エウレカの憂鬱

音楽、映画、アニメに漫画、小説。好きなものを時折つらつら語ります。お暇なら見てよね。

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 2/3

前へ【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 1/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

尾形は完全な合理主義者にはなれない

そんな尾形に自分の矛盾を意識させる思考のターニングポイントを与えた人物は2人おり、その1人目が腹違いの弟勇作である。

勇作は尾形に親愛を向けるが、尾形は勇作に対して嫉妬の感情を持ちそのことで両者の人格の違いを思い知らされる。

彼が清廉な存在であるほどに、さらには罪(戦争殺人)を犯さなくて済んでいるのは「愛され望まれた存在」であるからと考えざるを得なくなるからである。 

尾形は最終的に自分の存在意義を実証するために勇作を射殺してしまうが、その結果否定したい自らの自己認識を補強する形となり、自らの嫉妬による道理なき勇作の殺害は、無意識の罪悪感としてその後尾形を苦しめ続けることになる。

本作では鶴見中尉を中心に聖書関連のモチーフがよく使われており、中でも尾形の一連の尊属殺人エピソードは旧約聖書の「アベルとカイン」に基づいて形成されていることに注目したい。

尾形はもちろんカインであり、自らの獲物(供物)を母に受け取ってもらえず、祝福された弟・勇作を殺害、父より呪われる。カインと違い、尾形は父花沢中将を殺害してしまう。

尾形の青年期である兵役時代まではモラトリアム期、いわゆるなぜ自分は生まれながらに愛されないのか、なぜ世界は平等でないのか等の普通の悩みを抱えていた時期である(行動が普通ではないしにろ)。

その青年期の終わりは、言わずもがな花沢中将の呪いの言葉である。

尾形の「自分にも祝福された道はあったか」という問いに対し「呪われろ」という拒絶の言葉を返されたことにより、「自分には祝福された道はなかった」という自らの無価値観を再認識するという帰結にて彼のモラトリアムは終止符を打つ。これは神やら愛といった尾形曰くひどく曖昧な、また彼が生来実感できなかった存在との永遠の訣別を意味する。

 

尾形は超人になれるか

ここから尾形の思考はニヒリズムの色を濃くしていく。ニヒリズム虚無主義)とは、従来の価値観を失い信じられるものがなくなった「よすがのない」状態である。

哲学者のニーチェは、このニヒリズムを肯定的に捉え、従来の無意味な価値観の中で、自らの強い意志と力で新たな価値観を規定し突き進む「よすがを必要としない」一握りの人間を「超人」と呼んで推奨した。ニーチェによれば愛や道徳、思いやり、信仰などは、超人になれなかった弱い群衆が自分たちの抱える妬み嫉みの感情(ルサンチマン)を慰めるための欺瞞であるという。尾形の生き方はまさにこの超人街道まっしぐらに見えなくもない。

確かに尾形は樺太でキロランケの「カムイレンカイネ(神のおかげ)」という言葉を真っ向から否定し、食物となった神への感謝であるヒンナやチタタプを言わず、自分と近代兵器であるライフルのみを信頼している。

この超人としての生き方が体現できれば尾形はさぞ楽だろう。自分で自分を正しいと規定できれば、過去の罪悪感やルサンチマンに苛まれなくて済むのだから。

しかし結論からいえば尾形は超人になることは難しいだろう。

尾形にとってのこのニヒリズムは、彼がすがった近代合理主義の代わりだからである。

尾形は愛を希求するも得られず、それらと断絶された状態から自らを守るために合理主義の武装をするも、これも勇作により剥がされる。

そうして残るのは「永遠に得られぬ母の愛、罪悪感、自らの無価値感」である。

尾形にはこれを直視し肯定することはできない。その証左に母に愛されなかったトラウマに囚われ、「親殺しは通過儀礼」と嘯いたり、自らの存在否定(銃を突きつけられる等)に激昂したりし、勇作殺害の罪悪感に押しつぶされるように彼の亡霊を幻視したりしている。 

全てに価値を見出せなくなることがニヒリズムだが、尾形にとって無価値に思えるのは自分自身だけなので、もはや尾形が解放されるのは、世の中の全ては価値がない(虚無)と確信できるその時だけなのだ。

 

世の中の全てに価値がない、この思想と真っ向から対峙するのがアシリパアイヌの教えである。

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 3/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

※以下最新話までのネタバレが少しあります。

 



