信仰がよく見える。これは民俗学でいう小さい者(子供・背丈の低い者・か弱い者)には神の霊威があり、強大な力を持っているという考え方である。

日本のアニメや漫画では欧米に比べて戦う少年少女が圧倒的に多いと云われるが、その根底にはこの〈小さ子〉信仰が流れており、小さいのに、ではなく小さいから強いという考え方があると考えられる。

現代の漫画にも引き継がれており、代表的なところで『幽遊白書』の飛影、『H×H』のキルア、『BLEACH』の日番谷冬獅郎、『るろうに剣心』の剣心、『ヴィンランドサガ』のトルフィンなどがそうだろう。

剣心を除いてチビでクールで目つきが悪いというテンプレをベース(あくまでキャラ造形の基盤)に持っており、リヴァイもこのテンプレを踏襲しているといえる。

絵面的にもダイナミクスがあって良い。

 

②リヴァイ兵長の元祖は牛若丸?

リヴァイ兵長の造形で最も元祖として似つかわしいのは飛影では無く、先述した源義経の子供の頃でもある『牛若丸』だろう。

牛若丸は〈小さ子〉信仰にのっとった前髪の残る(元服前)の小柄で身軽な少年英雄であり、大男の弁慶を軽く打ち負かす強者であると同時に、源義朝の遺児として迫害を受け鞍馬山に出家に出された貴種である。

リヴァイ兵長は年齢こそ30代のおっさんだが、小柄で一見華奢(着痩せタイプ笑)、身軽に飛び回り巨人を倒している。

一見ジョンコナー風のあのツーブロは、元服前の前髪や若衆髷を想起させないこともない。

地下街のごろつき上がりという割に、クラバックという襟飾や身だしなみの清潔さ、趣味は紅茶など気品がありそうな特徴を持っており、ストーリーが進むと明らかになる出自では、王家の武家だったが迫害を受けて隠れ住むようになったアッカーマンという一族の末裔であると判明する。

牛若丸は成長して義経と名乗り、源平合戦で多大な成果を挙げた英雄となる。

これも進撃の巨人世界で巨人を倒し人類を救う英雄として描かれるリヴァイと重なる。

 

③リヴァイ兵長=世界の中の日本人

日本人含むモンゴロイド(アジア人・黄色人種)は人種的特徴でいえば、コーカソイド(白人)・ネグロイド(黒人)と比べて小柄で線が細く、目鼻立ちもほっそりして小ぶり、比較的童顔といって良い。

進撃世界の日本人枠のヒィズル国人はキャラクター的にミカサであるが、イメージ的にはリヴァイが担当していると思われる。

リヴァイは小柄で目は比較的細め、童顔で黒髪である。同年代のエルヴィン、ハンジら始め他のエルディア人のキャラクターがコーカソイド的特徴を外観に強く持っている(また後半で出てくるオニャンコポンはネグロイド系の造形)ため、集合絵では、一見欧米人に囲まれたアジア人に見えてしまう。

そんなリヴァイが無双するという部分にある種のロマンを抱くことは、恵まれた体躯が全てではない小さ子信仰の土壌もあり日本人には受け入れやすいだろう。

 

2性格的な魅力

①作中屈指の仕事人

シンゴジラ』は欧米で不評だったが、その理由は主人公たちの背景(家庭・内面)の描写が薄かったという部分がある。日本においては労働とそれ以外の区別が明確ではなく、仕事が時として生き様を表していることも多い。リヴァイはその仕事が生き様を表す典型である。

言動が荒いため、初見では強調性がない一匹狼的なキャラクターを想像するが、実際は集団主義の中で己の役割を理解し全うする職人肌で、スタンドプレーをしないキャラクターである。

情が深い描写を描きながらも、大局を見て時には冷静冷酷な判断が下せる人物でもあり、よくある仲間想いのキャラクターとは一味違った理性的な大人の苦味を含んだ魅力として描かれている。

己を殺し全体(人類)を生かすために粉骨砕身する姿のストイックさに魅力を感じる人は多いだろう。

②人類最強の中間管理職

上司にしては仕事をしっかりとこなし、自分の役割をきっちり把握して、上司が間違ったら面子は守りつつ諫言をし、時には汚れ役も引き受けてくれる信頼のおける部下である。

逆に部下に対しても常にケアを怠らない気遣い上手として描かれている。

それが最もよく表されているのが、ジャンが殺人を躊躇った事でアルミンが初めて殺人を行った有名なシーンである。

殺人を後悔するアルミンに対しては、事実は変わらないと諭し、そのおかげで仲間が生き残ることができたと感謝を告げ重荷を降ろさせ、同じく殺せなかった後悔をするジャンには、自分の失態を受け入れるよう諭し、殺人を躊躇った判断を否定せず、考え方が固定してしまわないようにフォローした。

人類最強という肩書きと一見粗暴な言動の裏で、鎌倉から続く封建社会意識のまだわずかに残る日本のサラリーマン的な(それもベンチャーの社長や自由な熱血新人ではなく中間管理職)立ち位置での有能さがキャラクターに深みを与えているといえる。

 

3構造的な魅力

①キャラにギャップを重ねると人間になる

ここまでくればお分かりだろう、リヴァイ兵長の魅力はギャップといえよう。

  • 人類最強→なのに小さい
  • 粗暴→協調できる大人
  • クール→場合によっては気遣いもできる
  • 見た目若く天才風→歴戦のおっさん兵士

これらは矢印の前と後どちらかだけでは大した魅力にならない。

前半はただのテンプレキャラであるし、後半はただのモブキャラである。

これがいわゆる不良と捨て犬の法則であり、ギャップによって一気にキャラクターが深まる。

しかもリヴァイはここにさらにもう一段「かわいげ、人間臭い欠点」というトッピングをしている。

  • 人類最強→なのに小さい→チビをちょっと気にしている
  • 粗暴→協調できる大人→でも口下手で冗談がつまらない
  • クール→場合によっては気遣いもできる→潔癖で掃除に小うるさい
  • 見た目が若く天才風→歴戦のおっさん兵士→掃除の時はエプロンと三角巾

そこにさらに「多くの仲間を失って、彼らの命を背負って苦闘を続ける」という悲劇性で包む。

この何層にも及ぶギャップのミルフィーユにより、リヴァイ兵長というキャラクターが、キャラというよりもはや人間として魅力的に感じられる構造になっている。

 

②対象ごとに刺さるアンカー

ここまで多重構造になると間口が恐ろしく広くなるだろう。

少年たちには、人類最強、クールな吊り目キャラというだけでもう厨二心をくすぐられる魅力的なキャラだろう。

女性的には強いのに小さい、清潔そう、実は優しいなどギャップだらけなので母性本能や乙女心にアンカーが突き刺さること間違いなし。

また、BL好きの女性にとっては、リヴァイ兵長の身近に配置されたエルヴィンという上司、またはエレンという部下のそれぞれの主従関係というブロマンス的なポイントがあるようだ。

そして社会人にはリヴァイの仕事人としてのストイックさや部下への情の描写が憧れるポイントだろう(私も部下になりたい!)

 

○まとめ

リヴァイ兵長の魅力を自分なりに分析してみたが、当てはまった方はいただろうか。

 

ストーリーも示唆に富み、キャラクターも魅力的な『進撃の巨人』、これを機会にまたリヴァイ兵長のかっこよさを読み直して再確認してみてほしい。

 

ちなみに私はアニメより原作派。

原作の兵長は圧倒的に渋カッコよく見えるので好きです。