【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 近代国家の迷い子たち② 1/3

裏の主人公ともいえる尾形

杉元と対になるよう設置された物語の裏の主人公格ともいえる狙撃手の尾形百之助。

尾形も谷垣と同じく日露戦争を経験した第7師団の兵士である。元師団長の妾腹として生まれ、幼少期、父に捨てられ精神を病んだ母親を、葬式ならばさすがの父も会いに来てくれるだろうという思いで殺害し、軍属となってのちは正妻の息子である弟の勇作を戦場で射殺、父親の偽装自殺の陰謀の実行犯となった過去を持つ。

尾形は愛されず存在を否定され続けた人物である。

狂った母親は尾形を見ることはなく、父親も葬式に現れない。自分に好意を持ってくれた弟は、父母や世間に愛された存在であり、最後は尾形の人間性を否定し(たと尾形は認識している)、今際の際の父親も彼に愛ではなく呪いの言葉をぶつける。


尾形は自分を殺人に対する罪悪感を持たない人間性の欠けた存在であると認識しているが、無意識下では罪悪感を封印し、欠けた部分(与えられなかった愛や存在の肯定)を渇望しているような節がある。それはフチの子守唄のシーンで尾形の寝顔がオーバーラップするコマ等からも読み取れる。

 

アシリパは、尾形にその欠けた部分を与える。

尾形に見向きもしなかった母の代わりに獲物を仕留める尾形を褒め、その獲物で食事を与える。

尾形もまた杉元と同様、アシリパアイヌ文化)による肯定を受けることで生まれ変わるように物語上定められた人間である、はずだが、それは未だ為されていない。

 

その理由は尾形が強い近代合理主義的な思想の持ち主でありニヒリストであるからで、その渇きの根源には愛の不在があると考えられるからである。


尾形は近代合理主義者か

尾形はまさに実証・合理性をその信条としている。

尾形に鶴見中尉の洗脳が効かなかったのは、その手法が擬似キリスト教的な愛と信仰に基づいていたからに他ならない。

loveという意味での「愛」は明治期に輸入された言葉であり、中でも尾形がよく言及しているのは広義の意味でのアガペー「無償の愛」である。尾形は幼少期にこの「無償の愛」を獲得することができなかったがために神も愛もまたうまく理解することが出来ないのである。作中で彼はそのままそれを祝福されなかったと言及している。

啓蒙主義の内省としてロマン主義が生まれたように、合理的な思考は、時に本来人間の持つ感情を置き去りにしてしまうという欠点があるが、本来の感情をうまく認識・処理できない尾形は、それと気づかず成長してしまう。ゆえに傍目にはその人物像が無機質に映るのである。

尾形というキャラクターのいびつさは、近代的な合理主義のなかでその感情を処理しきれないジレンマに起因している。


前述したように尾形は罪悪感を感じないのではなく封印している節がある。

彼が罪悪感はないと自称しているのは、「道理(あるいは法)の上での行いは許容される」ゆえに「罪は存在しない」従って「罪悪感を感じることはあり得ない」という証明に基づいているからである。

しかし自分が「何かが欠けた存在(正常ではない)」であるのは愛を与えられなかったからであるという花澤幸四郎への尾形の独白や、自分の思考の正しさについて宇佐美に確認していることからも、実は罪悪感を感じない自分に対する違和感(あるいは無意識の罪の意識)を持っていることが伺える。


尾形が無意識下に閉じ込めている願望と後悔のその中心はやはり母親にあるだろう。

「母に愛された存在として産まれたかった」

「自分を妊娠したせいで愛する男に捨てられ不幸になった母への罪悪感」

「そんな母を見兼ねて殺してしまった罪悪感」

花澤幸四郎への独白の時点で「愛されず望まれず生まれた自分はそもそも道理のない存在であるから、生まれながら正しくなく容易に罪を犯す存在」という自己認識を口にしている。

しかしながら、そんな認識のままでは人間はまともな精神で生きていくことができず、特に尾形に関しては、自分の母殺しという原罪に直面せざるを得ない。

よって、

「実証できない愛は人間の価値基準とはならず、全ての人間は平等でなければならない。道理の上の行いならば殺人だろうとそこに罪は発生しない」という理性主義的な生き方を信じることで自身の存在価値を死守する必要があったのである。

つまり尾形というキャラクターの言動は、常に二つ以上の意味(未発達の本心とそれを理性的に解釈した思考)を持っていると考えて良いだろう。そしてそれはどちらも無意識に自分の存在価値を守るために機能している。

大変複雑な興味深いキャラクター造形である。

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 2/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

 

 

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』杉元佐一 近代国家の迷い子たち①

ゴールデンカムイに今更ながらはまってしまい、単行本も揃えて連日読んでいる。

本作は日露戦争後の日本の北海道を舞台に、アイヌの隠し金を探す物語である。

しかも北鎮部隊や203高地、網走監獄の囚人たち、五稜郭で敗れた旧幕軍の残党、そしてなにより今より遥かに豊かな北海道の自然林とそこに根ざしたアイヌの豊かな文化が絡んでくるロマンあり、アクションあり、ギャグありの群像劇である。野田さとる氏の描くキャラクターたちの複雑な人物描写もとても魅力的だ。

ということで今回はゴールデンカムイについて物語の構造を深読みしてみたい。

もちろんこれはゴールデンカムイという素晴らしい物語のただの一側面であり、個人的な考察であることを念頭に見ていただきたい。

ちなみにネタバレは最新28巻までとし、極力アニメの最新話までにとどめようと思う。

 

アシリパの役割

この物語の主人公は元軍人の杉元佐一であるが、物語の軸となるのはアイヌの少女アシ(リ)パ(リはrという母音のない発音で小文字表記のため。以下アシリパと表記)である。

アシリパは杉元に北海道の自然での生き方を助け、アイヌ民族の生き方を紹介するヒロイン兼ナビゲーターとして登場する。

まず自然の中で生きるアイヌ民族は、弥生時代以降の農耕を主軸とする大和民族に対し、狩猟採集を生活基盤とする汎神教的な信仰を持つ人々であり、古代の縄文文化を色濃く残す人々といえる。

構造的に主人公たちは北海道の大自然の中では、知恵も知識もない弱い子供のような存在であり、アシリパがそんな彼らを導く親のような存在として描かれることが、この作品の面白いポイントの一つである。

アシリパはその見た目はいたいけな少女でありながら、北海道の大自然で身の処し方を知らない主人公たちを導き守る存在として描かれており、料理を食べさせ、生命を養う母性と、獲物との向き合い方など知恵を与える文化的な父性の役割を同時に担う存在である。

彼女がアイヌ文化の思想においては一切の迷いを見せないのは、誤解を恐れず言うのであれば、彼女がアイヌ文化(縄文的な文化体系)を具現化したキャラクターであるからといえる。

本作は、狩猟採集文化である縄文時代から始まり、渡来系文化である稲作文化を中心とした農耕民族として文化を確立していった日本が、明治維新により新たに踏み出した近代化の中で、世界で初めて経験した近代戦争である「(日清・)日露戦争」。その戦争により人間性を失ってしまった者が豊かな縄文文化アイヌ文化)の中で人間として生まれ直す物語とも読むことができるのだ。

 

戦争から戻れない男・杉元

主人公である元軍人の杉元佐一は、不死身の杉元と呼ばれ、日露戦争の旅順攻略戦の白襷隊(所謂決死隊でほぼほぼ戦死)の戦闘でも生き延びた戦闘力と生命力の持ち主である。

故郷で家族を亡くした結核による村八分から、幼馴染との結婚を諦め親友に譲り、軍に入った男である。しかしその親友は同じ戦場で戦死、彼の遺言を伝えに帰った故郷で目を患った幼馴染に、自分を幼馴染の杉元と認識してもらえなかったことが、戦争の殺戮を経て己がかつての人間性を失ってしまったという心の傷となっている。現に杉元は、命の危険が迫る事件に遭遇すると瞬時に殺戮スイッチ(一種のPDSDか)が入り、どんな相手であろうと躊躇なく殺し、仲間をも恐怖させるというシーンが劇中重ねて登場する。

本来の杉元は多少の気性の荒さはあれど、動植物を愛でたり他人を気遣うこともできる優しい青年であるため、この殺戮スイッチは日露戦争の後遺症だと考えられる。つまり杉元は戦争から帰れず人間性を失った人物なのである。

アシリパはそんな杉元にアイヌの狩りを教える。それは獲物との向き合い方、殺して食べる獲物に対する尊敬である。本来あるべき命のやり取りである狩猟と食事により、戦争の殺戮で失ってしまった生命の価値を再定義したのである。彼女の教える自然の中で共に生きる文化は、彼を肯定し、再び生きる力を与える。

本作のテーマのひとつが、杉元の人間としての再生といえる。

戦争で傷を負ったキャラクターが北海道の自然とアイヌ文化の中で再生するというテーマは、第7師団の谷垣源次郎というキャラクターにおいてすでに端的に描かれている。

彼は脱走囚人である熊撃ち名人の二瓶鉄造により本来の生業であるマタギの生き方を思い出し、その後アイヌコタン(アイヌの集落)での療養と交流を経て本来の人間性を取り戻している。構造的に谷垣はコタンを出た時点で生まれ直しが完了しているため、人間として次のステップに進むことが許されたといえるのだ。

 

アイヌマタギの教えは円環の思想である。

アイヌの考え方では、カムイたちは地上世界に獣の姿をしてやってきて、人に喰われたのちまた神の世界に戻りを繰り返し恵みを与える存在であり、人間の魂もこの世とあの世を循環するものと考えられている。

二瓶の言葉を借りるなら、獣と戦い、負けたならその獣に喰われ、糞として大地に還ることである。

ここに自然の大きなサイクルのなかの一部として個人の生を捉える循環の思想が読み取れる。

杉元はかつて家族を結核で失っており、その結核が原因で村八分になっている。共同体というサイクルから弾かれ、戦争を経て再び故郷で否定されてしまった杉本に対して、アシリパは再び生命の循環という大きな共同体の一部として受け入れられているという示唆を与えたのである。

【漫画考察】『ゴールデンカムイ』尾形百之助 1/3 近代国家の迷い子たち② - エウレカの憂鬱

 



 

【漫画考察】『進撃の巨人』リヴァイ兵長の人気と日本人的英雄像

進撃の巨人の人気キャラクターである、リヴァイ兵長。もちろん私もこのキャラクターが大好きである。

リヴァイ兵長といえば人類最強の兵士だが、小柄で刈り上げで三白眼で口が汚く暴力的で潔癖症という字面だけ見ると最初の一文以外イマイチなキャラクターにも思える。でも実際は大人気。

では何故世の中の人がこのリヴァイ兵長に魅力を感じるのか。リヴァイのかっこよさについては巷に多くの記事があるので、今回はそこではあまり描かれない側面から魅力を探ってみたい。

もくじ
1.外見的な魅力
   ①日本人的強キャラはチビ?
 ②リヴァイ兵長の元祖は牛若丸
 ③リヴァイ兵長=世界の中の日本人
2.性格的な魅力
 ①作中屈指の仕事人
 ②人類最強の中間管理職
3.構造的な魅力
 ①キャラにギャップを重ねると人間になる
 ②対象ごとに刺さるアンカー

○前提条件として

まずは、明らかな人気の理由をここで挙げる。

  • 強い
  • 仲間想い
  • クール

人類最強で、英雄とも呼ばれる作中最強人物で、死にゆく仲間の手を握り巨人の絶滅を誓うシーンなど、仲間を大切にする描写は印象的。ただ、強いけれど仲間想いが人気なことに理由はいらないのはご存知の通りだろう。

また強くてクールという特徴も人気の定番である。クールである部分に余裕を感じるので「強さ」が倍増して見えるのが理由だろう。クールなキャラクターは冷徹に見られがちなので実は仲間想いというのはベタだが王道のギャップである。

ただし、これは多くの作品の人気キャラクターに共通するもので余り考察の余地はなさそうである。王道の設定は人気がK点突破する直接的理由ではないからだ。

それ以外で魅力を探ってみることにしよう。

 

1.外見的な魅力

①日本人的強キャラはチビ?

まずリヴァイの外見的特徴から考えてみよう。

身長は160センチと成人男性としては小柄な方である。三白眼気味で人相は悪め、軍人らしく後ろは刈り上げているも前髪はさらりとしたターミネーター2エドワード・ファーロング系(笑)である。クラバックという貴族風の襟飾をつけておりハンカチを持ち歩くなど身だしなみはしっかりしているようだ。

小柄なやつ(余り強そうではないやつ)が強いというのは日本の古代からのお約束である。 『古事記』のヤマトタケルは敵地潜入の際女装をしており、見た目から敵の油断を誘っている描写であり古代の英雄像がゴリマッチョではなかったと分かる。

源平合戦で大きな戦果を挙げた源義経も小柄な男であると描写される。

昔話の『お伽草子』の「一寸法師」、『金太郎』、馬琴の『南総里見八犬伝』などは明らかで、小さいもの、一見か弱そうな者が大きなものを打ち倒すという日本人独特の〈小さ子〉に対する信仰がよく見える。これは民俗学でいう小さい者(子供・背丈の低い者・か弱い者)には神の霊威があり、強大な力を持っているという考え方である。

日本のアニメや漫画では欧米に比べて戦う少年少女が圧倒的に多いと云われるが、その根底にはこの〈小さ子〉信仰が流れており、小さいのに、ではなく小さいから強いという考え方があると考えられる。

現代の漫画にも引き継がれており、代表的なところで『幽遊白書』の飛影、『H×H』のキルア、『BLEACH』の日番谷冬獅郎、『るろうに剣心』の剣心、『ヴィンランドサガ』のトルフィンなどがそうだろう。

剣心を除いてチビでクールで目つきが悪いというテンプレをベース(あくまでキャラ造形の基盤)に持っており、リヴァイもこのテンプレを踏襲しているといえる。

絵面的にもダイナミクスがあって良い。

 

②リヴァイ兵長の元祖は牛若丸?

リヴァイ兵長の造形で最も元祖として似つかわしいのは飛影では無く、先述した源義経の子供の頃でもある『牛若丸』だろう。

牛若丸は〈小さ子〉信仰にのっとった前髪の残る(元服前)の小柄で身軽な少年英雄であり、大男の弁慶を軽く打ち負かす強者であると同時に、源義朝の遺児として迫害を受け鞍馬山に出家に出された貴種である。

リヴァイ兵長は年齢こそ30代のおっさんだが、小柄で一見華奢(着痩せタイプ笑)、身軽に飛び回り巨人を倒している。

一見ジョンコナー風のあのツーブロは、元服前の前髪や若衆髷を想起させないこともない。

地下街のごろつき上がりという割に、クラバックという襟飾や身だしなみの清潔さ、趣味は紅茶など気品がありそうな特徴を持っており、ストーリーが進むと明らかになる出自では、王家の武家だったが迫害を受けて隠れ住むようになったアッカーマンという一族の末裔であると判明する。

牛若丸は成長して義経と名乗り、源平合戦で多大な成果を挙げた英雄となる。

これも進撃の巨人世界で巨人を倒し人類を救う英雄として描かれるリヴァイと重なる。

 

③リヴァイ兵長=世界の中の日本人

日本人含むモンゴロイド(アジア人・黄色人種)は人種的特徴でいえば、コーカソイド(白人)・ネグロイド(黒人)と比べて小柄で線が細く、目鼻立ちもほっそりして小ぶり、比較的童顔といって良い。

進撃世界の日本人枠のヒィズル国人はキャラクター的にミカサであるが、イメージ的にはリヴァイが担当していると思われる。

リヴァイは小柄で目は比較的細め、童顔で黒髪である。同年代のエルヴィン、ハンジら始め他のエルディア人のキャラクターがコーカソイド的特徴を外観に強く持っている(また後半で出てくるオニャンコポンはネグロイド系の造形)ため、集合絵では、一見欧米人に囲まれたアジア人に見えてしまう。

そんなリヴァイが無双するという部分にある種のロマンを抱くことは、恵まれた体躯が全てではない小さ子信仰の土壌もあり日本人には受け入れやすいだろう。

 

2性格的な魅力

①作中屈指の仕事人

シンゴジラ』は欧米で不評だったが、その理由は主人公たちの背景(家庭・内面)の描写が薄かったという部分がある。日本においては労働とそれ以外の区別が明確ではなく、仕事が時として生き様を表していることも多い。リヴァイはその仕事が生き様を表す典型である。

言動が荒いため、初見では強調性がない一匹狼的なキャラクターを想像するが、実際は集団主義の中で己の役割を理解し全うする職人肌で、スタンドプレーをしないキャラクターである。

情が深い描写を描きながらも、大局を見て時には冷静冷酷な判断が下せる人物でもあり、よくある仲間想いのキャラクターとは一味違った理性的な大人の苦味を含んだ魅力として描かれている。

己を殺し全体(人類)を生かすために粉骨砕身する姿のストイックさに魅力を感じる人は多いだろう。

②人類最強の中間管理職

上司にしては仕事をしっかりとこなし、自分の役割をきっちり把握して、上司が間違ったら面子は守りつつ諫言をし、時には汚れ役も引き受けてくれる信頼のおける部下である。

逆に部下に対しても常にケアを怠らない気遣い上手として描かれている。

それが最もよく表されているのが、ジャンが殺人を躊躇った事でアルミンが初めて殺人を行った有名なシーンである。

殺人を後悔するアルミンに対しては、事実は変わらないと諭し、そのおかげで仲間が生き残ることができたと感謝を告げ重荷を降ろさせ、同じく殺せなかった後悔をするジャンには、自分の失態を受け入れるよう諭し、殺人を躊躇った判断を否定せず、考え方が固定してしまわないようにフォローした。

人類最強という肩書きと一見粗暴な言動の裏で、鎌倉から続く封建社会意識のまだわずかに残る日本のサラリーマン的な(それもベンチャーの社長や自由な熱血新人ではなく中間管理職)立ち位置での有能さがキャラクターに深みを与えているといえる。

 

3構造的な魅力

①キャラにギャップを重ねると人間になる

ここまでくればお分かりだろう、リヴァイ兵長の魅力はギャップといえよう。

  • 人類最強→なのに小さい
  • 粗暴→協調できる大人
  • クール→場合によっては気遣いもできる
  • 見た目若く天才風→歴戦のおっさん兵士

これらは矢印の前と後どちらかだけでは大した魅力にならない。

前半はただのテンプレキャラであるし、後半はただのモブキャラである。

これがいわゆる不良と捨て犬の法則であり、ギャップによって一気にキャラクターが深まる。

しかもリヴァイはここにさらにもう一段「かわいげ、人間臭い欠点」というトッピングをしている。

  • 人類最強→なのに小さい→チビをちょっと気にしている
  • 粗暴→協調できる大人→でも口下手で冗談がつまらない
  • クール→場合によっては気遣いもできる→潔癖で掃除に小うるさい
  • 見た目が若く天才風→歴戦のおっさん兵士→掃除の時はエプロンと三角巾

そこにさらに「多くの仲間を失って、彼らの命を背負って苦闘を続ける」という悲劇性で包む。

この何層にも及ぶギャップのミルフィーユにより、リヴァイ兵長というキャラクターが、キャラというよりもはや人間として魅力的に感じられる構造になっている。

 

②対象ごとに刺さるアンカー

ここまで多重構造になると間口が恐ろしく広くなるだろう。

少年たちには、人類最強、クールな吊り目キャラというだけでもう厨二心をくすぐられる魅力的なキャラだろう。

女性的には強いのに小さい、清潔そう、実は優しいなどギャップだらけなので母性本能や乙女心にアンカーが突き刺さること間違いなし。

また、BL好きの女性にとっては、リヴァイ兵長の身近に配置されたエルヴィンという上司、またはエレンという部下のそれぞれの主従関係というブロマンス的なポイントがあるようだ。

そして社会人にはリヴァイの仕事人としてのストイックさや部下への情の描写が憧れるポイントだろう(私も部下になりたい!)

 

○まとめ

リヴァイ兵長の魅力を自分なりに分析してみたが、当てはまった方はいただろうか。

 

ストーリーも示唆に富み、キャラクターも魅力的な『進撃の巨人』、これを機会にまたリヴァイ兵長のかっこよさを読み直して再確認してみてほしい。

 

ちなみに私はアニメより原作派。

原作の兵長は圧倒的に渋カッコよく見えるので好きです。

 

 

 

 

 

 

【映画紹介】『スワロウテイル』90年代の都市幻想

本作は1996年に岩井俊二監督により製作された邦画である。

混沌として暴力的な世界観ながら、不思議な透明感に溢れた魅力的な群像劇となっている。

 

○モラトリアムの物語

よく(悪い意味で使う場合の)雰囲気映画の代表のように言われるのを見るが私はそうは思わない。
設定や舞台こそ大分漫画チックであるものの、描かれているのは、大都会で故郷も寄る辺もない蒼氓がどのようにして居場所を見つけアイデンティティを確立していくかであり、若者の夢や挫折を描く青春群像劇でもある。アゲハを中心にしっかりと個々の心の動きの描写もあり、この映画にはしっかりと訴えるテーマが含まれているだろうと思う。

バブル崩壊後の不況の只中で、人生ハードモードなロストジェネレーション世代の若者が溢れた当時、夢やお金、諦め、必死に生きる作中の登場人物たちにシンパシーを覚える人も多かったのではないだろうか。

○猥雑なネバーランドとしての円都

それはそうと、やはり作品の空気感が良い。
香港などアジアの都市をモデルにしたような多国籍で猥雑な雰囲気と、バブル時代に溢れていたであろう日本のエネルギッシュさが溶け合った独特の都市イェンタウン(円都)。
イェンタウン(円盗)と呼ばれる移民の登場人物たちは英語中国語日本語などをごちゃ混ぜになった言葉を使っているのもおもしろい。
混沌としていながら透明感に溢れている世界観は香港の王家衛に通じるものがあるが、王家衛作品の色彩が滲むような湿度を感じる映像に対して、岩井俊二作品はどこかくすんだ埃っぽいような色味が特徴である。日本の空気は海外の他の気候帯に比べると少し霞がかったような色合いになるので、それが反映された本作の映像は、多国籍感はありながらもやはり日本を感じさせる。それよりも作品に流れる自由の雰囲気こそが両者が似て感じる箇所なのかもしれないと思った。
仲間のランの営む都市の僻地の空き地の店「青空」の、あの誰にも縛られない清々しい佇まい。
映画当時の、あるいはそこから続く現在の日本の都市の閉塞感を知るからこそ、治安は悪くとも自由なあの世界観に憧憬を抱くのかもしれない。

○当時の人気俳優たちの名演

移民の物語といってもメインの登場人物は多く日本の俳優が演じている。
主役のアゲハを演じている伊藤歩は、加工されていない透き通った美しさがある。
際どいシーンも演じたその女優根性素晴らしい。
グリコは歌手のCHARAが演じているのだが、アゲハとは違う妖艶な美しさがとても魅力的。なによりもあの甘さと切なさが共存する独特の声は他の誰にも出せないだろう。
グリコの恋人フェイフォンを演じた三上博史、青空の店主ランを演じた渡部篤郎(この役がまたとんでもなくかっこいいんだ!)や、マフィアのボスを演じた江口洋介山口智子桃井かおり、小橋健児、大塚寧々などが演じる脇を固めるキャラクターも皆魅力的。
彼らにはそれぞれの物語があり、本作スワロウテイルはその交差路を切り取った映画ということなのである。

○センチメンタリズム溢れる名曲

主題歌の「スワロウテイルバタフライ」を歌うCHARAをボーカルに据えたイェンタウンバンドは作品から飛び出し現実でデビューしている。小林武史が最も脂の載っている90年代の楽曲で特にストリングスラインのアレンジがかっこいい。

粗削りさも魅力の憧憬溢れるスワロウテイル
オススメ。

 

スワロウテイル好きにオススメ】

王家衛監督『恋する惑星

返還前の香港を舞台にした2組の男女の恋模様をスタイリッシュに描いた本作。撮影監督クリストファー・ドイルのカメラがとらえた返還前の多国籍で猥雑な香港の自由で瑞々しい空気感は必見。肌に合う方は続編に当たる『天使の涙』でさらにアングラな香港に潜ってほしい。

 

スワロウテイル

スワロウテイル

  • 発売日: 2014/06/20
  • メディア: Prime Video
 

 

 

【アニメ紹介】『FLAG』レンズが写す争いと祈り

現実と地続きのリアルなロボットが登場する戦争を報道カメラマンの目線で描く意欲作『FLAG』を紹介したい。

 

あらすじ

内戦が続くアジアの架空の小国ウディヤーナ。その和平交渉の架け橋となった一枚の写真とそこに描かれた旗「FLAG」。和平協定を前にその平和の象徴FLAGが何者かに盗まれる。撮影者の若いカメラマン白須冴子は、国連軍の依頼でFLAG奪還特殊チームの報道員として内戦の陰謀の渦中に巻き込まれて行く。


作風

物語自体はどちらかというと地味で、ハーヴィックという人型戦闘ロボットが出てくるのだが、その扱い方もロボットアニメのそれとは異質である。

淡々と描かれる作戦や戦闘は、ロボアニメの肉弾戦とは程遠く、あくまで現実に存在する軍用兵器としての行動しかしないので、そういったものを期待すると拍子抜けするかもしれない。

逆にその地味さがまたリアルに感じられて好感が持てる。

 

斬新な映像

この物語の特徴は、ほぼ全ての映像が登場人物のカメラやビデオのレンズ越しに描かれているという点である。

アニメとは本来三人称である。

小説で言えば天の声の立ち位置から俯瞰して物語を見る事が出来るということである。

しかし、このFLAGに関していえばどちらかといえば一人称に近い演出がなされている。

我々視聴者はカメラのレンズ、つまり主人公白須の目線・感情を通して物語を見るという面白い構造になっている。ことに戦闘シーンなどではこの、演出が功を奏し実際の戦場カメラマンが撮った映像のような独特の緊張感が再現されている。

 

被写体としては極端に映ることが少ない主人公の心情や成長をカメラを通して描くという演出も面白い。

白須はカメラマンとしてはまだ未熟。当初は目標もあいまいで、当初の彼女が撮影した写真を見ると被写体との距離感がまだうまく取れない様子が見て取れる(現地の人を遠くから隠し?撮りしたり)。その後白須は国連軍のハーヴィック班に随従して過ごすようになるが、作戦が始まったばかりの頃の彼女のレンズには、オロウカンディ少尉、ハカン少尉、ベローキ中尉や食事班のスタッフといった好意的で親切に話をしてくれる面々との会話ばかりが残っており、エバーソルト隊長、ハーヴィック操縦士の一柳中尉ら、少し近寄りがたい無口な面々については遠巻きに見るばかりであった。初めての人間関係の中での彼女の心情がここで言外に描かれている。そこから少しずつ絆をかわし、白須がゲストではなく仲間として彼らの中に溶け込んでいく様、白須自身の迷いや努力、仕事への向き合い方の変化などが、会話などにより淡々と描かれている。

一人称に"近い"と言ったのは、視聴者はカメラの先の被写体を通して撮影者の白須の感情を知るという部分である。これはモノローグでの独白のようにダイレクトに主人公の考えを示すわけではない、あくまで視聴者の受け取り次第という諸刃の剣である。

そこで時折現れて、物語を客観的にナレーションをするのが白須の先輩カメラマン、赤城だ。

赤城により戦局の情報やウディヤーナという国の文化、白須の客観的な人物像など、白須の把握していない、また説明できない部分のフォローがなされることで、この斬新な表現方法が成り立っている。

個人的に赤城の説明は、ポエムが入りすぎていらいらするが、ベトナム戦争時の戦場カメラマンの手記などを読むと、やはり何処か小説に近いポエミーで感傷的な描写が多かったので元来そういうものなのかもしれない。

 


ジャーナリズムとはなにか

今も何処かで起こっている紛争とは我々とは無関係なのか。

歌のないシンプルなオープニングでは、ピュリッツァー賞で見るような戦場などを写したいわゆる報道写真と、日本で平和に育つ白須の成長記録が交互に画面に登場する。

二つの世界がFLAGで結ばれることにより、我々はそれが地続きであると再認識するのである。

 

 

 

【映画感想】『茄子-アンダルシアの夏』郷愁と男たちの熱い戦い

過酷なロードレースが行われるアンダルシアを舞台にした人間ドラマ。

監督はスタジオジブリ作画監督として数々の作品を手掛けてきたベテランアニメーターの高坂希太郎
1時間弱の短い時間の中で、
図らずもかつて背を向けた故郷のアンダルシアを、もっとも避けたかったタイミングで訪れることとなった、ロードレーサーの主人公ペペの故郷への葛藤を、ロードレースという形を借りて言葉に頼ることなく見事に描いている。
原作は未読なのだが、この映画を見ると毎回茄子のアサディジョ漬けを食べてみたくなる。すごい旨そう。

果てしなく続く荒野のロードレースという下手をすれば単調になってしまう舞台を、動きや構図の巧みさで飽きさせることなく演出。コメディな仕掛けも随所にあるので重くなりすぎることもない。
さらにレースの孤独感・緊迫感が増す後半戦、ラストスパートのデットヒートなど、こちらまで力が入り画面にのめり込んでしまうほど作画の力も素晴らしい。

ナチュラルな音楽の使い方も好印象。
スパニッシュギターの調べが乾いた荒野の映像と合わせてスペインらしさを醸し出し、孤独な戦いを続けるペペの心情を雄弁に語る。小林旭の「自動車ショー歌」を忌野清志郎がカバーしたエンディングも小気味よくgood。

もっとも好きなシーンは、酒場の親父フェルナンデスが歌うあのアンダルシアの歌の場面。
無骨な歌声が、レースの熱をそっと冷ますように暮れゆくアンダルシアの荒野に響き、そこからペペの心情へと重なってゆくあのシーンの素晴らしさ。

越えたかった兄。
かつての恋人。
逃げ出した故郷。
がむしゃらに走ってきた人生。
故郷と向き合い、背を向けていた過去を人生の一部として受け入れるペペ。
苦にばしった深みのある余韻がこの映画を静かだが印象的なものにしている。

主人公ペペの声を演じたのは大泉洋。これが素晴らしくマッチしていた。
余談だが、監督は水曜どうでしょうのファンだそうで、続編のスーツケースの渡り鳥では、同番組ディレクターである藤やんとうれしーが友情出演している。

青空とアンダルシアの大地
歌と踊りと人々の朗らかさ
悲喜こもごもの人生の素晴らしさ

爽やかな余韻を残す良作。
オススメです。

 

茄子 アンダルシアの夏

茄子 アンダルシアの夏

  • メディア: Prime Video